第9話えっ、勉強……書き取りにそろばんまで!?

  「あっ、あの楊膳部長」

「何ですかリンリン、もう朝餉の支度が終わったのですか?」


 書類に向かっていた楊玲は、リンリンを一瞥し煩わしそうに右眉をくいっと上げる。


「い、いえ、ただお聞きすることがあるのを忘れていまして」

「そうですか、手短に言いなさい」

「はい、棚の中にあった甕の中の蜂蜜は使用しても良いのでしょうか」

「目ざといですね。もう見つけましたか、えぇあれは夕べ養蜂業者が持ってきたものです。後宮専用ですから、一度にすべて使い切ってしまわない程度にならよろしいですよ」

「ありがとうございます。滋養のつく温かい飲み物を作ります……えっと後お話っていうのは……」

「それは、支度が終わった後でと言ったでしょう」


 書類に目を通しながら振り向きもしない楊玲のピシャリとした取り付く島もない返事に、リンリンは後ろ髪を引かれるような思いでその場を後にし、頭に残る黒いもやもやを振り払おうと炊事場で中華風ミルクセーキづくりに没頭した。


 蓋付きの小壺の中に練り胡麻と卵、山羊の乳を入れそれに蜂蜜を加えたらシャカシャカとい振りまくる。

 その後、煮立った鍋の湯を甕に移し、その中に小瓶を浸してしばし湯煎する。

 卵が凝固しないように時間には気を付けて、仕上げに肉桂の粉と白胡麻を振りかける。

 ミルクセーキ改め、胡麻蜜乳の完成だ。


 若手料理人、女性料理人たちの盛り付けた八宝粥と野菜のあんかけ蒸し鶏の横に甕を乗せて朝餉の支度はすべて終了した。

 味付けや仕上げはリンリンが担当したが、料理人たちは期待以上にテキパキと的確な調理手順でサクサクと仕事を進め、年嵩の女性料理人たちが蒸し鶏に取り掛かっている間に小怡たち若手女性料理人は宮女用の胡麻粥にニラ饅頭を大量に作り終え、連携のとれた働きぶりで以前よりも短時間で終えることが出来た。


「料理人の皆さん、私のような若輩者の元でやり難かったと思いますが皆さんの仕事ぶりには感服いたしました。ありがとうございます」


 本心から出た言葉とお辞儀、そんな一見すると子供のようにしか見えない若い女性料理長に料理人たちは拍手と笑顔で応えてくれた。


 パチパチパチ、なかなか鳴りやまぬ拍手に照れて顔を伏せると、温かくそして少し荒れた掌がリンリンの拳にそっと触れた。

 顔を上げると、そこには泣き笑いのような表情を浮かべた胡春がいた。


「あたしらこそあんたにお礼が言いたいよ。自分たちに料理人が務まるなんて今日の今日まで微塵も思っちゃいなかった。けど、アンタの言葉でハッとしたそうだよね、家庭にだって食事はあってあたしらはそれを日常のこととしてやれていたんだから、上品な料理だってちゃんと教わればやれるはずだってね! 料理は料理なんだ」

「そうだよ、そうだよ」


 湧き上がる歓声と高揚する感情に、リンリンの胸は熱いもので満たされた。

 良かった。ここに来て良かった。料理に携われて本当に良かった。

 ずっと感慨に浸っていたいところだったが、配膳係の女官が朝餉を取りに来たあとはおそらく今日一番の難関が待ち構えている。

 楊玲による例の大事な話だ。

 賄いの粥もそこそこに、リンリンは重い腰を上げ再度膳部長室へ向かった。


「リンリン、早かったですね。ではあなたがこれからやるべきことについて話しましょう」

「すみません!」


 まだ話が始まっていないのに頭を下げているリンリンに、楊玲は唇にうっすらと戸惑いをまとわせ扇子をピシリと叩いた。


「何を謝っているのか分かりかねますが、リンリンあなたは自分の名を書くことが出来ますか?」


 てっきり説教が始まると思い込んでいたリンリンは拍子抜けしてぽかんと口を開け、無言のまま楊玲の指さした印紙の上に筆でさらさらと『玲玲』と書き記した。

 実際のりんの名はひらがななのであるが、それではここの人々には通じない。

 当て字で書いてみたのだ。


「何だ、書けるではないですか。読み書きができぬと聞いていたものですから、そこから教えねばならぬのかと案じておりましたよ」

「お、教える?」

「えぇ、そうですよ。あなたは料理長になったのです。今後祝い事の席などでお品書きを必要になるような機会もありましょう」


 確かにそれもそうだ。

 高級なコースなどにはお品書きがつきもの、それが出来ないとあっては料理長の名折れだ。

 リンリンはふむふむと頷き、楊玲に教えを乞うことを自らも求めたい心持ちになった。


(高校生になったら古文の授業が始まって、漢文とかもそこそこ出来るようになってたかもしれないけど、入学前にこっちに来ちゃったからチンプンカンプンなんだよねー漢字とかうっすら分かっても意味が違ってたりするときあるから、迂闊に使ったりも出来なかったんだ。いい機会だし、普段の生活にも役立ちそうだからこの機会に勉強させてもらおう。)


「はい、楊膳部長のおっしゃる通りです。私もお品書きをきちんと書けるようになりたいと存じます! お願いいたします」「では、本日の夕餉の支度が終わった後、この部屋に来て手習いをすることにいたしましょう。紙や筆必要なものは用意しておきます」

「はいっ! 頑張りますっ!」


 リンリンはやる気満々だった。

 そう、この時点では。


 夕餉の酸辣湯炒飯、ニラときのこの卵とじ、擂沙圓(白玉団子)の砂糖蜜添えをつくり終えると朝餉の残りの粥をすすって軽い夕餉を終え、リンリンは勢い勇んで楊玲の元へと向かった。

 格好いい漢文ですらすらとお品書きを書く達筆になった自分の姿を思い浮かべながら。

 しかし、リンリンを出迎えた楊玲は手に意外なものを持っていた。


 シャララーパンと音を鳴らすそれは、菅沼飯店で祖父が帳簿をつけるときに使っていたもの。算盤だ。


(あれっ、私これから書き取りをやるんだよね。算盤が関係あるのかな。あっそっか楊膳部長がさっきまで仕事で使ってて、だからたまたま持ってるだけかなーうん、そうだよね。)


 自分を納得させ、動揺を落ち着かせたリンリン。

 何故算盤を見ただけでこうなるのかというと、幼少の時に祖父に言われて近所の算盤教室に通わされていた記憶が蘇ってしまうからだ。

 リンリン、当時のりんは集中力の続かない子供で外を駆けまわって遊ぶのが大好きで、じっと座って木の珠に向かって先生の言葉の後にパチパチとひたすらはじき続けることが苦痛でならなかった。

 正座で足も立ち上がれないほどにビリビリ痺れてしまうし、計算が必要なら電卓を使えばチョチョイノチョイですぐに出来るではないか。

 そのうち足が遠のき、算盤教室の時間に近所の公園で一人でキィキィとブランコを漕いでいたところを店の常連客のハオさんに目撃され、祖父はそんなに嫌ならもう行かなくてもいいと寂しそうにポツリと言いりんの算盤との付き合いは一月も経たずに終焉を迎えた。

 もう通わなくていいということについてはとても嬉しかったのだが、その時の祖父の寂しそうな顔が胸に引っかかりりんの中で算盤というものは、思い出したくない心の扉の中にしまい込んで頑丈な鍵をかけているような決して触れたくない存在になってしまっていたのだ。

 そんな算盤と、まさかこのような場所で再会してしまうとは。


 ほーっと息を吐くリンリンの横で、楊玲は机の引き出しからもう一つの算盤を取り出しことっと机の上に置いた。


「読み書きも大事なことですが、御前房を任されている以上算術も大変重要です。予算は私が任されていますが、献立を立てて材料を発注するのはあなたですからね」

「そ、そうなんですか。そっかーそうなんだぁ……」


 脂汗が、たらりとこめかみから流れ落ちる。


「ほーらごらん、あの時ちゃんとやっていればこんなに困ることはなかったんだよ。店の経営を任せるには計算がしっかり出来ないといけないよって爺ちゃん前っからちゃーんと言ってただろう」


 それ見たことかというような祖父の高笑いがどこからか聞こえてくるような気がして、リンリンはそっと目を伏せた。


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