第8話大出世、リンリン頑張ります。あれっ!?

「リンリン、明日からあなたを御前房の料理長に任命します」


 去り際に楊玲から爆弾発言を聞かされ、リンリンはふわふわとした気持ちで寝所へとたどり着いた。

 どのようにして戻ったかも記憶から抜け落ち、そのままパタンと寝台に倒れ込むとピンと張りつめていた糸が切れたかのように脱力して眠りこけた。


 下働きの下女から料理長に就任、二階級特進どころではない異例の出世、まさかまさかの大抜擢だ。


「よーし! バリバリやるぞ」


 夢も見ずに泥のようにぐっすりと眠ったリンリンは、鶏が鳴くと同時に寝台を飛び出し新たな決意を胸に髪を編み作業着に着替えて、誰よりも早く御前房に向かった。


「さてさて、朝餉は八宝粥に鳥の蒸し煮だー! 朝の搾りたての山羊の乳も、生みたて卵ももう来てる! うん、卵とミルク、砂糖……じゃなくて何入れようかなー」


 ぶらぶらと棚を探っていると、大きな甕を見つけた。

 蓋を取りぺろりと嘗めると、甘い……この琥珀色の色と味。

 まさしく蜂蜜だ。


「うわー、蜂蜜もあったんだ! これ使っていいのかな。うーん、後で楊膳部長に聞いてみよう」


 砂糖大量使用事件の後、リンリンは甘味調味料に対してすっかり慎重になっていた。


「うーん、そろそろ通いの料理人さんたち来るよね。平さん、大丈夫かな」


 昨日の平の真っ赤になった怒気をはらんだ顔、膝の上でぶるぶると震える拳が脳裏によみがえってくる。


「はぁー、まぁやるしかないよね」


 上手くやれる気は針の先ほどもないが、逃げるわけにはいかない。

 立ち向かう、ではなくなんとか協力し合って良い料理を作り後宮の皆さまを楽しませたい。

 そう思えば、ちょっとした嫌味などどこ吹く風で聞き逃せるような気になってくる。


 ドタドタドタ、廊下から聞こえる足音がどんどん近くなってくる。

 料理人たちの出勤だ。

 リンリンは少し身構えて、彼らの到着を待った。


「おはようございまーす!」


 しかし、現れたのはリンリンとそう年の変わらない若い料理人数名と下女中たちだけで、平や年配のベテラン料理人たちの姿はなかった。


「あれっ、平さんたちは?」


 リンリンが尋ねても、若い料理人たちは気まずそうに顔を伏せるだけだ。

 このまま朝餉の準備をしても良いのだろうか?

 挨拶もなく勝手に始めてしまったら平たちベテラン料理人達が、腹を立てるのではないだろうか。

 どうしたらいいのか分からず、何の指示も出せないでいるとそこにまた別の人物が現れた。

 音もたてずにスッと御前房に顔を出したのは、楊玲だ。

「おはようございます。リンリン料理長、料理人、下女中の皆さん」

「あっ、おはようございます」

「おはようございまーす」


 まだ朝餉の支度をしていないのかと叱られるのではと、身構えたリンリンはぎゅっと作業着の裾を握り締めて次の言葉を待った。


「えー、料理人の皆さんはご存じでしょうが、平さんを始めとした十名の料理人は北方の趙将軍の屋敷へと移動になりました。これからは新料理長と共に残った皆さんで力を合わせてこの御前房を盛り立ててください」

「えっ」


 趙将軍とは天子の生母である聖華(セイファ)皇太后の従妹甥で、天子にとってはまたいとこにあたる。

 娘の明煌(メイファン)は入内してこの後宮で暮らしており、正室ではないが皇后に次ぐ皇貴妃の位、側室では最上位だ。

 趙将軍自体も武官の中では最高位であり、数十年前の大きな戦では獅子奮迅の活躍を見せ疾風の大将軍という異名で民の信も厚いこの地の名士であり、その屋敷で働くということは大変名誉なことであり、そこまでの格落ちというわけではないのだが、リンリンはそんないきさつも後宮の内情もまだ何も知らない。

 自分の抜擢について納得のいかない平達が反旗を翻し、移動になってしまったのだと顔を青くして小刻みに震えた。


「ちなみに平さんの移動は趙将軍たってのご希望です。辛党の趙将軍は以前趙将軍の屋敷で催された宴会に平さんが出張して振舞った花椒をふんだんに使った羊肉の串焼きを大変お気に召されて、是非にとの申し出があったのですがこちらに料理長が不在だったものでしばし待っていただいていたのです。あちらでは総料理長ということになりますから、栄転と言ってさしつかえないでしょうね」


 不安を払しょくしてくれるような楊玲の言葉に、リンリンは心から安堵した。

 いくら自分が大出世できても、図らずもそれで人を追いやってしまっていたのでは夢見が悪いではないか。


「それで、本日は致し方ないですが数日のうちに新しい料理人を雇いたいと思いますがどうでしょうか。新料理長」


 上司である楊玲に問いかけられているというのに、リンリンは何も答えない。

 新料理長という言葉が耳になじまず、自分のことだと気づいていないのだ。


「リ・ン・リ・ン料理長!」


 尖ったナイフのような切れ味の声で再度呼ばれて、やっと自分のことと気付きリンリンは慌てて口を開いた。


「は、はいっ。えっと、料理人は残ってくださった皆さんとここにおられる女中、いえ女性の皆さんでいいと思うんです」

「えっ、下女中の皆さんですか?」


 リンリンの意外な返答に、珍しく楊玲が驚きの声を上げた。


「はいっ、ここにいる皆さんはご家庭ではずっと炊事をされていたと思うんです。家庭の食事を賄う度量があれば、女性が料理人として働くことに何の問題もないと思います! そもそも私自身が女性ですし」


 急に思いついたことではない。

 下働きの最中の雑談で、先輩女中たちが冷たく冷えた賄いの饅頭に愚痴を垂れ、自分が家庭で作っていた饅頭は少ない材料でもっと美味しくできていたと口々に言い、それを小耳にはさんだリンリンも何故家庭で料理を作り慣れていた彼女たちが雑用しか任されないのか、ずっと不可解に思っていたのだ。

 料理人の足りない今、この渡りに船の状況を生かさぬ手はない。

 リンリンはキッと真っすぐな目で、楊玲を見つめた。


「そうですか、しかし皆さんにも訊きませんと。リンリン料理長はこう申しておりますが、下女中の皆さんはどうですか? 料理人としてやっていくおつもりはありますか」


 じっと黙って話を聞いていた先輩女中たちは、互いに顔を見合わせひそひそと小声で何かを相談し合い、代表の胡春(フーチュン)、昨日の試食にもいたベテラン女中が何かを決意したような顔で楊玲に一歩足を近づける。


「出来ますとも! 手前どもはこちらにご奉公に来る前は夫の祖父母、両親、弟妹、そして子供達の飯を一手に引き受けて少ない材料でやりくりしてこしらえていたんです。任せてください」


 その迫力に楊玲は半歩後ずさりしかけた足元を踏ん張り、その場にとどまって真摯にその言葉を受け入れた。


「分かりました。皆さんの言葉を信じましょう、そうなると下女中が足りなくなりますからそちらで人を探しましょう。それまでは皆さんに仕事を兼任してもらうようになりま」

「はいっ、出来ます!」

「任せましたよ」


 食い気味に自分の言葉を遮るほどの胡春の圧に少し気圧されていそうな楊玲の様子を見て、笑いをこらえつつ下女中改め女性料理人たちとリンリンは目くばせをしあって声に出さずに決意を確かめ合った。


 今日から御前房、新体制のスタートだ。


「さぁ、すっかり時間を取らせてしまいましたね。さて皆さん朝餉の支度をお願いしますよ」

「はいっ!」


 全員で大きな声で返事をし、さぁこれから調理だと思った矢先、楊玲はスタスタとリンリンに近寄り、ひそひそと耳打ちをした。


「リンリン、朝餉の用意が終わったら膳部長室に来なさい。大事な話があります」


 何の話かは伝えずそのまま立ち去った背中を、リンリンはまたも襲ってくる不安と共に見送る。


(私、何かへましたのかな。やっぱり先輩たちを料理人にするとか相談もなしに決めちゃったことで、こってり叱られちゃうんだろうか……私だけまた下働きに逆戻りとか)


 もうもうと立ち籠める八宝粥や鳥の蒸しあがる良い匂いにも紛れないほど、リンリンの気持ちは重くなった。

 そして、様々な議題のせいで初めに訊きたかったことを忘れていたことにも気付く。


(あっ、蜂蜜使っていいか訊いてない。朝餉に温かいミルクセーキ出したいのに!)


 まだ準備中だというのに、リンリンは楊玲を追いかけ膳部長室へと足を踏み入れた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る