第3話決戦近づく! さぁ何を作ろうか

 楊玲からの命を受けてからリンリンは御用房での雑用を免除され、夕餉の片づけが終わった後の炊事場で料理の試作をしてよいというお許しも得た。

 それから一昼夜が経ったのだが、リンリンは未だ炊事場を使っておらず祖父のノートと睨めっこだ。献立が全く決まらないのだ。

 前菜、主菜、点甜と少なくとも三品は考えないといけないというのに。

 言い渡された試食日は一週間後の金曜日、今日は土曜すなわち後六日しかない。


(あーもういつまでも悩んでいてもしょうがない! とにかく何か作ってみよう。こっちに来てから全然料理してないから、勘を取り戻さなくちゃ)


 松明の明かりが消えすっかり暗くなった廊下を、壁に手を付きながらそろりそろりと歩を進める。宮灯(ランプ)は高価すぎて天子や御子、妃たちの居室にしかなく、蝋燭ですら下々のものが自由に手にすることはない。

 やっと御前房にたどり着いたリンリンは、炊事場の調理台の上にある油皿に松明の残り火を使ってなんとか明かりを灯した。


「あー松明がまだ燻っていてよかった。でも私が気付かなかったらあやうく火事になってたところよね……平さんには感謝してほしいわ」


 ブツブツ文句を言いながら、ゆらゆらとした小さな明かりの前でノートを開く。


「うーん、私が好きなもの。エビマヨ、マヨネーズはうん、油も卵もお酢もあるし自作できるよね」


 早速作ろうと思い食料貯蔵庫を覗いたリンリンはハッとした。


(火がない! 竈に火が無ければ試作なんてできやしないじゃない!)


 ここでの暮らしにすっかり慣れたと思っていたリンリンだったが、かつての明かりも調理用の火も思うがままだった現代人としての利便性を享受していた感覚はなかなか抜けてはくれないようだ。


「はー、明日明日。火を消さないように平さんに頼んでおかなきゃ……ガミガミ怒鳴られそうで嫌だなぁ」


 肩を落としまた暗い廊下を戻ろうとしたリンリンの目の前を、パッと明るい光が照らした。

 目の前に立っているのは、リンリンより少しだけ背が高く水色の面紗(めんしゃ、ベール)で顔を隠した少女だった。


(燭台を持っている。お后さまたちに仕えているような身分の高い女官かしら)


 リンリンがぼんやり突っ立っていると、少女は自ら面紗を持ち上げにっこりと笑いかけて来た。


「そなた、夜更けにこんなところで何をしているのか?」


 少女の声は少し掠れていたが天鵞絨のようになめらかで、照らされたその顔も瓜実形の上品な輪郭を大きなアーモンドのようなぱっちりとしていながら切れ長で神秘的な印象さえ与える目元、すっと通った鼻筋に花びらのような深紅の唇が彩る花のような美しさだった。


(わぁ、今まで見たことが無いくらいにめっちゃ綺麗な子)


 ポーッとして見惚れてしまい返事をするのも忘れてしまったリンリンに、少女はずんずんとにじり寄りぐいっと顔を近づけた。


「な、に、をしているのだ」


 さっきよりゆっくりとした発音、言葉が分からないと思われたのかもしれない。

 リンリンは慌ててぽかんと開いていた口から音を発した。


「あ、ああああ……」


 何とか絞りだした声は、言葉にならない。


「あ、ああああ?」


 ちょこんと首を傾げる仕草ですら実に優美だ。


(うわー、うっとりしちゃうってそれどころじゃないよ! これじゃ私不審者じゃない)


「私リンリン、ここの下女です。実は来週料理の審査がありまして、試作の許可を得ているのでここに来たんですが竈に火がなかったんです!」


 先ほどまでとは打って変わって早口でまくし立てるリンリンに呆気にとられたのか、今度は少女の方がぽかーんとした表情を見せた。


「そうなのか……では、我が火を用意してあげよう。しばしここで待つように」


 くるりと踵を返して廊下の奥へと消えていく少女の遠ざかる背中を見つめながら、リンリンはぐるぐると考えを巡らせる。


(すぐに火が用意できるなんて、あの子一体何者なんだろうか? まさか皇太后さまや皇后さま付きの女官? それにしてはちょっと若すぎるような……まさか誰かお后様の姫御子で皇女様ってことはないよね。うーんそんなまさかまさかはありえないだろう……後宮には社会勉強として行儀見習い扱いのお飾り女官として官僚のお嬢さんが来てることもあるって先輩たちが噂してたから、まぁそっち系のいいとこのお嬢さんっぽいな。ま、火が貰えるならそんなことはどうでもいいや。手元は油皿の明かりでも見えるしあの子が戻ってくるまでに、海老の下ごしらえでもしとくか)


「待たせたな。ほいっ」


 薄明りの中海老の殻と尾、背ワタを取っている短い間に、少女はあっという間にどこで入手してきたのか轟轟と燃え盛る松明を両手に持って戻って来た。

 かなり熱く重いだろうに、華奢な腕で軽々と炎を持ち運びえいっと竈に投げ入れるその姿は頼もしく力強く見えてくる。


「あ、ありがとう。あなたえっと」

「我のことはショウと呼ぶがよい。そなたは」

「わ、私はリンリンです」

「そうか、リンリンか。それでそなたはこれから何を作ろうとしておるのだ」


 炎に照らされた少女の目が、爛々と赤く輝く。

 好奇心の目だ。


「えっと、今日はえびま」


(マヨネーズって通じないよね。やっぱ)


「えびまという料理か」

「い、いえ、海老の卵油和えです」


(うん、間違ってはないよね。卵と油と酢で作るんだし)


「そうか、初めて聞く料理の名だな。興味深い我もここで味見させてもらうとしよう」

「えっ、でもこれから一から作るのでお時間がかかりますよ」


 こんな夜更けに上級女官を試作に付き合わせたなどということが楊膳部長の耳に入ってしまったら、どんな叱責を受けるか分からない。

 リンリンの胸は不安でいっぱいになった。


「いや、我も小腹が空いて眠れずに困っておったところだ! そなたも試食係が欲しかろう。何まだ宵の口だ、時間はたっぷりあるぞ」


(さっきまで夜更けって言ってたのに……うーでも何だかこんなにじっと見つめられちゃうと、何も言い返せない)


 興味の光で輝いたままのショウの瞳に押し切られ、リンリンはしぶしぶうなずき先ずはマヨネーズづくりに取り掛かった。


 蓋つきの陶器の小壺に卵三つと胡椒塩を入れブンブンブンブン何度もふり、混ざったところで胡麻油を少しずつ加えまた振る、振るを繰り返し、とろみが出てきたところで酢を加える……はずなのだがなかなかとろみがつかない。

 リンリンの腕はすっかり痺れてしまっていた。


(あー、ハンドミキサーが懐かしい。文明の利器の素晴らしさよー)


 はぁっとため息をつき、小壺を振る腕の力はどんどん弱まっていく。


「うむ、卵油とはずいぶん手間がかかるものだな。我に貸せ」


 ショウはサッと腕を伸ばし、リンリンの手から小壺をもぎ取りまるでマラカスでも振るようにリズミカルに振り回した。

 そのリズムが良かったのか、マヨネーズの素はどんどんとろみを増してゆく。


「あっ、ショウ! ちょっと手を止めてお酢を混ぜなきゃ」

「そうか」


 ショウの手助けもあり、合作の手作りマヨネーズ、卵油はハンドミキサーを使ったときと同程度のほんの十分ほどで出来上がった。

 後は海老に塩と片栗粉をまぶしてから油で揚げて、マヨネーズを和えるだけだ。


 熱い油でじゅわっとあげられてゆくぷりぷりの海老たち、ショウはいつの間にかリンリンの背後に来てワクワクとした目でその様子を見守っている。


「もう出来上がったのか?」

「もうすぐだよ。さっき振ってくれた卵油をかけたら出来上がり」

「ほほぉ、割合に簡素なものなのだな」

「ははっ、そうだねー。でもねー美味しいんだよー」

「それは楽しみだな」


 下女たちの賄い用の質素な土色の皿に載せられて湯気をもうもう立てている海老は、いつもより黄色味の強い卵油をふんわりとその身にまとってより一層美味しそうに見える。

 久しぶりのエビマヨ、もとい海老の卵油和えを前にしてよだれがじゅるりと垂れてきそうになるが、先走ってはいけない。

 先ずは火を用意してくれた彼女に、ご馳走してあげなくては。


「どうぞー」

「我が先に食すのか?」


 ショウは、きょとんと不思議そうな顔をしている。


「だって松明持って来てくれたでしょ。お礼、お礼」


 リンリンが差し出した皿を興味深そうに見つめながら、恐る恐る指先で摘まみぽいっと口に放り込んだ。


(あっ、私ったらお箸出すのを忘れちゃってた!)


 内心慌てるリンリンをよそに、ショウは指先が卵油で汚れるのも気にせずに二個、三個と海老を口に放り込んだ。

「はふっ、少々熱いが熱いうちに食すというのも良いものじゃな、それに誠に美味じゃ、海老にこのような味わい方があるとは。巷にはこんな料理があったのだな」


 まるで熱い食事を初めて食べたような新鮮なその反応、そして美味しいという言葉が嘘ではないと一目で分かるそのほころんだ顔に、リンリンは胸が熱くなるような喜びに包まれた。


(自分の作った料理を喜んでもらえるのって、やっぱり嬉しい!)


「良かったー上品な子のお口にも合って。あーでも手がべたべたじゃない?」

「うむ、そうじゃな」


 ショウは卵油でべとべとになった指先をぺろりと嘗め、その後リンリンの寝巻の裾でぐいっと拭った。


「ちょっとー! 何で私の寝巻で拭くのよ!」

「はっはっは、良いではないか。味見のせいで汚れたのだから」

「それもそうだけどさー。そりゃそっちの上等な絹の寝巻とは違いますけどー」


 ショウはぷーっと口を膨らませたリンリンの顔を見てころころと笑ってから、こくりこくりと数度頷いた。


「この海老の卵油和えなら後宮のどの者の口にも合うと思うぞ。審査にはこれを出すとよい」

「うん、そうだね。でもさー主菜以外にも前菜と点甜も出さないといけないんだよねー」

「ほう、ではまだ試作するのか?」


 ショウはまた目を輝かせた。


「それならば、この我が全ての試食を引き受けよう! 代わりに火は用意してやるぞ」

「ええっ!」


 こうして試験までの数日間、リンリンはこの謎めいた少女ショウとともに夜更けの試作を続けることになったのだった。



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