第2話リンリンについて、いくつかの事柄

「はぁ、こんなことになるなんて。確かに料理はしたかったんだけど……」


 狭い下女用の寝所、固い寝台の上でリンリンはため息交じりに独り言ちる。

 小さな窓から差し込むうっすらとした月明りを頼りに眺めるのは、一冊のぼろぼろのノート。

 表紙には赤いマジックで、でかでかと料理ノートと書いてある。

 これはリンリンの祖父が書き記したものだ。


「うーん、茶屋で人気だったのはあんまんだけど、それじゃラフすぎるよねぇ」


 ぺらぺらとノートをめくりながら考え込むリンリン。

 ノートの文字もちゃんと読めている。

 そう、リンリンは文字を読めるのだ。彼女の故郷の文字ならば何の問題もなく。

 実はリンリンというのは、彼女の本名ではない。

 菅沼りん、それが彼女の本当の名前、この春から高校に入学するはずだったごく普通の女の子だ。

 りんは、東京の下町で育った。

 実家の一階は中華料理店で、料理人の祖父と二人暮らし。

 学校から帰れば店の手伝いをし、時折料理も教えてもらっていた。


「りんちゃん大きくなったわねー。いい婿さんでも貰ってくれればこの菅沼飯店も安泰だ」

「そうじゃないよー! りんが爺ちゃんの後を継いで料理人になるんですー!」


 常連のおじさんにからかわれると口をとがらせてすぐに言い返し、実際に高校卒業後は調理師専門学校へ行き自分が跡を継ぎ祖父の味を守り抜こうと思っていたのだ。


「これこれりん、お客さんに失礼な態度をとっちゃいかんぞ」


 祖父はりんを窘めつつも、満更でもなさそうにゴマ塩頭を掻き掻きしながらにこにことしていた。


 りんが五歳の時、家族で出かけたハイキングで両親と兄が行方不明になってしまった。

 天気予報も予測できなかった局地的な天候の変化でいつもはのどかなハイキングコースは大荒れに荒れ家族は忽然と姿を消し、そこから数キロ離れた国道沿いで膝をすりむき泣きじゃくるりんが見つかった。

 大人に事情を尋ねられると「みんな黒い雲に連れていかれた」と嗚咽交じりに答えたそうだが、激しい落雷の中土砂崩れに巻き込まれた家族の姿がそう見えたのだろうということに落ち着いた。

 幼いりんは父方の祖父に引き取られたが、受けたショックが大きすぎたせいかハイキングの出来事ばかりでなく、生まれてからその日までの記憶をすっかり失ってしまった。

 祖父はそんなりんに無理に記憶を取り戻させようとはせず、りんはあたたかで忙しくめぐる日々を送りながら暗い影など微塵もささない平凡だけど明るく笑顔の絶えない二人暮らしを楽しんでいた。

 ずっとずっとこの日常が続くものだと思っていたのだ。


 けれど、別れはふいに訪れた。

 三日後に控えたりんの高校の入学式を楽しみにして一張羅のスーツをクリーニング屋に取りに行った帰り、祖父は店の数メートル先の桜の木の下で胸を押さえてしゃがみ込んだ。

 商店街の団子屋のおかみさんがすぐに気づいてくれて祖父は救命治療を受けたのだが、そのまま意識を取り戻すことは無く翌日の未明に呆気なくこの世を去ってしまった。


 本来なら一緒に入学式に出るはずだったその日、葬儀を終えたりんはふらふらと幼いころに祖父とよく散歩に来た川べりを歩いていた。

 夕暮れはとうに過ぎ、足元を照らす明かりもない。

 今夜が皆既月食だったことを、りんはすっかり忘れていた。


「赤い月、月餅みたいで腹が減るって爺ちゃん言ってたな。まだ教えてもらってない料理いっぱいあるのに、これからどうしたらいいの」


 祖父の残したノートをぎゅっと抱きしめぽつりと呟いたりんの足元を、赤い光が照らした。

 月食の月が、こんな強い光を放つわけがない。

 ハッとして上空を見上げたりんの目に、自分に向かって落下してくる大きな赤く燃える球が映った。


(あ、あれは火球!? 隕石? ダメだ。もう間に合わない)


 ぎゅっと目をつぶったりんの体は、次の瞬間ふわりと宙に浮かんだ。

 光を失った赤銅色の月の前をするりと横切る黒い影、夜の闇のような漆黒のマントにくるまれてりんはそのなめらかでやわらかな感触に、深い安堵感を覚えた。


(この人は……いったい何者なの?)


 おそるおそる首を上げて顔を見ようとするが、マントに隠れて良く見えない。

 しばらくそのまま抱かれて空を泳ぎ、風に翻ったマントのすき間からようやく見えた明るい月のような瞳と目が合った瞬間、りんはスッと意識を失ってしまった。


 目が覚めた時、りんは田んぼの横のあぜ道にいた。


「そこの小姑娘(ショウクウニャン、お嬢ちゃん)、大丈夫かい? おっかさんは? どこか具合でも悪いのかい」


 十五にしては少し小柄なりんを迷子の子供だと思い声をかけ、優しく介抱し、自分の家に連れてきてくれ粥を振舞ってくれたのが茶屋の老夫婦だったのだ。

 老夫婦の話す言葉は、りんにも理解できた。

 かなりなまってはいるが、これは北京語だ。

 祖父の母親、りんにとっては曾祖母が台南出身だったこともあって菅沼飯店には台湾や大陸からの留学生がよく来ていた。

 祖父と留学生たちが自分の知らない言葉で楽しそうにお喋りしているのがうらやましくて、輪に入って言葉をまねしているうちに知らず知らずのうちにりんも北京語で読み書きとまではいかなかったが日常会話程度は出来るようになっていた。

 当時の癖で、十五の今になっても幼い女の子のような口調ではあったのだが。


「うちは子供もおらんで夫婦でさみしくやっておったんじゃ。孫が遊びに来てくれたようで嬉しいよ」

「そうそう、自分の家だと思っていつまでもいていいんじゃよ。名前は聞いてもいいのかな」

「り、りんです」

「ほーリンリンというのか。良い名じゃな」


 老夫婦は詳しい事情も聞かず、りん、リンリンを家においてくれた。

 リンリンはそんな二人の厚意に応えようと、一家の家事全般を引き受けることにした。


「爷爷、奶奶(おばあさん)、今日は羊肉の饅頭とそれに甘い豆の饅頭よ」

「ほーほー、この黒い豆の饅頭は甘く煮てあるんじゃな」

「そうよ、水飴で煮てみたの。使ってよかった?」

「いいよいいよ、店のものは何でも使いな」

「いやーしかし老公(ラオゴン、だんなさん)、この饅頭うまいねぇ。こんなふかふかで甘い饅頭わしらだけで食べるのもったいないよ」

「そうじゃなぁ」


 老夫婦の強い勧めもあり、リンリンの饅頭は店頭でも販売されることとなった。

 販売用に粉屋で借りた臼で砕いた餅米粉を生地に混ぜ込み、あんパンをヒントにしてちょうど散り始めた桃の花びらを搔き集めて塩漬けにしたものを表面に飾った特製桃花印餡饅頭は評判に評判を呼び、店を開くと同時に行列が出来るようになった。


「この饅頭ときたら、ふかふかなのにもっちりで実にたまらんよ」

「この桃の花も雅だねぇ白に桃色が映える。まるで都の上等な点甜のようだよ」

「見た目だけじゃないぞ。このちょっとした塩味が、甘さをより引き立てるんじゃよ」


 リンリンと老夫婦三人がかりで饅頭をふかしてもふかしても追いつかないほどの忙しさで、店を閉めるころにはくたくたになり夕餉もろくにとらず眠りに就くことも度々あった。

 正直体はきつい。しかし、この忙しさはリンリンに不思議な安らぎを与えてくれた。

 泥のように眠ってしまえば、余計なことをごちゃごちゃと考えなくて済むのだから。

 店に出て客と接しているうち、リンリンはやっとここがただの異国ではないことに気付いた。

 初めはアーミッシュのように昔ながらの暮らしをしている人々、もしくは観光用の村かと思っていたのだが明らかに違う。

 ここの人々は、この地で普通に自分たちの日常を送っているだけなのだ。

 リンリンは、りんは、幾星霜の時や世界をまたぎこの地へ連れてこられたのだ。

 余りに奇想天外な出来事、でもリンリンを連れて来た黒マントの男の姿は忽然と消え探す手がかりもない。

 今のリンリンには、この地で生きるほかに選択肢はないのだ。


 勿論、生まれ育った故郷の家に帰りたい気持ちはある。

 けれど、ガラガラと扉を開けても「りん、おかえりー」と中華鍋を振りながら出迎えてくれるくしゃくしゃの笑顔はもうない。

 店も家も空っぽ、もう祖父はいないのだ。

 そう考えると、リンリンの胸はぎゅっと締め付けられる。


 もうそのことは何も考えたくない。

 リンリンは一層忙しさを求め、祖父に習ったいくつかの料理を茶屋で総菜として売ることにした。


 ニンニクたっぷりの焼き餃子、五目炒飯、天津飯、竹皮に包んだちまき風お結びなどのリンリンにとっては昔ながらの町中華、この地の人にとっては珍しく斬新と思える惣菜や弁当は桃花印餡饅頭と共に近隣の村一番の大人気となり、帝都に所用で出かけた役人が手土産に桃花印餡饅頭を持っていったことなどからその評判は後宮にまでも届いたのだった。


「ずっとここにいてもいいんだよ」


 老夫婦はそう言ってくれたが、後宮からの誘いを断ったうえ身元の分からないリンリンを匿っていてはどんな危害が及ぶかしれない。


「うわぁ、帝都って一度行ってみたかったのよ。実は私都会育ちだし! お給金も高そうだしあー楽しみ」


 すっと笑顔を作り、金貨三枚をぎゅっと爷爷の手に握らせ軽く手を振ってそのまま宦官の待つ牛車へと乗り込んだのだった。


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