後宮の料理番
くーくー
第1話リンリン15歳御前房の下女やってます
「リンリンー昼餉の下ごしらえはもう終わったの?」
「今やってまーす!」
「リンリンー青梗菜がまだ切れてないじゃない! 芋の皮むきにも」
「はいはーい、ただいま!」
「はいは一回でよろしい!」
「はーい!」
先輩女中たちに次々に仕事を言いつけられ、きっちりと編まれたおさげ髪を振り回しながらくるくるくる動き回るリンリン。
ここは後宮の台所、御前房だ。
大陸の東にある明けの国、国を治める天子が家庭生活を営む後宮に住まうのはそのほとんどが女たちだ。
男子は天子とその御子たちの数名のみであり、他に自由に出入りができるのは、男性機能を排除した宦官。通いの料理人もいることはいるのだが、彼らは宮中の廊下を歩くことも許されず勝手口からこそこそと出入りをし、ばったりと女官たちに出くわすことが無いように慎重に慎重を重ねて通っている。
それ以外は女、女、どこもかしこも女だらけだ。
天子の御母である皇太后を頂点としたピラミッドに連なるのは皇后、側室である皇貴妃、貴妃、妃、そして下級の嬪が数名の御妃たち。
そして彼女たちの世話をする女官、宮女が多数。
余りに人数が多すぎて、リンリンは未だ数を把握していないがおそらく数百はいるのだろう。けれど、ピラミッドの頂点たる天子を取り巻く上級の女たちの顔を一度も拝んだことはない。
何故なら彼女は後宮の使用人である女たちの中でも一番最下層とされる水回りを担当する下女中であり、その中でも下っ端中の下っ端雑用係の御前房の下女だからだ。
御前房自体は宮中における最も重要な部署とされているのだが、料理を作るのは男の料理人の仕事であり、その下働きである下女中の身分は低いのだ。
リンリンは、つい二週間ほど前にこの御前房にやって来た。
ここから千里ほども離れた東北の村に突然牛車に乗った立派な身なりの使者の宦官がやって来て、後宮で働くようにと半ば命令に近い誘いを受けたのだ。
「こちらの総菜の評判は、帝都にまで届いておるのです。是非ともこちらの調理人を後宮の御前房へ招聘させてもらいたい」
茶屋の主人である爷爷(おじいさん)に金貨三枚と引き換えに、身の回りの整理をする暇もなく宦官に引き渡されたリンリン。
料理の腕を見込まれわざわざ請われて迎え入れられたのだから、当然ここでは調理を担当するものと思っていた。しかし、リンリンに待ち受けていたのは食材の下ごしらえや水回りの掃除担当という全く料理の腕を必要としないそこら辺から連れて来た木の棒を振り回しているような鼻たれ小僧にでも出来るような仕事であった。
「リンリン、鶏が鳴く前からずっとあくせく働いていて疲れたでしょう。これ朝餉の型崩れのまんじゅうよー大分冷えてしまったのだけれど」
リンリンが来る前は一番の下っ端であった小怡(シャオイー)が懐から饅頭を取り出して、そっとリンリンのまくった袖の下に入れてくれた。
「ありがとう」
すっかり冷えているはずの饅頭は、ほんのりとした人肌の温かさを井戸水で冷え切ったリンリンの腕に伝えてくれる。
口うるさい先輩たちに見つからないようにこっそり齧ると、分厚い皮の下から羊肉のほのかな塩味としっかりした歯ごたえを感じる。
湯気で湿った皮以外にはほとんど水気のないそれを飲み下しながら、リンリンはまたくるくると動き、湯気が立ち込め始めた料理たちにはもう触れさせてもらえない。
(はぁ、私何のためにここに連れてこられたのかしら。金貨三枚ももらえるなら、いくらでも下女に志願する娘たちはいるはずなのに)
リンリンが暮らしていた東北の村では、役人の給金ですら年に銀貨三枚、昼餉時になれば銅銭数枚で買える安い総菜を求め茶屋に現れていた。
銀貨一枚で山羊は二匹、羊は一匹と交換できる。
金貨が三枚もあれば、村では十年以上、この帝都でも町人なら数年は楽に暮らせる額のはずだ。
わざわざ東北の田舎まで探しに来るようなことは、必要なかったはずなのに。
実際小怡は以前ここで働いていた叔母の斡旋により銀貨五枚で帝都から三つほど町を挟んだ村から五年の年季奉公に来ていると、下女の寝所でこっそりリンリンに教えてくれたことがある。
「さぁ、ここが今日からあなたの住まいですよ」
着の身着のままのリンリンを女中部屋に置き去りにした宦官は、その後一度も姿を見かけていない。
鮮やかな青紫の深衣をまとい柳のように細くすらりとして、白く滑らかな指が印象的だったその宦官、深くかぶった帽子のせいでその表情は全くうかがえず、王都に来る牛車の家でも一言も口を開かなかった。
「あらあらー、今日の昼餉は何かしらぁ」
代わりにこの御前房には、他の宦官が現れては毒見と称したつまみ食いをする。
毒見役はきちんと他にいるのだが、料理人たちは彼に何も文句をつけることが出来ない。
陳流々(チンルールー)、浅黒い肌に大きくぱっちりとした瞳を持つ南方出身の宦官、そのエキゾチックで愛くるしい容姿と人懐っこさで皇太后の一番のお気に入りという噂は女官から女官へと駆け巡り、ついにはこの御前房にいる下女中たちにまで届いているのだ。
下手に注意などをして、皇太后に告げ口されてはかなわない。
料理人も下女中も彼が現れるとそっと俯き、嵐が過ぎ去るのをじっと息をひそめて待つほかはないのだ。
「あーあ、今日も代り映えしないわねぇ、芋の煮込みに羊肉のくさいスープに固い饅頭、甜点(デザート)もついてないのじゃないの。今日は天子様がお留守だからってシケてるわぁ、これじゃあ田舎の木っ端役人の昼餉よりひどいんじゃないのぉー」
口を尖らせて料理からぷいっと目を背けて外方を向いた陳流々の言葉に、リンリンは胸の内で何度も相槌を打っていた。
(そうそうその通りよ。ここの食事ってさぁ、いっつも全然美味しくなさそうなんだよね! 天子様がいらっしゃるときは今日よりは見た目はかなり派手になるけど、果物の飾り切りとかそっちばっかりに手をかけてるし、料理人のおっちゃんたち食ってものにやる気なさすぎ! 田舎の方がもっと材料ないのにちゃんと工夫してたよ)
「あらーそこの子羊ちゃんもあたしに同意って顔してるわー。ねぇ、そうよねここの食事はひどいわよねぇ」
(マズい、口に出さずとも顔に出ていたんだろうか。皇太后様は怖い、陳氏も怖い……でもいつも一緒に働いている料理人たちの機嫌も損ねたくはない……マズかろうが何だろうが賄い抜きにされてすきっ腹のまま何日も働くのは絶対にごめんだ)
不服そうに眉をつり上げた料理人、にやにや楽しそうに笑いながら同意を求めてくる陳流々、余計なことは言うんじゃないよとばかりに指を突き立て睨みつけている先輩下女中たち。
様々な目線が自分に集中し、リンリンは途方に暮れてしまい返事も出来ずに目だけをきょろきょろ動かしていた。
横にいる小怡も眉を下げまるで自分のことのように困り果てて青ざめた顔をして、両の目はうるうるとうるみ今にも泣きだしそうになっていた。
「リンリン、どうしよう……」
リンリンの袖をつかんだその指は、不安げにカタカタと震えている。
(あぁ、何とかしなきゃ。このまま私が黙りこくっていたら、小怡にまで累を及ぼしてしまうかもしれない……何か、何か言わなくては)
意を決したリンリンが口を開きかけたその時、御前房の扉が静かにでも力強くバーンと開いた。
「陳流々、こんなところで何油を売っているのです! あなたの役目は茶部署の部長でしょう。皇太后さまのお世話はどうしたのです」
静かで柔らか、しかし氷のような冷たさを孕んだこの声の主は、リンリンをここに連れて来たあの宦官だ。
膳は食、すなわちこの御前房の責任者、茶とは天子や皇太后御妃達の日用食品や行事を管理する役割であったが、陳流々の場合は皇太后のお世話係も兼ねていたというよりそちらの方が仕事のほとんどを占めており、食品の管理は実質的には膳部長である楊玲(ヨウレイ)がやっていた。
「あらー、楊玲ったら随分ねーあたしは膳部長であるあんたが天子様の視察の準備に掛かりっきりでこっちに来られないから、善意で代わりに様子を見に来てあげていたのよ。感謝されこそすれ、そんな言い方をされるいわれはないわー」
「そうですか、皇太后さまが陳流々はどこだと探していましたけどね」
「あらやだ! 聖さまが! 急がなきゃ」
楊玲の放った一言を聞いた陳流々は、慌てて廊下へと小走りに駆けて行った。
やれやれといった顔をしてその後ろ姿を見送った楊玲は、今度はその冷たい視線をリンリンの方へと向けた。
「あなたは、ここで一体何をしているのです」
(あんまりだ。私はあなたに請われてここにいるというのに)
出かかった言葉を、慌てて飲み込む。
膳部長と下女ではあまりに立場が違い過ぎる。軽々にそんなことは言えやしない。
「は、はぁ下働きの下女をしております」
その返答に、楊玲の声は一層冷たくなった。
「私はあなたに料理人としてここで働くように言ったのですよ。ここの皆にそう伝えておいたはずですが」
眉一つ動かさず、表情は全く変わらない。しかし、不機嫌であろうことはひしひしと伝わってくる。
あの日、帽子の下に隠されていた顔はここにいるどの女よりも美しく、でもその声と同じように氷のように冷え冷えとしていた。
「平(ヘイ)さん、何故彼女に料理させないのです」
「し、しかし……いくら膳部長の言いつけでも女の料理人なんて聞いたことねぇし……コイツ文字だってろくろく読めねぇんですよ。品書きも読めねぇんじゃ」
御前房で一番の古株料理人であり前料理長が引退してから暫定料理長を任されている平
は、白帽のへりを触りながら蛇ににらまれた蛙のようにオタオタして答える。
「そうよー、これ以上不味い料理なんてごめんこうむるわー。こんな冴えないチビた子が作るのなんてどうせ貧乏くさい田舎丸出し料理でしょー」
皇太后のところに行かずにそのまま立ち聞きをしていたのだろうか、扉の外からひょこっと顔を出した陳流々も平に同調する。
「はぁ、分かりました。ではリンリンに一度料理を作ってもらいみなで試食しましょう」
「えっ!」
楊玲からため息交じりに出て来た解決策は、そこにいたすべてのもの、リンリン自身さえもを驚かせた。
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