王子村桜枝奇譚

くーくー

第1話

 王子村の飛鳥山に先の公方様がお命じになり桜を植えてからというものここは桜と花の名所として、春先になると権現様にお参りがてら江戸の各地から行楽客が訪れるようになった。

 残冬の肌寒さもようやく薄れ、梅の花がその香りを薄れさせ盛りを過ぎたころ、先に桃、そして桜がその蕾をほころばせ早いものはほっこりと薄紅色の可憐な花弁を開かせていた弥生の末、王子村に衝撃が走りました。

 何と花が咲き始めた桜の枝が全て、無残に折られていたのだ。

「なんてことをしやがるんだい! 公方様の桜に罰当たりな!」

「そうでい、そうでい、こんなことされたらうちの商売も上がったりだ」

「あんた、あたしゃそんなことを言ってるんじゃないんだよ」

「だけどよぉ、花が無けりゃあ花見客も来ねぇ、そしたら団子も売れねぇだろ」

「あーもうあんたって人は!」

 近くの団子屋の夫婦もとばっちりで喧嘩をし始める始末。

 勿論ことはそれだけに収まらず、番屋に集まった村人たちは喧々諤々と言い合いながら顔を青ざめさせていた。

「公方様の桜の枝が折られたとあっちゃぁ、奉行所も黙っちゃいねぇだろう」

「見回り役の俺たちの管理責任も問われかねねぇ」

「あー、こりゃぁ困った、どうしろってんだい」

「奉行所のお役人に知られる前に、どうにか科人を見つけねぇと」

「そういったってなぁ、そういや昨日の見回りは吉治、おめえさんじゃなかったかい?」

「あ、あぁ、そうだったっけなぁ」

 とぼける吉治は外方を向き、口笛をぴゅーっと吹き始めた。

「おいこらふざけやがって、冗談じゃねぇぞ、おめえと一蓮托生は御免だ。おめえ自身で何とかしやがれ!」

 頭に血の上りやすい火消しの辰五郎は吉治の持っていた瓢箪をむしり取ると力任せに投げつけ、そのままどたどたと外へ出て行ってしまった。

「あー、あいつの怪力にも困ったもんだ。瓢箪にひびが入って残りすくねェ酒が全部零れちまった」

「何言ってるんだよ、吉治、たっつぁんが腹を立てるのも当たり前だよ、番太でもないってのに心配してわざわざ来てくれたってのによぉ、お前のこったから昨日もそうやって酒をかっ喰らってふらふらしてたんだろうよ」

 船頭の与兵衛に窘められても吉治は意にも介さずひょっとこのような顔をして瓢箪の割れ目に尖った口を近づけて何とかしてわずかに残った酒を呑もうと悪戦苦闘している。

「いい加減にしろってんだ」

 普段は温厚な与兵衛も腹に据えかねて瓢箪を引っ手繰っては戸外にほうり投げ、とうとう瓢箪は粉々に割れてしまった。

「あー、勿体ねぇ。俺の酒が、後二三滴はありそうだったってのに」

 この期に及んでも酒のことしか頭にない吉治にあきれ果て、村の衆は吉治を一人残して皆自身の家へと帰ってしまった。

「はぁ、俺は確かに夕べも呑んでたさ、けどなぁ、見回りもちゃんといったんってんだよ」

 土間にへたり込んで吉治は独り言ちた。

 確かに吉治は夕べ夜鳴き蕎麦屋でかけそばを食い、一杯ひっかけた後で桜並木の見回りへと向かった。

 しかし、直ぐに自宅である長屋へと逃げ帰ってしまったのだ。

 昨夜は朧月夜で、足元を照らす明かりはうっすらとぼやけたものだった。番屋に提灯を取りに行くのが面倒でそのままふらふらと桜並木の下を歩いていた吉治であったが、とある一本の桜の木がぼんやりとした明かりに包まれているのを目にしてふと足を止めた。

 すると、木の後ろからぼんやりと白い光に包まれた頭巾姿の女が現れてにいっと笑ったのだ。

 頭巾で口元は隠れていたのに、確かに吉治には笑っているのがはっきりとわかったのだ。

 その女のこの世の物ではないような姿に恐れおののき、吉治は腰を抜かしそうになりながらもやっとこさ長屋へと逃げ帰りそのまま掻巻に頭までくるまり身を縮めてガタガタと震えながら日が昇るのを待った。

「夕べは幽霊かと思ってびびっちまったが、ひょっとしたら狐に化かされたのかもしれねぇなぁ」

 首をひねって考え込むが、こんなことを村の仲間には言えやしない。どうせ酔っぱらって幻覚を見たのだと一笑に付されるのがおちだ。

「あー、こいつぁ困った。俺一人でどうしろってんだい」

 冷たい土間に突っ伏してうんうん考え込んでいた吉治の頭にふとある人物の姿が閃いた。

「そうだ!あの方に頼みゃぁきっと解決してくださるに違いねぇ」


 あれは暮れも差し迫った元来忙しいはずの師走のこと、吉治は大家の爺さんに呼ばれて肌を刺すような寒空の下縁台将棋をしていた。

 母方の爺さんが棋士だったこともあり、吉治は子供のころから将棋に親しみ、棋士として身を立てるというほどでもなかったがそこそこの腕前があり、爺さんの暇つぶしにちょくちょく呼ばれては共に将棋を指し、いいところで負けてやり花を持たせることで、小遣いをもらっていた。

 生業としている豆腐の棒手振りだけでは家賃をやっとこさ払うのが精いっぱいで酒代が捻出できない吉治にとってはいい小遣い稼ぎだった。

 いつものようにここで打ったら王手だというところで自然に見えるように悪手を指し、梅干しのように皺しわになっていた爺さんの顔がぱっと明るくなる。

(よーし、これで正月の酒代も稼げるぞ)

 思わずゆるみ笑い出しそうになる口元をぎゅっと引き締めてへの字に曲げ、わざとらしい悩み顔をつくりながら吉治が胸の内で高笑いしていると……

「おっ、こりゃ悪手だねぇ、ちょっと俺に替わってくんな」

 夕闇に紛れてどこからかふらりと現れた男が吉治と大家の爺さんの間に割って入り、駒をひょいと動かすと爺さん有利の盤上をひっくり返してしまったのだ。

 ぷるぷると唇を震わせた爺さんはまた梅干しの顔に戻り将棋盤もそのままに家の中へと入ってしまった。

 勿論、吉治に小遣いを渡すことも無く。

「ちょっと、お前さんなんてことをしてくれたんだい」

 吉治はわなわなと拳を震わせ男をきっと睨みつけたが、夕日に照らされた男の顔は少しも動じないどころかうっすらと笑みすら浮かべている。

 吉治はそのにやつきに余計にむかっ腹が立って、駒を握って男のにやけ顔に向かって投げつけようとしたが、ぎゅっと手首を掴まれそのままねじりあげられてしまった。

「いてててて、放してくれよ」

「お前さん、いかさま将棋でわざと負けようとしたりしまいには駒を投げつけようだなんて将棋を馬鹿にし過ぎじゃねぇかい」

 さっきまで笑みを浮かべていた男の顔は鬼の形相に変わっていた。

「何だいお前さん、俺は別に棋士じゃねぇんだ。こんな縁台将棋でどう指そうが俺の勝手じゃねぇかよ。お前さんのせいで俺は酒代を稼げなかったんだぞ」

「あぁ、そりゃぁすまないことをしたな、実は俺の母方の祖父は将棋指しでな、将棋のこととなるとつい頭に血がのぼっちまうんだ」

「へぇっ、そりゃ奇遇だな、俺の爺様も棋士だったんだぜ」

「ほう、それでお前いかさまの前はいい手を指してたんだな」

「そうさ、いかさまだって腕がなけりゃぁちゃあんとできやしねぇんだぜ」

「ははっ、威張れることじゃあんめぇ」

「それはそうとしてそろそろ腕を解いてくれよ、しびれてきやがった」

「おう、すまんな」

 こうしてひょんなことから二人は意気投合し、吉治は邪魔したら詫びにといつもの夜鳴きではない権現様前の蕎麦屋で酒をご馳走してもらい、しばし互いの祖父について語り合った。

「うちの爺様はめっぽう強かったんだけどよぉ、掛け将棋でお縄になっちまってそこからは酒浸りでお陀仏さ」

「ほほう、酒好きは爺様譲りか」

「てやんでい!お前さんの爺様はどうだったんだい。ちゅーかお前さん何者だ?」

 吉治は一緒に酒を酌み交わしている相手の名すら知らないまますっかりべろべろに酔っていた。

「あぁ、そういやまだ名乗っていなかったな。俺は目明しの孝三郎ってんだ。同心の向山の旦那に誘われて近頃日本橋からこっちに来てな」

「ほー、向山様に」

 桜の見回りをする担当を番太の中から決めた時、一度だけ言葉を交わしたことがある。

「公方様の桜だ。粗相がないようにしっかり見回りしてくれよ。頼むぞ」

「へいっ」

 たったそれだけだったが。


 孝三郎のことが浮かんだと同時に同心の向山との約束も思い出した吉治の背筋にぞくぞくと冷たいものが走った。

「こうしちゃいらんねぇ、早く孝三郎さんのとこへ行かなきゃなんねぇ」

 蕎麦屋でべろべろに酔った後、千鳥足でふらふらとよたつき支えられながら一度だけ転がり込んだ孝三郎の長屋、勢い勇んで走り出したはいいがどうにもどこだったか思い出せない。

「あぁ、あぁ、俺ゃぁ一体どうしたらいいんだ」

 頭を抱えてとぼとぼと歩いていると、ついふらふらと夜鳴き蕎麦屋に引き付けられるように足が向かってしまう。

「いや、ダメだ駄目だ。酒のせいでこんなことになっちまっているってのに」

 首をぶんぶんと振りながら後ろ髪をひかれる思いでその場を離れると、今度はいつの間にかあの悪夢の場所、桜並木へと来てしまっていた。

「あぁぁぁぁ、枝、桜の枝」

 吉治が頭を抱えて桜の根元にしゃがみ込むと、トントンとその背中を何かが叩いてきた。

「ひゃぁ、幽霊、きつねぇぇぇ」

 腰を抜かし、飛び上がろうにも飛び上がれずそのままごろんと仰向けにひっくり返った吉治の顔を笑いをかみ殺したような顔で覗き込んできたのは、さっきまで必死になって探そうとしていたあの孝三郎だった。

「あっ、あっ、孝三郎さん」

「ふひっ、あぁそうだ。孝三郎だよ、ほら見て見ろ、ちゃんと足もある。幽霊じゃないぞ」

「は、はぁ、そうですね」

「そうか、狐だと思っていつのだな、ほら目をかっぴらいてよーく見て見ろ、俺の尻に尾があるか?髷の上に毛が生えた耳があるか?」

「ね、ねぇです……」

「本当にそうか?化かされているかもしれんぞ」

「わーもう、その辺でからかうのはしめぇにしてくだせぇよ」

「しかし吉治、お前さんこんな時分に一体ここで何をしてたんでぇ」

「あぁそうだ!俺ぁ、孝三郎さん、お前さんの家を探そうとして」

「そいでここに?逆方向じゃねぇか」

「あぁ、先だって邪魔した時はしこたま呑んじまってたもんでさ、すっかり場所を忘れちまって」

 怪訝そうな顔で差し出された手につかまってよっこいしょと腰を上げた後、吉治は照れくさそうに額をポリポリ掻いた。

「さてはお前さん、酒をたかりにきたのかい?」

「違う、違う、俺が頼みてぇのはこの桜にも官憲があるんでさ」

「この桜並木に?」

「へぇ、この桜の枝が折られちまったのは孝三郎さんはもう……」

 言いかけて口ごもった吉治の問いかけに、孝三郎は静かに頷く。

「おう、この辺りじゃあ噂になってるからな。それで何か手掛かりがないか見に来たってもんさ」

「はぁ、じゃあもう向山様にも……」

「あぁ、向山の旦那はここんところ所用で留守にしていてな、まだ知らねぇだろうな」

 孝三郎のその言葉に、肩を落としていた吉治はほぉっと安堵の吐息を漏らし、スッと顔をあげた。

「実はこの桜の枝が折られたとき、見回りは俺だったんです。けどこんな有り様になっちまって」

「ほう、お前さんじゃあ科人を見たのかい?」

「いや、それは見てねぇんだが……」

 もごもごと何か言いたげにしながらまた口ごもる吉治の肩を孝三郎はゆさゆさと強くゆすった。

「おい、公方様の桜の枝が折られたとあっちゃ一大事だぜ、知っていることは何でも話せ」

 その迫力にびくびくとしながら吉治はぽつぽつとあの日のことを話し始めた。

「あの日、夜鳴きそばで一杯やってからここに見回りに来たんでさ、そしたら白く光る女がぼおっと木の陰から出てきて……」

「顔は見たのか?桜の枝は持っていたか?」

 矢継ぎ早の問いかけに、吉治は押し黙ってまた地べたをじっと見つめ爪の先でぐりぐりと掌をいじり始めた。

「おい、そんな貝みてぇに黙ってちゃあどうしようもないぜ、さぁきちんと話せ」

「いや、それでしめぇなんです」

「は?光る女を見て、お前はどうしたんだ」

「長屋へ帰りました……」

「何も聞かずにか?」

「へぇ。そん時ぁまさか枝が折られているとはつゆ知らず」

「じゃあ、顔も見てねぇってのか」

「へぇ」

「全く、あきれたもんだな。女一人になぜそんなに怯えて逃げ帰る必要があるんだ」

 天を仰ぎ呆れてため息を吐く孝三郎に、吉治は必死で言い訳をする。

「そうは言いましても、白く光ってたんですぜ、あの日ぁ朧月で照らされるほどの明かりは無かったってのに、そんなのこの世の物とも思えねぇでしょう」

「はぁお前は幽霊でも見たと言いたいのか?」

 いよいよあきれ顔で苦笑いする孝三郎に、吉治は尚も食い下がる。

「俺ぁ幽霊だなんて言ってねぇ、けど……」

「けど何だ?」

「ひょっとしたら狐に化かされたんじゃねぇかと」

「狐に!何を馬鹿なことを」

 あまりのことに呆れるのも忘れて孝三郎はとうとう腹を抱えてげらげらと笑いだした。

「大方酒を呑み過ぎてふんどしが風に揺れているのでも見て化け女とでも見間違えたのだろう」

「いや、こんなところにふんどしがあるわけねぇでしょう!それにあの日は銭が無くてツケも断られてほんの一杯しか呑んでねぇんだ。頭はしゃっきりしていましたよ」

 自らバカバカしいことを話し始めたことをそっちのけにして、吉治はぷうっと頬を膨らませて怒り顔だ。

「そんなに怒んなさんな、ほんの冗談だろう。ところで吉治、お前さん結局俺に何のようなんだい」

「あぁ、それは、孝三郎さんに真の科人を見つける手伝いをしてほしいと思ったからでさ」

「ほう、お前さん見回りをサボった責任を感じて、そんな殊勝なこと言ってるのかい?」

「いや、だから見回りはちゃんと」

「化け狐だか幽霊女に驚いて逃げ帰ったってついさっき自分で言ってたじゃねぇか」

「だから、それはもう勘弁してくだせぇよ!」

 ぷりぷりと怒り続ける吉治の茹で上がったタコのような顔を見ていると孝三郎は可笑しくて可笑しくてしばしの間げらげらと笑い続け、ふうっと一息ついた後で、孝三郎のその提案を断った。

「いや、お前さんは何もしなくていい、こういうとたぁ俺の仕事だからな、お前さんはしっかり仕事に精を出して酒代を稼ぎな。いかさま将棋の小遣いをあてにしないでな」


「いや、俺はこの科人が見つかるまでぁ酒を断ちます!」

 その意外な返事と、いつもは見せない真面目くさったその顔、ふんふんと吹き出す鼻息に孝三郎はまた吹き出しそうになったが、無類の酒好きである吉治のその決意を感じ取り必死で笑いを呑みこんだ。

「よし、その心意気やよし!そのまま二度と呑めねぇかもしれんがな」

「いや、そりゃぁ勘弁してくだせぇよ。どうぞ早めにお縄に」

 さっきまではきりりと上がっていた眉がへの字に垂れ下がり、吉治はいつもの情けない顔にすっかり戻ってしまった。

「ははっ、その顔の方がお前さんらしいや、ほらじゃあこの件は俺に任せてお前さんはさっさと家に帰んな」

 とぼとぼと背中を丸めて家路につく吉治を見送った後、孝三郎は桜並木をぐるりと歩き、折れた桜の枝の全てを確認して回った。

(ふむ、吉治は女を見たと言っていたが、この高さではよほど背の高い女でなければ手が届かんな。男と女の二人組だろうか、吉治が光っていると思ったのは提灯の明かりで)

 見分しながら歩き回っていると、静かに凪いでいた風が急に荒れ始めて桜の枝枝を揺らし、何かがぺたりと孝三郎の首元に張り付いた。

 思わずびくっとして手をやると、そこには風に揺り落された数枚の花弁があった。

「あぁ、なんだ桜か、ははっ、しかし夜更けにこんな場所にいると何だか奇妙な気分になるな。吉治がびくついたのも無理はあるまい」

 びくっとした気恥ずかしさを吹き飛ばすように独り言ち、もう一度枝を確認した後孝三郎もまた帰路についた。


 翌朝、事態は急展開した。桜並木の側の団子屋、その夫婦のせがれである九歳の権助が、桜の枝を折った科人として番屋に突き出されたのだ。

「団子屋の裏にこの桜の枝が転がってたんでさぁ、花はついてねぇけど大方毟ってそこらにほうり投げたんでしょうよ」

 泣き叫ぶ両親から引きはがして権助を連れ出したのは、最近越してきて団子屋のはす向かいに近々掛茶屋を出す予定の与平だった。

 留守の同心、向山の代理として番屋に向かった孝三郎に与平は鼻息荒くまくし立てる。

「親分さん、これは大変なことですぜ、こんな番屋じゃ埒が明かねぇ、ここは奉行所に突き出してお奉行にさばいてもらいましょうよ」

 与平に首根っこを掴まれた権助は、ぶるぶると震え泣きじゃくっている。

「まぁまぁそう慌てなさんな、本人がやったって白状したのかい?おい坊主、お前桜の枝を折ったのかい?」

「違う、おいら、おいら、花弁がおっこちてて綺麗だったからおっかぁにやろうとして拾った。でも枝なんか折ってねぇ」

 権助は鼻水をズビズビとすすりながら首をブンブン振り、はっきりと自分に対する嫌疑を否定した。

「そりゃあ、こんな悪たれ小僧が本当のことを言う訳ねぇでさ、全くふぅ、さっさとしょっぴいてくださいよ」

 与平は何度も急かし、権助の襟元を締め上げる。

「おいおいお前さん、もう離してやんな」

 見かねた孝三郎が抱き上げた時、権助は苦しそうに喉に手を当てごほごほと苦しそうに咳込んだ。

「ところで与平、お前さん枝を縁台の下で見つけたって言ってたが、他の客は一人もそんなこと言ってなかったぜ、本当にそこにあったのかい?」

「へっ、勿論でさ」

「ひょっとしてお前さんが自分で折ってこの坊主に罪を着せようって魂胆じゃねぇだろうな。商売敵を消し去って茶屋を開くのに都合がいいものなぁ」

「へっ、まさか、まさかぁ」

 孝三郎に問いつめられた与平は途端に青ざめ、証拠として握りしめていた枝を放り出すとすたこらさっさと逃げるようにして番屋から出て行った。

「おう、坊主、もう家にけぇんな、ほらこのべっこう飴やるから」

「おっちゃん、ありがとう!」

 さっきまで苦しそうに泣きべそをかいていた権助は孝三郎の懐から出されたべっこう飴を受け取ると途端ににっこりとしてとたとたと帰って行った。

「ふむ、これでまた振出しに戻っちまいましたね。孝三郎、いや親分さん」

 当番で番屋にいた吉治は、拾い上げた枝をくるくる回しながらうーんと考え込むそぶりを見せた。

 その枝を見て、孝三郎は眉を顰め吉治からパッと取り上げてまじまじと見つめる。

「何すんでさぁ、孝三郎さん」

「吉治、こりゃ桜の枝じゃねぇぞ」

「へっ、じゃあ何でさぁ」

「梅だ。黒くてざらついているからな、それにこりゃぁわざと折られたもんじゃねぇ自然に朽ちたものだろうよ」

「ほー、孝三郎さん、物を知ってるねぇ」

「こんなもん、花見の村の住人なら当然だろう」

「へぇへぇ、どうせ俺ぁもの知らずですよ。けど与平もそうだよな。勘違いで団子屋のせがれを突き出しやがって」

「いや、勘違いではないだろう」

「へっ、じゃあ孝三郎さんも権助が科人と?」

「そんなことぁ言ってねぇ、お前さんさっき後ろで何を聞いてたんだい」

 吉治はきょとんとし、さっきの孝三郎と与平のやり取りを思い起こす。

「はっ、そうだ!孝三郎さん与平が科人でそれを権助になすりつけようとしたって!あっ、でもこりゃ梅だ。じゃあ本物の科人は?」

 うんうん考え込む吉治を残し、孝三郎はその場をそっと後にする。


「あぁ、しかし困ったことになったな」

 孝三郎が頭を抱えて悩んでいるその理由は、桜の枝を折った科人を見つけられないからではない。

 その科人は既に見つけているからだ。

 孝三郎は昨晩桜並木の見回りをした後、とある人物と住まいではない裏長屋で落ち合った。

「小滝様、お待ちしておりました」

 孝三郎に深々と頭を下げたのは、同心の向山市之丞、本来なら部下である目明し、いわば岡っ引きに頭を下げることなどあろうはずもない。

「おう向山、ご苦労であったな。で、仔細は?」

 実は孝三郎、目明し、岡っ引きという立場は仮の姿、探偵方と言われる岡っ引きに同心、その上に立つ与力をさらに束ねる筆頭与力なのだ。いわば探偵方の親玉だ。

 さて、そんな親玉が何故この村に潜入して下っ端探偵方の真似事をしているのかというと……

「やはり花のついた桜の枝はとある娘の家に届けられたそうです」

「そうか、遊佐之進様にも困ったものだ」

 ここで話題に上がっている遊佐之進とは老中相原昭之進の養子の五男である。いくら老中の子息とはいえ何故お役目もないそれも養子である五男にそこまで気を使われなくてはならないかというと……

「お奉行はこのことは決して上様の耳に入れてはならぬとおっしゃられておられるようで」

「うむ、いくら町娘に産ませたご落胤とはいえ、可愛い我が子に違いはあるまい。わざわざ老中の元に養子に出しその母もそばに置かせているのだからな」

 遊佐之進が夜更けにふらふらと母の着物を羽織って籠に乗り何故かこの村を出歩いているのが問題になり、筆頭与力である小滝孝三郎は警護剣兼観察役としてこの地にやってきた。

 すると、たまたま見かけた村の小間物問屋の娘に岡惚れし、何度も何度も会いに行っていることが判明した。

 娘の方は女装の優男に付きまとわれることに辟易し、ついにはちらりとも顔を見せずに家から出てこなくなってしまった。

 そんな娘にどうにか振り向いてほしいと早咲きの桜の花がついた枝を折り、娘の家に届けていたのだ。

 その後公方様の桜の枝が折られた騒動を知り、娘もその両親も自分たちがお咎めを受けるのではと恐れおののいていたところに向山が訪れ、自分たちに非が無いことを受け入れてもらえ件の桜の枝を引き取ってもらうと、心からの安堵の表情を浮かべていたという。

「科人は分かっている。しかし明らかにするわけにいかない。しかし公方様の桜が折られてそのままにしてお咎めなしとなると、真似をするものが現れるかもしれん」

「そうですね、しかし無実の者に科を負わせるわけにもいきませんし」

「うむ、権助のようなわっぱは無論のこと、他人に罪を着せようとした与平ですら江戸所払いにさせるわけにもいかないしな、まぁあんな奴は消えてくれた方が平和だがな」

「ははは、小滝さんは相変わらずキツいなぁ、しかしどんな嫌な奴でも我々がそんなことをしてはいけませんね」

「向山も相変わらずくそ真面目なこった」

「ははは、私はそれだけが取柄ですから、誉め言葉として受け取っておきますよ」

「全く、からかいがいのない奴め」

「ははははは」

 穏やかに和やかに笑い合いつつも、二人の脳裏にはこの事件をどうやって処理したらいいかという悩みがこびりついて離れない。

 しばし険しい顔で考え込んだ後、孝三郎はカッと目を見開きポンと手を叩いた。

「そうだ!この手があったぞ。吉治に感謝だな。あいつもたまには役に立つな、まぁ百年に一度かもしれねぇがな」

「吉治ってあの番屋の棒手振りのですか?」

「うむ、実はあの日の見回りは吉治だったんだがな、まぁ耳を貸せ」

 ひそひそと孝三郎に耳打ちされた後、一度は納得したように頷いた向山は、その後怪訝そうな顔をして首を傾げ孝三郎に問いかける。

「いや、妙案だとは思いますが、その役目は誰が?」

「勿論お前に決まってるじゃねーか!」

「嫌ですよ!」

「まぁまぁまぁ」

「まぁじゃないですって」

 裏長屋に向山の拒否の声が響き渡ったその数刻後のこと、吉治は三度桜並木の下で腰を抜かすこととなる。


「よぉ吉治、禁酒の誓いは守っているかい?」

 ふらりと吉治の長屋に現れた孝三郎は、真新しい大徳利をその眼前で振った。

「守ってますよ。しかしその徳利、匂いが……」

 ちゃぷちゃぷと中身を揺らす大徳利からは酒の匂いが漂ってくる。

「もう、こんなところで俺をからかっている暇があんならとっとと咎人お縄にしてくだせぇよ!禁酒している俺の前で酒を見せびらかすなんて殺生な」

 生唾をごくりと呑みこんだ吉治の頬はぷーっとはち切れんばかりにふくらみ今度は茹蛸ならぬフグのようだ。

「ぷはっ、いやその科人をお縄にするためにお前さんの協力が必要なんだよ」

「へっ、何で俺が」

「白い女」

 びくっとした吉治は外方を向きくるりと背まで向けてしまった。

「嫌ですよ」

「ほほう、やってくれたらこれをお前さんにやるのになぁ」

 ちゃぷうちゃぷう……揺れる酒の波音に、吉治は耳をそばだてる。

「そんなこと言って徳利だけ寄こす魂胆だろ」

「そんなケチなことするかい、あぁもったいねぇなぁ折角摂津の銘酒を手に入れたってのによぉ」

「摂津の…‥」

 湧き上がる生唾に蒸せそうになりながら吉治はゆっくりと振り向き、孝三郎に一つ注文を付けた。

「行ってもいいですぜ、でも決して俺を一人にしないでくれよ。それが守れねぇならここから一歩も動かねぇ」

「あぁ、勿論だ。何なら他にも何人か連れて行こう」

「そりゃいいですね」


 孝三郎は団子屋の夫婦、そして火消しの辰五郎にも声を掛けた。

 夫婦はせがれの無実を確実にするため、辰五郎はその正義感から二つ返事でついて来た。

(よし、これで正確な証人を手に入れることが出来たな)

 実は彼らを誘ったのは、吉治が一人を怖がったためではない。これから彼らが目にする物について、吉治一人の証言では「どうせ酔っぱらっていたのだろう」などと一笑に付されて終わってしまうことが濃厚だからだ。

 しかし、吉治を誘わず夫婦と辰五郎だけに声を掛けても不審に思い来てはくれないかもしれない。全てことを円滑に済ませるための向山と孝三郎の作戦であった。


 そして、いよいよ五人が桜並木の前に立った時、さぁーっと冷たい風が吹き、白い光が桜並木をまばゆく覆った。

 そしてその裏からはすらりと背が高く柳のような真っ白な女の姿だった。

 そう、この幽霊に扮しているのは向山だ。

 孝三郎が耳打ちした内容は「向山、お前さん幽霊、いや化け狐女に扮してくれよ」というものだった。

 向山は女装に難色を示し、なかなか首を縦に振らなかったが試しに女装してみた向山の姿があまりにひどすぎて渋々承知してくれたのだ。

「あぁ、こんなにごっつい、百叩きされたおかめみたいな女いませんよ、いくら化け物でも」

 向山も女性にしては背が高すぎたが、細く柳のようなその立ち姿でよりその浮世離れした様子を引き立たせることに成功したようだ。


「ひゃぁ、幽霊!」

 まず叫んだのは団子屋のおかみさん、吉治、おやじさん、そして辰五郎は声もなくその場で腰を抜かした。

「ひゃひゃひゃひゃひゃ」

 女はくわえていた桜の枝をぺっと天に向かって吐きだすと、けたけたと高笑いをしばっと光った白色の中で姿を消した。

 女が消えた後、その場には黄金色の毛が散乱していた。

「あぁ、やはり、狐に化かされていたんだ」

 吉治はホッとしたような困ったような顔をして、その毛をまじまじと見つめ、団子屋夫婦は呆け顔で手を握り合い、辰五郎はいつの間にかその場から姿を消していた。

「うーむ、にわかには信じがたかったが、やはり吉治の言った通りに科人は化け狐のようだな、証人が四人もいるんだ。これならお奉行も何も言うまいよ」

「ほらね、俺の言ったとおりでしょ、お褒美ご褒美」

 ご褒美の銘酒を貰った吉治、せがれの無実を証明した団子屋夫婦、焦って逃げ帰って田んぼのあぜ道で足を滑らせたところを村娘に助けられて嫁を貰った辰五郎、ご落胤が巻き起こした王子村の大騒動は、こうして孝三郎たちの一芝居によって大団円となったのだった。

 そして、この騒動の発端となったご落胤の若様のその後といえば……

 報告を聞いた老中の三男、友之進が娘の家に詫びに訪れた際に互いに一目ぼれをし、養子の粗相に頭を痛めていた老中の尽力によって娘は旗本の養女になり、その後友之進と結ばれ、身分違いの恋だから娘が遠慮しているに違いないと思い込んでいた遊佐之進ははなっから自分が蚊帳の外であったことをまざまざと思い知り、恋焦がれた想い人を姉として迎えることになってしまったのであった。

 

「しっかしバカ様、いや若様もとっとと諦めてりゃぁこんなことにはならなかったのにな」

「そうですね、結果的に縁結び役になってしまいましたね。しかし、姉としてきちんと受け入れることができるのでしょうか?また付きまとったりするのでは」

「いや、元々二人の間を隔てているのは身分のことや自分たちにはどうすることもできない様な障害のせいだと思ってたようだからな。恋仲になっちまった二人の姿を見てすっぱり諦めたらしいぜ」

「ほうそうですか。若様にもいずれ良いお方が現れるといいですね」

「まぁな」

 一頻り若様のうわさ話をした後、話はあの日の二人の芝居についてと話題を変えた。

「ところで向山、あん時ぁあんな数の提灯良く用意できたもんだな」

「いえ、私が用意したのは三つだけですよ」

「へっ、あの狐の毛も蒔いたのはお前だろ?」

「いえいえ、私は提灯を持って桜の木の陰にいただけですが」

「じゃあ、あの白い女は」


 顔を見合わせる二人の耳元で「コーンコン」と楽し気な泣き声が聞こえた。

 どうやら一芝居打ったのは、この二人だけではなかったらしい。

(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

王子村桜枝奇譚 くーくー @mimimi0120

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る