雨がやんだら紫陽花は
くーくー
第1話
どちらかといえば、紫陽花のことは好きだ。
いや、好きの比重の方がずっと高いと言ってもいい。水、水、水、息をするだけで溺れそうになる陰鬱とした灰色の霧の中でその鮮やかに咲き乱れその鮮やかな色は文字通り花を添えてくれる。けれど、その散り際をわたしは知らない。散るのかしおれるのか、その終わりを見たことが無い。からりとした青天の下、紫陽花はいつの間にかその姿を消している。
今年も梅雨の時期がやって来て、やはり紫陽花は雨粒のすき間を縫うように、健気ともいえる可憐さで水の重みに耐え忍ぶような重苦しさを微塵も見せずに花々を咲かせている。
やはり紫陽花は好きだ。この時期はいつもそう思う。しかし、赤い紫陽花だけは駄目だ。自分でも分からない、そう滅多に目にすることも無いというのに何故なのだろうか。しかし、今日は雨が五月蠅い。しとしと程度ならまだいいものの、急な暴風雨になられるとどうにも参る。折角出先から直帰できるというのに、駅までの道のりがいつもよりずっと遠く感じる。傘はきちんと持ってはいるのだが、ビニール傘では心もとない。案の定風でぽきりと骨が折れ傘はぐるりと裏返った。これでは傘の意味をなさず、スーツも中まで水がしみ込んでどっと重くなり、絞っても絞っても追いつかない。しまいには雷までビリビリと空を裂き、昏い空に金色の光を幾筋も走らせ始めた。
「あぁ、これでは危ないな。鞄もすっかり水を吸って傘代わりにもならなさそうだ」
私は雷雨を避けて小道を通り抜け、その先の開けた場所へと走り、屋根の下へと逃げ込んだ。
「わっ、冷たいな」
剥がれた瓦を通り抜けた雨粒が背中を濡らす。これでは雨宿りもろくろく出来やしない。ぐるりとあたりを見まわすと、どうやらそこは廃寺のようだった。
「こんな場所に寺があったのか、近くを通ったことは何度もあるのに気付かなかったな」
人気のない廃寺、ということは近くには墓地があるはずだ。そう考えると濡れた肌に一層ぞくぞくとした寒気が襲ってくるようで、私は直ぐにその場を離れようとした。すると、目の中に赤が突然飛び込んできた。先刻までは全く気づかなかったその赤は、私の苦手なあの紫陽花の赤だ。それだというのに私の目はその赤にくぎ付けになり、どうにも目が離せなかった。そして、その赤の上にビカリと一本の太い稲妻が走った。
「そうか、赤、赤い紫陽花……」
その時私の脳裏に、まざまざと幼き日の記憶が蘇って来た。
幼いころ私は鎌倉で暮らしていた。いや、暮らしていたというと多少語弊があるかもしれない。遠縁の家に母と二人で間借りしていたのだ。離れといえば聞こえはいいが半分物置状態の黴臭いそこに、日中私の居場所はなかった。母が仕事探しに奔走していて留守にそこの家の長男が仲間とバンド練習をしていて押し入れにしまった私たちの布団を取りだしてどすんびたんとジャンプをしたり「ぎぃぃきえー」といった金切り声をあげている間、居候の身の私が母屋に招き入れてもらえるはずもなく近くの寺の境内で一人遊びをしていた。幼かったせいか寺の正式な名前は憶えていないが、地元の人々には紫陽花寺と呼ばれていた。その名の通り、寺の境内には青や紫の花々が咲き乱れていたが、私の目当ては部地だった。寺の裏側、雨が降っていない時でもじめじめとしたその場所に一朶だけ咲いている深紅の紫陽花の元へ通っていたのだ。
「ねぇ赤紫陽花、ボク今日お前の絵を描いたんだよ」
「わぁ、すごいね、見たいみたい!」
「えー、雨でぐしょぐしょになるから持ってこなかったよ」
「それは残念、ぜひ今度持って来て」
「うーん、どうしようかなぁ」
そう、このころの私はこの紫陽花と会話していたのだ。そんなことが出来るはずがない、勿論その通りだ。孤独だった幼いころの私は青い鼻の群れに入れずぽつんとしている赤い紫陽花に、孤独だった自分を重ねて友達だと思い込んでいたのだろう。子供にとっては珍しいことではない、空想の存在をまるでその場にいるように思い込んでしまう、いわゆるイマジナリーフレンドに近いものを紫陽花を通じて作っていたのだろう。
紫陽花と私の交流はしばらくの間続いたが、降り続いていた雨がなりを潜め始め、紫陽花たちの色があせ始めたころに突如別れは訪れた。じめじめとした場所にいるせいか深紅の色が褪せ始めるのは他より遅かったが、知腰ずつではあるが変わっていくその色に不安を覚えた私は母屋の裏に転がっていた鉢を持ち織出し紫陽花を連れて帰ろうとしたのだ。
「雨がやんだら君が枯れちゃう。いやだいやだ一緒に行こう」
その誘いに紫陽花は何も応えなかったが、私は返事をそれ以上求めず小さな手で懸命に土を掘り根元を取り出そうとしていた。しかしなかなか根の先は見えてこず、爪の間に土が詰まりその冷たさで指がかじかむ。
「おーい、お前、そろそろ紫陽花の剪定してくれや」
その時、今まで一度も聞いたことのないこの寺の住職の声が耳に微かに入って来た。
まずいまずいまずい、これでは自分は花泥棒だ。お母さんに知らされてしまう、どんなにか悲しむだろう。
いよいよ慌てた私は紫陽花の根を一気に引き抜こうとしたが力が足りず、茎がぽきりと折れてしまった。
「痛い、痛い、痛い」
すすり泣くような声と共に、折れた茎の先からはたらたらと赤い血のようなものが流れ出してくる。
「ぎゃぁぁぁぁ……」
驚いた私は赤い紫陽花を放り投げて、そのまま逃げ帰った。
それから時を置かずして母が逗子の別荘で住み込みの管理人の仕事を見つけ、転居してそちらの生活になれるころにはすっかり寺の子とも紫陽花のことも忘れてしまっていた。
「友達だったのに……」
全てを思い出した私はいてもたってもいられなくなりそのまま駅まで走り京急バスに飛び乗って鎌倉へと向かった。
雨に咽ぶ海辺の道、このバスに乗るのは母と共に鎌倉を出て以来だ。以前とは逆の道筋となるが、この道を戻るのを私はずっと避けていた。友人から遊びに誘われても、仕事の外回りで近くを通りがからねばならない時も、何だかんだ理由をつけては遠回りをして足を踏み入れるのを避けていたのだ。
邪険にされた遠縁の家での記憶が蘇るからだと思っていたが、紫陽花に対する自責の念のせいだったのだ。
あの時赤い液が見えたのは、茎を折ってしまった申し訳なさからくる幻覚だったのだろう。それほどまでに当時の私は、感受性の強すぎる子供であったのだ。
あの日住職と奥さんは紫陽花の世話をすることを話し合っていた。それなら私の放り出した紫陽花にも気付いたに違いない。そうしたらあの赤い紫陽花は花瓶に生けられたりして元気に生きていたかもしれない。
あの裏側に行けば、あの紫陽花の子孫である赤い花々が咲き乱れているのを見ることができるかもしれない。
そうしたら自分は、このことについて子供のころの自分の寂しさとも決別が出来るのではないだろうか。
そう考えると無性に胸が高鳴り、あんなに避けていた道のりがどこか楽し気なものにさえ思えてくるのだった。
「あぁ、母さん一寸残業でね、遅くなるよ」
心配して電話をかけて来た母に嘘を吐くのは気が引けたが、正直に鎌倉行きを告げるのはもっと気が重い。
「子供まで連れてきて、あなたのご両親がもういないから仕方なく家で引き受けますけどね」
「すみません、これは少ないですが」
「あらそう、でも食事は自分で用意してくださいね。これじゃあ家賃にもならないくらいよ」
私よりも母はずっとあの場所で肩身の狭い思いをしてきたのだ。
元々母の両親の家だったらしい鎌倉のその家は、祖父母が亡くなった時にまだ中学生だった母の面倒を見るという体で乗り込んできた遠縁の小母さんに乗っ取られてしまったらしい。紫陽花と話している間に、裏の墓地で口さがない近所の奥さん連中が話しているのが耳に入ったことがあった。
突如として蘇った記憶たちは濃厚でむせ返りそうになるが、失っていた時よりも心はずっと軽いような気がする。
「あぁ、こんなにゆっくりとこの辺りを見るのは初めてだなぁ」
寺に行く前に駅の構内で土産物を冷やかして回ってみる。母さんに渡せない土産、けれど何かを手に取って買いたい気持ちが湧き上がり、鎌倉コロッケや鳩サブレ―といった定番の土産を買い、こっそりと駅の隅で口に入れてみる。
「そうか、こんな味がしたんだなぁ。揚げたては旨いなぁ。サブレーも甘いや」
独り言ちながら鞄に入れていたペットボトルから生ぬるい水をぐびりと飲み干し、いよいよあの寺への道を歩き始めた。
寺の名は覚えてない、けれど母さんと手をつないで歩いたバス停までの道はしっかり覚えている。涙をこらえて唇を噛み締めて前だけを見ていたあの横顔と共に。
一歩一歩、早くなったり遅くなったりする足取りは私の心を現しているようだ。
バスの中、駅ではあんなに意気揚々としていたが、ひょっとしたらあの赤い紫陽花はもはや一朶たりともあの寺にはいないかもしれない。
しかしこのまま引き返したら、重いものが胸の奥に巣くったままになってしまう。
そんなことは御免だ。足に力を籠め雷が消えすっかり暗くなった足元に力を込めて寺へとやっとたどり着く。
参拝時間はとっくの昔に終わっていたが、そこは昔取った杵柄で裏への道は足がまだ覚えている。青い紫陽花の密集した奥にある細い階段の少し横にある荒れた細い道を昇り、木々の間を通り抜ければあの場所だ。
はたしてそこには、赤い紫陽花は無かった。ほおっとため息を吐きそのまま踵を返して引き返そうとすると、足が一歩も動かないことに気付く。
ぬかるみに埋まってしまったのだろうか、しかしそこに柔らかさはなく、ただ固く足首を掴んで離さない。
「やっと来てくれたんだね」
その時、耳にあの懐かしい声が入り込んできた。
「お、お前は紫陽花……まさか、そんなことが、あれは私の想像だろう」
「ふふふふふ、そう私はあの時の、でもね、あなたの想像の産物じゃないし、しゃべる紫陽花ってわけでもないわ」
「ひゃっ、ど、どういうことだ。お前は何者なんだ。ま、まさか化け物!」
「うふふふふ、面白ーい、あなたやっぱり愉快な子ねぇ、しゃべる紫陽花は想像だと思うのに化け物がいるとか思っているの?」
ころころころと軽快で鈴の様な笑い声、しかし今の私には恐怖の対象でしかない。
「じゃ、じゃあ何だって言うんだ!正体を見せろ!ここに出て来い!」
「あら、それは出来ないわ」
「出来ないっていうなら、やはり化け物だろう!」
「だからぁ、違うって言っているじゃない。私の姿は子供にしか見えないのよぅ」
「へっ、どういうことだ?」
「うーん、私は紫陽花の付喪神なのよ。精霊って言った方が分かりやすいかしら」
「ほら、やっぱりあの真っ赤な紫陽花じゃないか!生きてたんだな」
「うーん、あの紫陽花というわけでもないのよねぇ、よーく思い出してみて、あの紫陽花って本当に赤かった?茎から出たモノのせいで勘違いしてない」
頭をひねり、よくよく考えなおしてみるとぼんやりと再度浮かび上がって来たその姿は真紅ではなく赤紫だった。
「あっ、赤紫」
「そうそう、良くできました!あなたって子供の心がそのまま残っているよね、本来なら私の声だってもう聞こえないはずよ。記憶だって消えているはずなのに!」
「えっ、それは!」
「あの赤い液は、記憶を消す効能があったのよ」
「えっ、血じゃ」
「いやいやいや、血とか出ないでない!」
ケタケタと明るい笑い声、足はまだピクリとも動かないままで、考えるまでもなく尋常ではない状況の中にありながら私の口元はゆるみ知らず知らずのうちに口角が上がってもいるようだった。
「でも、痛いって……」
「あーあれはね、墓地の幽霊がいたずらしたのよ!」
「やっぱり、いるんじゃねーか!」
「いやいやいや、さっき化け物って言ってたでしょ」
「そんなん、どっちも似たようなもんだろ!」
「えーそんなこと言うと、怒られちゃうわよ」
すーっと首筋を冷たい風で撫でられたような気がして私は思わず首をすくめた。
「ふふっ、怖がりさん」
紫陽花の付喪神は、まだ楽しそうに声を上ずらせる。
「そりゃあ、未知のものは怖いだろ」
「でも、あなたは私といつも楽しくおしゃべりしてたじゃない」
「それは子供だったから、それに子供の心をずっと持っていたわけじゃないんだ。今日仕事の帰りにたまたま赤い紫陽花を見かけて……」
「それで思い出したのね」
「そうなんだ」
「まぁ怖い思いをさせちゃったものね。仕方がないわ、それでもここに戻って来たのは何故?」
「それは……ずっと赤い紫陽花が苦手だったから、でも原因が今日分かって。それでここに来て赤い紫陽花を見ればそれを克服できるんじゃないかと、まぁ勘違いだったわけだけど」
「あぁそうね、色も何もかも勘違いねふふっ」
「あまり笑うなよ」
「ふふふ、でもそれでも愛に来てくれて嬉しかったわ」
「そうかよ、でも君はあの紫陽花じゃないんだよな」
ふわっと温い風が耳たぶをこする。どうやら付喪神のため息のようだった。
「そう、あの赤紫の紫陽花はねもう寿命が来ていたの、剪定してももうどうにもならなかった。それでね、いつも話しかけてくれるあなたとどうにかおしゃべりしたいって」
「それで君が」
「そう、でもね、あなたは私の本当の姿も見ているはずよ。もう思い出せないかしら」
その言葉によみがえった記憶の一つ一つをパズルをはめるように一つ一つ整理していこうとするが、なかなかうまくいかない。雨で潰れたお供え物のお饅頭に滑って転んでひざと靴があんこだらけになってしまい、母に気付かれないように公園の水道で必死で洗ったこととか、どうでもいい記憶ばかりが蘇ってしまう。
「うーん、ううん……」
私が考え込んでいる間、紫陽花の付喪神は一声も発さない。しかし消えてしまったわけでもないようで足もまだ動かすことが出来ず土につかまったままだ。
あー、これって思い出すまでここから動けないとかそういうヤツかな、面倒くさいことになっちまったな。いや、思い出したいことは思い出したい気分だが、このままだと終バスが……
悶々としている私の頭上をいつのまにか薄くなっていた雨雲のすき間から月が優しく照らしてくれた。
「あっ、そうだあの日、悪天候で母さんの帰りが遅くなった日、こんな月の日に」
「そうそう」
急に復活した声に背筋がびくっとする。
「いや、脅かさないでよ」
「ごめんごめーん、それで」
「そう、離れであいつらが酒盛り始めちゃってここに来て話しかけたけど紫陽花なんも言わなくてそしたら……」
深紅の紫陽花の帽子をかぶった年恰好が同じくらいの女の子が目の前にひょっこり現れたのだ。
「あ、あの、紫陽花帽子の!」
「そうそう、帽子じゃないけどね!」
ぱちんと手を鳴らす音と共に、私の前にはもわもわと月明りに照らされた紫陽花帽子が現れた。あの日と同じ、ではない。目の前にいるのは幼い女の子ではなく私と同じ年頃の大人の女性だ。
「あ、あれっ、付喪神って年取るの?」
「へぇっ、私年取ったの?」
「自分でわかんねぇの?」
「うん、鏡には映らないし、湖面とかにも映らないと思う」
「思う?」
「そう、私、紫陽花のいる場所にか動けないから、ここから出たことが無いの」
「そうなんだ」
「うん、だからね、あの日君が紫陽花と一緒に家に帰ろうとしたとき一緒に行けると思ってちょっとワクワクしてたんだ」
「ご、ごめん……」
あの日私が失敗したから、それは叶わぬ夢となったのだ。
「いいっていいって、あのね、どっちみち無理だったんだ。赤紫さんは自分がもうすぐ終わってしまうって分かってた。だから、それを君が傍で見てショックを受けないように一緒にはいかないって決めてたみたい。だからね気に病む必要はないんだよ。彼はね、あの後直ぐに奥さんに見つけてもらって床の間で美味しい水を飲んで最後まで楽しそうにやってたよ」
「あ、あぁ彼だったんだ」
かなりどうでもいいことが気にかかる。
「あ、いや、どっちでもいいんだけどね」
「そ、そうなんだ」
「うん、私は君にどう見えている?」
「紫陽花の……真っ赤な紫陽花の帽子を被った大人の女性。
綺麗なというのは恥ずかしくてとても口に出来なかった。
「あ、あのさ、あの紫陽花じゃなくても紫陽花のある道をたどって行けば君は外に出かけられるの?」
どうにも気恥ずかしくなって話を逸らすと彼女はしばしうーんと考え込んだ。
「赤紫陽花さんの子孫に聞いてみるわ!」
「へっ、いるの?」
てっきり切り花としてその生涯を終えたのだと思っていた。
「うん、根っこは残っていたからそこからすくすく育ったよ」
「でも、赤紫の紫陽花はどこにも」
「うん、ここの土はちょっと変わったからね。そこの紫のが子孫さんだよ」
「あっ、土で色が変わるんだ」
「そうそう、後ね、赤紫さんはもうお年寄りだったからさ、人間でいう白髪みたいな感じだったの」
「そ、そうなんだ」
紫陽花は好きだなんて思いながら、私はそんなことすら何一つ知らなかった。
「ねーねー、紫紫陽花さん、私紫陽花をたどって行けばここから出られるの?」
ひっそりと一人反省する私をよそに、彼女は紫の紫陽花と何やら会話をしているようだ。ようだというのは、紫陽花の声は私には全く聞こえないからだ。
「あー、うんうん、そうなんだねー、そっかそっかー、ふーん分かったーオッケー」
いつの間にか話は終わっていたようだが、どうなったのかはさっぱり分からない。
「な、なぁどうなったんだ?結局出かけられるのか?えっと、赤紫陽花の付喪神さんよ」
堪えきれずにこちらから質問すると、彼女はくるりとこちらへ振り向き何故か不満そうに深紅の唇を尖らせた。
「え、えっと、ダメだったのか?赤付喪神」
すると、質問には尚も答えず頬までぷっくりと膨らませている。
「ねー、何なのその赤紫陽花の付喪神とかちょっとだけ略して赤付喪神ってさー」
どうやら呼び方に不満だったらしい。
「そんなこと言われても、他にどう呼べと?名前とか知らねぇし、つーか名前とかあるのか?」
「ふんっ、特にないけどね」
「じゃあ、他に呼びようがないじゃねぇか」
「いや、何かあるでしょ!考えてよ」
「じゃあ、赤ちゃんとかか?」
「いやよ!私バブバブ言ってないでしょ。さっき大人の女性だって言っていたじゃない」
そう言われても、どうしたらよいか分からない。
「じゃあ、赤つくちゃんはどうだ?」
「へぇ、いいじゃない。ふふっ、赤つくちゃんっ」
破れかぶれで咄嗟に口から飛び出した呼び名を、彼女改め赤つくちゃんは気に入ったようだ。どう考えてもさっきとほぼ変わらない様な気がするのだが。
「ところでさっき紫紫陽花としゃべっていたようだが、結局ここから出られるのか?」
「あぁその話ね。うん、紫紫陽花さんと一緒に出掛ければいいって言われたわ」
「そ、そうか」
頷きつつも、あの茎からびゅーびゅー赤い液の噴出したトラウマが蘇ってたらりとこめかみから脂汗が流れ出る。
「ど、どうやって掘り出すんだ?」
「あぁ、簡単よ」
赤つくちゃんが緑色に染まった指先をぶんぶんと振り回すと、紫紫陽花はふわりと宙に浮き根もするりと土から抜け出した。
こんな簡単なことだったのか。だったらあの時もこうやってくれれば余計なトラウマを植え込まれずに済んだのに。赤紫紫陽花の事情があったとはいえ、今度はこちらが唇を尖らせたい気分になる。
「じゃあさ、根っこを水に浸さないといけないから、うーん、君はコップとか持っている?」
こちらの不満などどこ吹く風で赤つくちゃんはいそいそと指示を出してくる。
「あぁ、コップはないが殻のペットボトルならあるぞ」
「じゃあ、手水場でそれにお水汲んできて頂戴な」
そう言われても、私の足は未だ何かに掴まれているように動かないままだ。いや、まてよ、赤つくちゃんはずっと自由にこの場を動き回っているというのに、一体何がこの足を掴んでいるというのだ?
「あ、あの、足がずっと動かねぇんだが」
「あら、すっかり忘れていたわ!ふふっお京さんもうお帰りになって結構よ」
赤つくちゃんがパチンとウインクすると、突如私の足元は軽くなりずるずると褐色の手の様な物が土中に沈んでいくのが見えた。
「ひぃぃぃぅ、お京さんって」
「ふふふ、今は使われていない井戸に住んでいる幽霊さんよ」
さらりと答えられてもうどう反応したらよいやら分からなくなってしまった。そもそも紫陽花の付喪神とこうして会話していること自体が超自然現象なのだ。
「ねー、もたもたしていないで早くお水お水、紫紫陽花さん喉がカラカラだって」
急かされるままに手水場で殻のペットボトルに水を汲み、その中に紫紫陽花の根を差し込むと紫紫陽花の葉がにょきにょきと伸び、私の首に巻き付いた。さながら紫陽花型の水筒を首から下げた幼稚園児のようだ。恥ずかしくないと言えばうそになるが、もうどうにでもなれと腹をくくる。
「よしじゃあ、行くぞ」
「わーい」
私の言葉を合図に、赤つくちゃん、私、首の紫紫陽花は紫陽花寺の裏道を通り外に出ることに成功した。どうせ超自然なら頭の赤紫陽花がぶるんぶるんプロペラのように回って空中散歩などするのではと空想してはみたが、そんな機能はついていないようで一歩一歩泥だらけの靴で地を踏みしめて歩くしかなかった。
「わー、お寺の外ってこうなっているのね。すごいすごいこれは何?」
「あぁ、ガードレールだけど」
「これはこれは?」
「茶店だな、閉まっているが」
何でもないどこにでもあるようなありふれた光景が、赤つくちゃんにはどれも新鮮なようで、その楽しそうな笑顔を見ているとほっこりはしたが折角の外出に鎌倉らしいところを案内したい気分になった。とはいっても私も鎌倉の観光スポットにはあまり詳しくはない。思いついたのは夜の海、夜光虫を見せてあげることくらいだった。
「なぁ、海……は行ったことないよな?」
「うん、行ってみたい!お水がしょっぱいって本当なの?」
「あぁ、花には毒かもしれないが、飲まずに観るだけ潮風を浴びるだけなら平気だろう、ちょっと歩くけど大丈夫か?」
「うんっ!」
結局歩きなれていない赤つくちゃんは途中でへたり首から紫陽花をぶら下げ、背中に赤紫陽花の付喪神を背負って前も後ろも紫陽花まみれになった私は30分かけて七里ヶ浜へとたどり着いた。
「わー、すっごい綺麗ねぇ、波の上がぴかぴか光っているわ。あれは蛍?海の蛍なの?」
さっきまで背中でへたっていた赤つくちゃんは砂浜を勢いよく走り始める。
「いや、あれは夜光虫、プランクトンってやつだよ」
「へーへーそうなのね」
夜光虫を見ることなど珍しくはなかったが、ここまで喜んでくれると私の目にもいつもよりその光が眩さを増したような気がしてくる。
「はー、走り回ったら喉が渇いたわ」
赤つくちゃんは私ににじり寄り、首の紫紫陽花にすっと唇を寄せてその葉にたまっていた夜露をちゅるちゅると啜った。その様子が妙に艶めかしく背筋がぞくっとして思わず後ずさると赤ふくちゃんは濡れた唇をぺろりと嘗めてふふふと笑い小首をかしげる。
「羨ましい?」
それが吸われた紫紫陽花に対してなのか、それとも吸った自分に対してなのか、どちらにせよ動揺した私はぶんぶんと首を振る。
「いや、雨とか飲めねぇし、こっちは人間だから水分湧いてねぇし。あっ、でものど乾いたなちょっとそこの自販機行ってくらぁ」
スポーツドリンクを二本買い波打ち際に戻ると、赤つくちゃんは波に足を伸ばしては触れそうになるとひっこめてを繰り返していた。
塩分は毒かもしれないと私に言われたのを気にしているのかもしれない。
「おい、赤つくちゃん、お前は付喪神だから水に触れてもいいと思うぞ、それとこれスポドリ」
冷たい缶を首筋にあてると赤つくちゃんは満面の笑みで爪先を水に浸した。
「わぁくすぐったい、冷たくて気持ちがいい」
そして、スポーツドリンクをぐびぐびと飲み「ふふふ蜜が甘くなっちゃいそう」と今度は少し寂しそうに笑った。
「花じゃないだろ」
「まぁそうだけど」
いつの間にか空は白み始め、赤つくちゃんの姿はどんどん透明になり始めていた。
「そろそろ時間みたい、私たち帰るわね」
私の首の紫紫陽花を外し自分の首に掛けると紫紫陽花も同じく消え始めた。
何だよテレポートできんじゃねぇか!いや、そんなことじゃない。何か言わなきゃと心が焦る。
「あの、紫陽花って散るのか?」
しかし、そんな言葉しか出てこない。
「散らないよ、萎んでも色褪せても花が終わっても新しい芽が出て次の世代に引き継がれるからずっとずっとその中で生きている」
あぁそうか、紫陽花は散らない。ただ少し眠るだけなんだ。見えなくなってもずっと、君はそこにいる。
帰ったら鎌倉に来たことを母さんに話そう。封の開いた食べかけの鳩サブレ―と一緒に。
何も無くなってしまったシャツの上にぎゅっと手を当て、私は自分の鼓動を感じる。とくんとくんとくん、もう一人きりなんかじゃない気がした。
雨がやんだら紫陽花は くーくー @mimimi0120
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます