湘南幻燈夜話 第九話「とんとんとんからり」

湘南幻燈夜話 第九話「とんとんとんからり」

「申しわけございませんが、車はここまでしか入れませんので」

 助手席の専務は太い体をねじり、背後の夫人に詫びた。

「わかりました」

「あのう、奥さま、ほんとうにいらっしゃるのですか」

「ええ。そのためにここまで参りましたのでしょう」

 あきらめた専務は、外へ出ようとする運転手を制して自分が先に車を降り、夫人のために後部座席のドアを開けた。

 夜来の雨は幸いに上がった。おしめり程度のしとしと降りだったが、水はけの悪い崖下一帯はまだ水びたしだった。乾いた場所など、どこにもない。足を下ろそうとした夫人が一瞬ためらうのを見て、やはりお連れするのではなかったと専務は後悔した。だが、ここで怯まれては困る。これから先はもっと覚悟がいるのだ。ようよう車から降りた夫人を助け、専務は泥たまりをよけながら先へ進んだ。

 六軒が向かいあわせに軒を接した長屋だった。これで真ん中に井戸端でもあれば落語に出てくる貧乏長屋そのものだと専務は考え、いや、井戸がなくてもりっぱに長屋のコンセプトを満たしていると訂正した。

 棟割長屋の路地には雑多なものがひしめいていた。ビールの空き瓶を放りこんだケースがドーンと積まれてかしぎ、日本酒の一升瓶が転がり、割れた七輪が散らばり、取っ手のもげたベコベコのアルミ鍋が長梅雨の濁り水をたたえてボウフラを育成し、ぺんぺん草は散乱する瓦けに溌剌と群生、こわれた三輪車や錆びついた自転車であったらしい残骸がへしゃげ、物干し竿は早くも路地の上下左右にさしわたされて、赤ん坊や子どもの色あせた服、機械油の染みついた作業衣、股の黄ばんだ股引などが雑然とぶら下がっていた。専務はうしろにつづく夫人を気づかった。若い夫人の顔色は心なし青ざめていたが、珊瑚色にぬられた唇はきりりと引きしめられ、矜持を保っている。まったくどんなときでも気丈でしっかりとしたお方だと壮年の専務は感心し、いささかうんざりもした。

 ふたりは長屋列のほぼ中間までなんとかコケずにたどりついた。その一軒のまえで専務はポケットから鍵を出し、ベニヤ板がささくれて浮きあがった戸をほとんどもぎ取りそうな勢いで引っぱった。入ればいきなり台所の流しが目に飛びこむ。三和土たたきに男物のビニールサンダルが一足脱ぎすててあり、たった一間きりの四畳半は戸を開けたとたんに丸見えだった。専務がここへ来るのは二度目だ。最初は部課長ら四人が乗りこんだ。まだ事態の全容がつかめなかったからだった。とにかく、すべては上層部だけで秘密裡に行われたのだった。

「お上がりになりますか」

 もうここでいいだろうと思ったが、一応はきいてみた。

「スリッパを」

 やっぱりね、と首をすくめ、夫人が用意して自分に持たせたスリッパを袋から出した。

 服に合わせたシックな色合いのフェラガモをひび割れたコンクリに脱ぎそろえ、夫人はヴィトンのスリッパにほっそりした足をすべりこませた。

 ひびだらけの細かなタイルを張った流しに金盥ひとつ、汚れたガスコンロが一台、上に黒ずんだ薬缶、そのほか鍋釜茶碗いっさいなく、女の気配などみじんもなかった。流しの横が和式便所、風呂はもちろん、ない。洗濯屋の針金ハンガーに信金のタオルが一枚ばりばりに乾いて貼りついていた。流しの上に急須とふちの欠けた湯呑み、番茶の入った茶筒、使用ずみの割り箸が二膳、カップ酒の容器には歯ブラシと歯磨きがさしてある。ちびた石鹸が醤油小皿にあり、使いすての髭剃りがのっていた。窓には曇った鏡が一枚立てかけてあるきりだ、

「初めからこのようだったのですか」

「はあ、そのままでございます。なにも手をつけておりません」

「冷蔵庫もテレビもなかったのかしら」

「ございませんでした。あとはそこの……」

 靴を脱いで部屋に上がり、専務は四畳半の押入れを開けた。

「寝具一式に座布団が十枚」

「まあ、座布団ばかりどうしてそんなに多いのでしょう」

「それはですね……」

 専務は夫人を上目づかいに見て、うしろ、うしろ、と目で示した。

 けげんそうにふりむいた夫人は、

「あらっ」

 小さく声を上げた。

 開けっぱなしの戸口に、老若男女合わせて八つの個性的な顔が団子のように積みかさなっていた。

「や、どもども。あいにくの天気だったけんどよ、上がってよかったべえ」

 長屋の長老を自任するジジイがしゃしゃり出た。

「路地をよ、ちったあ片づけとかなきゃって思ってたけんどなあ、あの降りでよう」

 ほんの小雨を暴風雨にして禿げ頭をこすった。

「長屋の、あ、いや、この集合住宅にお住まいの皆さまです」

 専務がジジイとその他大勢を紹介した。

「そうですの。皆さまには主人がたいそうお世話になりましたそうで、有難う存じます」

「えっと、こ、このたびはよう、なんつーか、ほれ、ご、ご愁傷さまってやつで」

 それなりに年の功でなんとか遺憾の意を表し、ジジイにうながされた一同は深々と頭を下げた。

「びっくりしたよう。タケちゃん、心臓マヒで死んじゃったんだってねえ」

 頭を上げるなり、カカアたちは口々にさえずってしおらしく目頭を押さえた。

「タケちゃん?」

 細く優美なカーブを描いた夫人の右眉が、ピクーンとはね上がった。

「奥さま、社長はここではそのような名で親しくお付き合いいただいてらしたようです」

 大財閥のひとり娘である自分の婿養子である夫の武彦と長屋のタケちゃんをやっとひとりに重ねあわせ、夫人はうなずいた。

「それは恐れいります。ところで主人はここではどのようにしておりまして?」

「ど、どのようにしてって?」

「専務から一通りは聞いておりますが、暮らしぶりなどをお聞かせいただければと存じます」

「暮らしぶりったってよお、タケちゃんはひと月に一度か、多くて二度、土曜にしかけえってこやしねえよ。そんでもって月曜にはまた出稼ぎ先に行っちまう。ま、あんときゃ、わしらみんなタケちゃんをどっかから来た出稼ぎ人って思ってたからよう。そうさなあ、もう一年くれえになるなあ、タケちゃんがここ来てからよ」

 ジジイは腕を組んで、遠くを見る目をした。

「出稼ぎからけえって来るときゃいつも一升瓶を二本も下げて来てな、つまみも買っといてくれるし、みんな呼んでくれて大宴会さね」

 一九分けのオッサンが口をはさむ。

「おうよ。てめえの茶碗だけ持ってきなってんでよ、きっぷがいいったらねえや」

 耳にシケモクをはさんだ角刈りアニイがなつかしそうにいった。

「破れ畳にじかじゃケツが痛てえなんてこのジジイがぬかしたらよ、すぐに座布団がどさっと届いてさ。やけに気前いいじゃんって思ってたけんど、やっぱなあ……」

「けんど、まっさか、そんなド金持ちだったなんてなあ」

「ぜんぜん知りゃあしねえもんよ。もう、びっくりひゃっくりそれっきりさね」

「そうよ、たんたんたまげたタコ踊りだっつうの」

 いっせいにしゃべり出すと、夫人と専務はなんだか見知らぬ国に迷いこんだようで呆然とした。

「にぎやかなのが大好きだったなあ。おれらがくっだらねえホラ吹いてもよ、ものすげえ楽しそうにな、腹かかえて大笑いしてさ」

 夫人はかすかに眉をひそめた。

「さきほどからうかがっておりますと、なんですか、ほかのひとのような気がいたします」

 大粒ダイヤの結婚指輪が光る左手を頬にあて、夫人は考えるそぶりをした。

「主人はたいへんもの静かなひとでした。大声など、わたくし、いままで聞いたことがございません。まして大笑いするなど、そのようなはしたないことはいちども」

 そのひとことで、長屋一同どっちらけた。

 カカアのひとりが夫人のシャネル・スーツとエルメスのバッグをじろじろと値ぶみしながらきいた。

「タケちゃんがここ来てること、奥さん、ぜんぜん知らなかったのかい? なんかあやしいとかさ」

「いつもよりすこし活気があるようだと思うこともございましたが、わたくし、主人を信じておりましたから」

 聡明な夫人は、なにも勘づかなかったトンマな女房と認めさせたいカカアたちの魂胆を敏感に察知し、その手にはのらなかった。

 夫の急死後、会社の机の引出しにコインロッカーの鍵が隠してあり、それは横須賀の京浜急行逸見へみ駅のロッカーで、中から周旋屋の書類と家の鍵らしきものが出てきて上を下への大騒ぎになったことなど、野次馬根性むき出しの下賤な下層階級に聞かせて喜ばすつもりはない。

「そう申しましたら、ときどき小声で妙な歌を口ずさんでおりました」

「妙な?」

「ええ。とんとんって」

「なんだ、そりゃ。肩叩きのことですかね」

「とんからりって」

「もっとわかんねえ。機織り機かな」

「さあ…となりぐみがどうとか」

 里芋に似たジサマが前歯の抜けおちた口を開けて、

「あーっ、わかっちゃったもんね。それ、戦時中の歌だよ。とんとんとんからりっと隣組ってやつだろ?」

 得意満面で騒いだ。

「あ、そうだぜ。あーれこーれ、めんどう、みそしょーゆ、ってね」

「たあーすーけられたり、たすけたりーーーぃ、とくらあ」

 一同歌詞などめちゃくちゃに大合唱して、はっと気づき、

「あ、いや、どうも、はや、すんません。すぐ調子にのっちまって」

 長老ジジイはヤニだらけの歯をむき出して照れた。

「奥様、もうそろそろ、おいとまを」

「そうですね。専務、あれを」

「は」

 専務は用意してきた分厚い熨斗袋を背広の隠しから出した。

「やっ、そいつぁいけねえよ。おれたちゃそんなつもりでよう」

「そうさ、勘ちがいしちゃいけねえや」

「だめだめっ、受けとんないよ」

「おうよ、長老のこのわしが勘弁しねえぜ」

 口々にいいつつ、長老ジジイはせわしく手をふって熨斗袋をかっぱらい、電光石火で腹巻へ突っこんだ。

 みなさまにはすっかりおせわにあいなりまして、これはほんのうんたらかんたらでございます、どうぞくれぐれもあーだこーだぬかさずに、ごないぶんにひとつよろしゅう、わかっとんな、おう、びんぼーにん、と決めの台詞をいいそこね、専務は機嫌もそこねた。

「行きましょう、専務」

「はい、奥さま」

 へそが曲がってしまった専務は、専務、専務ってうるせえ、おれにも名前はあるんだよとふてくされた。 


 装飾をケチった霊柩車のような黒塗りリムジンを見送って、長屋の住人たちはどーっと気が抜けた。

「あーやれやれ、肩こっちゃった」

「コエダメにクソってな、あのネエちゃんだなあ」

「おい、だれかおせえたれや、このスットコドッコイによう」

「あのなぁ、それをいうならコエダメにカメってんだ、アホ」

「あーあ、やだやだ、キョーイクのねえってなあ情けねえ。ゴミタメにカモだよっ!」

「まあまあ、いいさ。けんど、わりぃ女じゃねえよ。な?」

「ああ、マブイしよ。だけんど、なんちゅうか……アレがよう」

「おお、ナニだってんだろ?」

「そうよ。つまりな、コレがよ、なんだ、ほれ、アレなんだよ」

「もっと、こう、ナニやらよう」

「うん、ソレさ」

「ソレ、ソレ、そんなんがねえんだよなあ」

 わいわいがやがや、かしましく騒ぎたてた。

 通訳すると、タケちゃんの女房はけっして悪い女じゃないが、利口できれいでそつがなく、ごりっぱすぎて人間臭さがまるでなくて、旦那がなぜだれにもないしょでここへ来ていたのか、なぜここを気に入っていたか、本当に求めていたものがなんだったのか、まず一生わからないだろうな、とアレとソレとコレとナニだけで分析し、検討し、満場一致で可決した。

                            ― 了 ―


*「隣組」昭和十五年、NHKの国民歌謡で放送された戦時体制下の隣組制度宣伝啓蒙歌。作詞、岡本一平、作曲、飯田信夫。戦後もNHKテレビ「お笑い三人組」主題歌として歌われた。

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湘南幻燈夜話 第九話「とんとんとんからり」 @kyufu

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