第14話田中巡査のお手柄
早田蓮花の移植手術から一週間後、やっと繋がった電話に出た早田柚葉の母親である早田杏子の反応は、貫井が想像していたものとは全く違っていた。
「娘? 私にはいません。柚葉? そんな名前知りません」
余りのショックでそんな反応をするのかとも思ったがその声は落ち着き払っていて、電話を代った杏子の姉の百合子の「すみません……妹はいつもこうなんです。私が分かることであれば代わりにお答えします」という言葉から、事故によるショックではないのだということが受け取れた。
娘の移植直後で多忙な早田百合子に時間を取ってもらうわけにも行かず、早田蓮花と息子が友人関係にあることも知らなかった真田疾風の両親からも事故につながるような話は何も聞けず、現場の状況から急な嵐によるハンドル操作のミス、タイヤがすり減っていたことによりブレーキをかけてもうまく停止できずに同乗していた二人ともに投げ出されてしまった自損事故、当初の捜査通りの結論が出て、門田と貫井の捜査はそこで打ち切りとなることになった。
「事件、ではなかったんだよ。貫井ちん、あれは事故だったんだ。一足遅くバスに間に合わなかった。突如春雷が襲った。濡れた地面にすり減ったタイヤ……全てが連鎖して不幸な結末に繋がってしまったんだ」
珍しくあんパンも食べず、いつになく神妙な表情の門田は貫井にそう言ってぽんと肩を叩こうとして届かずに掌はスカッと宙を撫でた。
門田がそんな顔をしてしょげているのは、自分が願い出た捜査が打ち切りになって落ち込んでいる貫井を慮ってというわけではない。
いや、多少はそういう面もあるのかもしれないが、多くは他の理由によってなのだ。
貫井と門田が独自に聞き込みをし、日記の重なっているだけではなく上からぐしゃぐしゃと歪んだ円を描くようにボールペンで打ち消した場所まである文字跡を何とか解読しようと悪戦苦闘をしていた間に、一人の巡査が手柄を立てた。
市内の中学校をパトロールしていたところ、辺りをきょろきょろと見回しながら不審な動きをする男を職質すると、その男のシャツの後ろからぼろぼろと使用済みの制汗剤と薬用リップクリームが落ちて来たのだ。
ズボンのウエストに挟んで隠していたものをくねくねと動きながらなんとか移動させようとして、落としてしまったようだった。
慌てて逃げ出そうとした男は溝に嵌って転倒し、直ちに身柄を拘束された。
その動機は中学時代に汗っかきでシャツの脇がいつもびしょびしょだと女子にからかわれたのがトラウマになっていたと本人は供述したが、リップクリームについてはただの趣味だった。
その場でさっくりと動機も聞きだしお手柄を上げた巡査は、交番勤務の新人警察官の田中巡査、貫井と入れ替わるようにして入って来たあの彼だった。
「門ちゃん、事故の件は空き巣捜査の合間を縫ってって言ったよね! 全く、何をやっていたんだって私が署長に大目玉喰らっちゃったよ」
刑事課長にコテンパンに叱られて、さしもの門田も落ち込んでいるようだ。
「あぁ、私がこっちの捜査にすっかり気を取られてしまっていたので、門田さんも合わせてくれてたんですよね」
肩を落として背中を向けている門田に話しかけると、何やら甘い匂いが漂って来るのに気づく。
しょげているはずの門田は、俯いてあんパンを頬張っていたのだ。
「ちょっと! 張り込み中でもないのに何間食してるんですか!」
「むひゃひゃ、怒られたら何か腹減っちゃってさ、エネルギー充電しようと思って」
「もうっ、今日全然体力使ってないのに、全部体に蓄積されちゃっても知りませんよ」
「ははは、そしたらアイススケートリンクにでも行って消費しようかな」
「えっ⁉ 門田さんがアイススケート?」
全くイメージに合わない。
想像して吹き出しそうになっていると、門田が追い打ちをかけて来た。
「ねー、貫井ちん、ここで一つ豆知識。イタリア警察にはスケート部があって、五輪にも出たらしいよ。どう、ねぇどう? 私たちもペアを組んで五輪目指しちゃう?」
スケート靴を履いた門田が、くるくると銀盤の上をかろやかに回転する。
似合わない……どう考えても似合わない。腹を使ってすいすい滑っている方がしっくりくる。
「ぶわはっは、無理です。無理です。私門田さんを持ち上げて放り投げる自信ないです」
「えー、持ち上げるのは私の方でしょ」
「それも無理―! ありえないから」
腹がよじれそうなほど散々笑ってから書類の整理を終えると、珍しくまだ日が高いうちに帰路につくことになった貫井は、ゆっくりと散歩がてらに坂の下の公園やその上の坂を通り、上にあるあけび山総合病院をしばし眺めた。
あの日、早田柚葉と真田疾風はここに緊急搬送された。
自転車から投げ出されガードレールの支柱に頭を打ち付けた後、損傷して折れ曲がっていた袖ビームに背中をえぐられた早田柚葉の頭部および体の損傷は激しくほぼ即死状態だったと見られる。
真田疾風の方は転倒し道路に激しく頭部を打ち付けた後坂から転がり落ちて再度頭部を強打し、脳幹の機能が停止し脳死状態となった。
早田柚葉の心臓は、早田蓮花のいる坂の上にたどり着く前に停止してしまっていた。
彼女が実際に何を思っていたのか、最早知る由は無い。
早田柚葉の心臓は、蓮花の胸の中で鼓動を刻むことは無かった。
しかし、蓮花の命は救われた。
蓮花の容体が悪くなったのが二日後だったら、少年のバイク事故が起きた後であったなら、この自転車の自損事故が起きることは無かったのだろうか。
二人は死へと向かうことは無かったのだろうか。
足元のアスファルトを見つめながら、貫井はゆっくりと首を振った。
あれは事故だ。そうとしか、言いようがないのだから。
それからゆっくりと自分の足首に目を向ける。
姉妹のいなかった貫井にとって、彗は姉のような存在だった。
その点では早田柚葉と蓮花の関係と少しは相似点があるのかもしれない。
あれは事故に違いないのだが、早田柚葉は自分の心臓を蓮花にあげたいと願っていたように思えてならない。
何の証拠もなく、それは貫井のただの想像でしかないのだが、その想像を頭の中からいくら拭っても拭いきれないのだ。
もしも、あの時彗の足首の代わりに自分の足首を差し出せばすべて元通りになると言われていたら、自分のこの足を差し出せただろうか?
そんなことをする技術は今の世界に無いことは分かりきっているのに、考えても仕方のないことだ。
けれど、考えることをやめられない。
すぐに答えが出ないということで自分の中で結論は出ている様な気もするが、それをあきらかにしたくない気持ちがどこかにあるのだ。
重い足取りでアパートにたどり着くと、郵便受けの中にチラシが溜まっているのに気づいた。
処分しようと大量のチラシを取り出すと、宅配ピザと水道工事のチラシの間に一通の封書が挟まっていた。
実家から転送されたその手紙の差出人は清田彗。
昔と変わらない真っすぐで綺麗な文字を指でなぞり、ぎゅっと握りしめて空を見上げる。
夏のはじまりの遅い夕暮れが、青く澄み切った空を徐々に茜色に侵食して行く。
その茜色の向こうへと、名も知らぬ鳥が高く高く飛び立っていった。
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