第11話早田柚葉と真田疾風、そして早田蓮花

「あのタウン掲示板は、僕が高校の時の仲間とPCの授業の時にお遊びで作ったものなんです。今は春休みで帰省中なんですが、普段は地元にいないしバイトとかで忙しくしているので、管理は弟に任せていました」

 黒光りする革張りのソファーに深く腰掛け、なめらかな口ぶりで話す喜朗の横で、幸助はぎゅっと縮こまり兄に肩を預けるようにして気まずそうな表情を浮かべている。

「そうですか。あの書き込みはどちらが幸助さんの書かれたものなのですか?」

 貫井の問いかけに幸助は縮めた体をもっと小さく丸め、ちらりちらりと兄を見ながら、消え入りそうなほどの小さな声で訥々と話し始めた。

「僕の書き込みは、卜部……先生が事故に遇った生徒をじろじろ見ていたという……あれだけです」

 それは貫井が一番引っかかった書き込みで会った。

「そう、見ていたのは事故の当事者である二人ではないというようなことを書いていたよね」

「あ、あの、はい……あのっ、僕は卜部先生が二人を事故に遇わせたとかそういうことは書いてないんです。あれを書いた友達も、ふざけて書いただけなんですっ!」

 幸助の震える声は徐々に大きくなり、その肩はカタカタと小刻みに揺れ始めた。

「えぇ、それは分かっているよ。私たちが聞きたいのはね、それとは別のことなの」

 動揺する幸助を落ち着けようと貫井はできるだけ優しい声色で語り掛けるが、震えはおさまらず喜朗が弟の丸まった背中をゆっくりと撫でながら貫井へと視線を向けて口を開いた。

「弟はすごく動揺しているようですが、その話って今日じゃないとダメなんですか? 一体何をお聞きになりたいんでしょうか」

「怖がらせてしまったならごめんなさいね。実は私たちはあの事故について調べているんです。それで弟さん、幸助さんが事故に遇った生徒と近しいような書き込みを拝見したものですから、あの二人について何かお話が聞ければと」

「あぁ、あれはやっぱりただの事故じゃなくて、事件だったんですね」

 喜朗の意外な言葉に、貫井はハッと目を見開いた。

「やっぱりって……どういうことですか?」

 その反応に、喜朗はしまった余計なことを口にしてしまったとでも言うようにチッと舌打ちをし、悠然としていた表情を初めて歪めた。

「いえ、大したことじゃないんですが、あれは……事故の一週間ぐらい前だったかな。坂の下の公園で、あの二人を見かけたんですよ」

「はぁ、顔見知りとかだったんですか?」

「いえ、そういう訳じゃないんですけど、遠くまで買い物に行って帰りが遅くなった時に近道をしようと公園の裏手にある雑木林を抜けて行ったんです。そしたら男女の言い争う声が聞こえて……」

「それが、あの二人だったんですか?」

「はい、もう日が落ちかけていたんですけど街灯の明かりで二人の姿は良く見えて……その言い争い方がちょっと尋常じゃない感じだったので印象に残っていたんです。それで、家に帰ってから何となく弟の卒業アルバムを見てたら、その二人が載ってて」

「尋常じゃない……とは?」

「あぁ、話している内容はよく聞き取れなかったんですけれど、男の子の方が女の子の頭を木に何度もぶつけていたんですよ」

「えっ、暴力を」

「はぁ、それで僕も一応止めに入った方がいいのかな……とは思ったんですけど、何かすごい泣きながらやってて、ちょっと怖くなってしまって……」

「泣きながらやってた?」

「はい、ぶつけられている女の子の方じゃなくて、男の子の方がめっちゃぐしゃぐしゃになって吠えるみたいに泣いていて、あぁ…‥あの言葉だけは聞こえたな」

「あの言葉?」

「どうして、どうしてって何度も繰り返していました」

「そうですか……」

「すみません、僕通報するべきでしたよね。申し訳ありませんでした」

 喜朗のあの表情は、この気まずさのせいだったのだ。

「いえ、あの……」

 貫井はどう答えたらいいのか分からず、口ごもってしまった。

 確かにこの場合、通報してもらえた方が良かっただろう。

 しかし、そんな場面を見てしまった喜朗は恐怖でそれどころではなかっただろうし、一声かけて助けに入ればよかったのになどという言葉などは、刑事の立場としては決して言ってはならない言葉だ。

 逆上する相手が何をするのか分からないのだから、だからこその通報なのだがそれをしなかったことを気に病んでいる相手に「そうですね。してくれれば良かったのに」とも言えないし、逆に「しなくて良かったんですよ」と言える立場でもないような気もする。

 仮に傷害罪を問えるような暴行だったとしても、日本の法律では犯罪を目撃した人がそれを通報する義務はない。

 目撃者の良心に委ねるほかはないのだ。

 喜朗の良心の呵責をえぐるようなことはしたくないが、通報しなくても良かったんだと思われてしまうことも何か違うような気がする。

 うまい言葉が思い浮かばない、どう返答したら一番良いのかさっぱり分からない。

 考えがぐるぐる巡り目を伏せそうになった貫井の横で、門田は大きく伸びをしてふっと笑みを浮かべた。

「そうですか、そんな場面に出くわしたら随分怖かったでしょうね。通報できる状況ではなかったのでしょう。それにその時の二人があんな悲惨な事故に遇ったと知って今日までとてもとても辛かったでしょうね」

 門田は通報しなかった喜朗のことを少しでも責めるような言葉は使わず、しかしそのしなかった行為を肯定することもなかった。

 ただ、喜朗の気持ちに寄り添い労わるような言葉を発したのだ。

「えぇ、えぇ、怖かったです。女の子に申し訳なかったです。もしあの男の子が彼女をわざと事故に遇わせたのだとしたら……あの時、僕が止めていればあの事故を未然に防げたんじゃないかと思ったら、毎日怖くて、怖くて……あの泣き顔が折に触れ浮かんでくるんです」

 喜朗は握った拳の上にぽたぽたと涙を垂らした。

 そして、そんな兄の背中を今度は弟の幸助がゆっくりと優しく撫でている。

「刑事さん、僕の知っていることだけでいいなら、何でも話しますから聞いてください!」

 その目は真っすぐに貫井を見つめ、さっきまでのおどおどとした様子はすっかり消え去っていた。

 そのまっすぐ伸びた背筋と凛とした表情は、とても勇ましく見える。

 いつもはしっかりとして頼りがいのある兄の弱い部分を垣間見て、今度は自分が兄を守らなければならないと奮い立ったのかもしれない。

「幸助さん、ご協力ありがとうございます。それでは、事故に遇った二人について何か知っていること、気になった事柄があれば教えてくれますか?」

「はい」

 幸助はふぅーっと大きく息を吸い込み、握りしめていたペットボトルの水をぐいっと一気に飲み干してから二人について話し始めた。

「あの日、事故に遇った早田柚葉と真田疾風とはクラスメイトでした。うちの学校は中等部から基本クラスが固定されていて、男子の方、真田とは中一からずっと同じクラスだったので、特に親しいわけでもなかったけどそれなりに話す関係でした」

「そう、女子の……早田さんとは最初は違うクラスだったんだ?」

「いえ、早田……柚葉の方は中一の途中で転校してきたので」

「柚葉の方?」

「はい、早田はうちのクラスに二人いて、一人は事故に遇った早田柚葉、もう一人はそのいとこの早田蓮花です」

「いとこ、その子はまだ同じクラスに?」

「いえ、早田蓮花は高一の二学期の終わりに休学してしまったんです。元々心臓が悪くて体育とかは見学していたんですけど、悪化しちゃったみたいで」

「ひょっとして、君が書いていた卜部さんが見ていた女子生徒っていうのは」

「はい、早田蓮花のことです。元々早田蓮花と真田は別に仲良くなかったんですけど、早田柚葉が転校してきていつの間にか三人でつるむようになってて、それからは登下校の時もいつも三人一緒でした」

「へぇ、すごく仲が良かったのね」

「はい、早田柚葉も真田も体の弱い早田蓮花のことをいつも気にかけていて、荷物とかも交代で持ってあげていましたよ。見かけたときは、あー荷物持ってるからこっちが早田柚葉の方だなとか見分けていました」

「見分ける? そんなに二人は似ていたんだ?」

「はい、そうなんですよ。元々中一の時に早田柚葉がこっちに来た時はそこまで似ていなかったんだけどだんだんそっくりになって来て、高等部に進級するころにはいとこっていうよりまるで双子みたいに見分けがつかなくなっていました。早田蓮花が調子が悪くて痩せてくると早田柚葉の方も何だかやつれてきちゃって、そこも双子みたいだなって思いましたね」

「そんなに仲が良かったなら、蓮花さんが休学してしまって柚葉さんも真田君も相当ショックを受けていたでしょうね」

「うーん、そうですね。最初はすごく落ち込んでいて、一緒にいることも少なくなっていたんですけど、冬休みが終わって三学期の初めごろからまた一緒にいるのを見かけることが多くなって、早田柚葉はすっかり元気になって楽しそうにいつも笑っていて隣の真田もうれしそうにしていたから、僕らはひょっとして早田蓮花の体調が良くなったのかなって噂してたんです。だから……」

 幸助はそこではぁーっと大きく息をつき、またぐびりと水を飲む。

「兄ちゃんが目撃したっていう二人の喧嘩は意外でした」

「そうなんだ」

「はい、早田蓮花の体調のこともそうだけど、三人でいるときは早田蓮花を中心として真田と早田柚葉がいるって感じだったのに、最近は二人の間が近いっていうか……」

「近い?」

「あー、これって付き合ってるんじゃね、って思うくらいすごく近い間柄に見えたんです。二人だけの世界で、誰にも入れない様なオーラ出てるっつーか。お互いしか知らない秘密を共有してそうっつーか、だから冬休みの間に何かあったんじゃないかって女子はこそこそ話してましたね。でも、元々は早田蓮花と真田がいい感じで、調子が悪くなるとお姫様抱っこして保健室に連れて行ったりしてて、あっちが付き合ってるって思われてたんで真田がそっくりで元気な方に乗り換えたんじゃないかとかも言われてたり」

「そういう関係だからこそ、あんな激しい言い争いをしていたのかもしれない」

 弟の話に静かに耳を傾けていた喜朗が、ぽつりと一言漏らした。

「ふむ、そういうこともあるかもしれないね」

 同じく聞き入っていた門田も、その意見に同意する。

「そう、そういうものかしらね。じゃあ、幸助君は学校では二人が揉めている様な場面を見かけたことがないのね?」

「はい、学校では、二人は最後まで……っていうか、僕が見た最後の日、終業式の日も楽しそうにひそひそ話をして指切りなんかしちゃってるところしか見ていないですね」

「へー、すごいアツアツっぽいね」

「そうなんですよ! めっちゃいちゃいちゃしてて、真田が笑う早田柚葉の頭をポンポンしたりなんかしちゃって」

「ははっ、よく見てるんだ」

「いえっ、僕は席が真田の斜め後ろでっ、終業式の時もアイツが僕の後ろだから目に入れようとしなくても勝手に入ってくるだけでっ!」

「あっ、ごめんね。しっかり覚えていてくれてお話が聞けて助かったっていう意味なんだよ」

「そ、そうですか……」

 耳と頬を真っ赤に染めて水のボトルを上下に振り回して言い訳をした幸助は、貫井の言葉にホッとしたようにほおっと息を吐き、振り上げていた手をそっと膝の上に戻した。

「うん、三人の関係性が良く分かりました。普段から揉めていたとか、悩みがあったとかそういう風には幸助さんには見えなかったんだね」

「は、はいっ、普通に仲良さそうに見えていました。真田は早田柚葉が横にいないときもじっとその後ろ姿を見つめてたりして、そんな時もいつもうれしそうににこにこしてたんで、僕はアイツが早田柚葉を乗せた自転車でわざと事故を起こしたとかは考えられないです」

「そう、幸助さんありがとう。大変参考になりました」

 これ以上、この少年から聞ける話はなさそうだ。

 貫井は門田に目で合図をして、この場から去ろうとソファからゆっくり腰を上げようとした。

 しかし、その時……

「刑事さん、実は……渡したいものがあるんですけど……」

 幸助がもぞもぞと尻の後ろに手をやって、背中に隠すようにして置いていた小さな本のようなものを取り出した。

「それは?」

「これ……早田柚葉のものなんです」

「何故、それを君が持っているの?」

 詰問したつもりは無かったが、声が少し強くなってしまったのかもしれない。

 貫井に差し出した幸助の手は少し震えている。

「拾ったんです」

「学校で?」

「正確に言うと拾ったというのとは違うと思うんですが、学校の大型シュレッダー用のゴミ捨て場に置いてあったんです。おれ、あっ僕その日掃除当番で、先生用のシュレッダーのゴミ捨てしなくちゃいけなくて、そしたら早田がそこにいて……」

「捨てたものを拾った?」

「あっ、何か、その時の早田の様子がちょっとおかしくて……」

「おかしい?」

「はい、何度も何度もこのノート? と首のネックレスを交互に見てて……シュレッダーにかけてもらうゴミを横にあるかごに入れるんですけど、そこに入れたり出したりを繰り返してて、声を掛けようかとも思ったけどそんな雰囲気でもなくて」

「結局捨てて行ったんだ?」

「その後、真田が迎えに来て二人で帰って行ったんですけど、これはかごの中じゃなくて

 横に挟まった状態で置かれていたんです。何かあの様子見てたら捨てようかやめようか迷っているように見えたので、取りあえず僕が預かっておいて次の日に返そうと思ったけど寝坊して慌てて家を出たので忘れちゃって。その日が終業式だったので、返せずじまいだったんです」

「そっか、そしたらあんなことになってしまって」

「はい、それでどうしたらいいか分からなくて。早田の家に持って行けばいいのかもしれないけど、仲が良かったわけでもないし……」

「そうだね、あんなことのあった後じゃ行き難いよね」

「はい……」

「じゃあ、取りあえずこちらで預からせてもらいますね」

「よろしくお願いします!」

 貫井にそのノートのようなものを渡すと、幸助は肩の荷が下りたように安堵の表情を見せた。

 花竹兄弟それぞれが事故の直前に図らずも当事者達と関わってしまったことで、胸の内に重圧を抱え込んでしまったのかもしれない。

 そんな気持ちで受け取ったその真っ青な晴れ渡る空模様のような表紙のノートらしきものには、小さな鍵がついていた。

「これは……あの……」

 貫井の口から思わず言葉が漏れる。

「卜部の持っていた鍵とセットの日記帳かもしれないね」

 貫井の様子を察知して花竹兄弟に聞こえないように、門田がひそひそと耳打ちをする。

 恐らくそうだ。この中には早田柚葉が記した日記があるのだろう。

「あの、幸助君これの中身は確かめた?」

 読んだかと直接的に言わないように、言葉を選ぶ。

 この少年は、とても敏感に反応する子なので気を付けなければいけない。

「いえっ、鍵もかかっているし、読んでないですっ。かかってなくても人の物勝手に読んだりしませんからっ」

 案の定、幸助はびくびくし顔を青ざめさせている。

「勿論、君がそんなことをするとは思えないよ。とても素直で正直な男の子だものね」

 貫井が引きつりそうな頬に力を込めて精いっぱいの笑顔を作り微笑みかけると、幸助ははにかんだようにそっと俯いた。

「あの、僕が話せることはこれで全部です。あの、もし早田のお母さんにそのノートを返すんだったら、ご冥福をお祈りしますって伝えておいてください。僕からっていうのは言わなくていいんで」  幸助はぱっと顔を上げ、貫井の目を真っすぐに見つめて来た。

 その目は少し潤んでいるように見える。

「えぇ、分かりました。きちんと伝えておきますね」

 あぁ、この少年は早田柚葉のことが好きだったのだろうな。

 預かった日記を鞄に入れながら、貫井はそう思った。

 早田柚葉をずっと見ていたから、その横にいる早田蓮花を見ている卜部の視線にも気付き、彼女を見ている真田の恋心のこもった目にも気付いたのだろう。

 あの口ぶりからすると、本人は自分の胸の内のそんな想いに気付いてはいなかったようだが。

 気付かずに終わってしまった恋、それでも彼にとってはこの突然の別れは辛いものだっただろう。

 彼女のことが好きだった。でも伝えられないうちにいなくなってしまった。

 知らない方が幸せだったのだろうか。

 胸にぽっかりと開いてしまった喪失感の理由も分からない方が。

 それとも全てを受け止めて、埋まらない穴を抱えながら思い切り泣けた方が忘れられるのだろうか。

 それは貫井には分からない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る