第9話きっかけ

 翌朝八時、タイムリミットの正午まで数時間の間、貫井と門田は検察送致前の卜部に対し、最後の取り調べで対峙することとなった。

 パイプ椅子に深く腰掛けて俯いたままの卜部の前には、あの鍵の写真が置かれている。

 しかし、卜部は目を深く伏せてちらりとも見ようとしない。

 門田もまた無言のままだ。

 ただ時間が過ぎ去ってゆく。

 その静けさの重苦しさに耐え切れなくなった貫井の口から、思いがけず言葉が飛び出してしまった。

「あの、卜部さん。この鍵ってもしかして日記帳の鍵なんじゃないですか?」

 その貫井の言葉に、卜部は顔を上げてハッとした顔をした。

「そうなんですか?」

 返事が返って来たのも意外だが、その内容もまた意外なものであった。

「ひょっとして、何の鍵か知らずに保管していたんですか?」

 再び貫井が問いかけると、卜部は写真をじっと見つめてハーっとため息を吐いた。

「これは……盗んだものではないんです」

「では、どのような経緯で卜部さんの手に渡って、あのように素敵な寄せ木細工の箱に入れて保管することになったのですか?」

 これまでじっと黙っていた門田が、穏やかな声でここぞとばかりに割って入る。

「実は……拾ったものなんです。勤務先の学校で……」

「ほほう、同僚の教員の方の?」

「いえ、生徒の物なのですが……」

「誰の物かはご存じなのですか?」

「はい……」

「何故、直ぐにお返しにならなかったのですか? 欲しいと思われてしまったとか?」

「そんなことはありません!」

 門田のその問いに卜部は動揺した様子でがたんと大きく体を揺らし、歯をギリギリと食いしばりながら、今までで一番大きな声を上げた。

「あぁ、そりゃ失礼しましたね。お返しになろうと大事に保管されていた……」

「もちろんです! 新学期が始まったらすぐに返してあげるつもりだったんです! でも」

 門田の声を遮るように話し出した卜部の目は血走り、青白かった頬にはどんどん赤みが差してきた。

「でも、返すことが出来なくなってしまったんです。彼女はもう、学校に来ることができなくなってしまったから……こんなことなら、あの時追いかけてでも返してあげるんだった。でも、いるのかいらないのかよく分からず……職員用のゴミ置き場に投げ捨ててあったものだから……」

「それは、捨てたのでは?」

 つい口を挟んでしまった貫井の言葉に、卜部は大きく首を横に振る。

「そんなはずはないんです。彼女はあの鍵を大事そうに首にかけていつも肌身離さず身に着けていた。何の鍵かは分からないけれど、きっとあれで開けるものには彼女の大切なこと、大事なものが詰まっているはずなんです!」

「ところで、学校に来れなくなったというのは? 転校でもされたのかな? ならやはり不必要なものを処分しただけでは」

 この問いかけをしたとき、門田も貫井も彼女が誰であるのかおおよその見当はついていた。

 卜部の勤務先、月見ヶ丘上奏学園、そこで新学期から通えなくなった女生徒が一人確実にいる。

 あの自転車事故で、少年の運転する後ろに乗っていた少女だ。

 繋がった……貫井の中でもやもやしていたあの事故とこの連続引ったくり事件についての接点がまたしても見つかった。

 しかし、これは引っ手繰り、窃盗事案についての取り調べであり、事故とまらして処理されているあのことについて何かを聞くことなど出来やしない。

 ましてや、卜部があの少年少女をわざと事故に遇わせたなどという事はありえないであろうということは、貫井も重々わかっている。

 少女と卜部の接点は、高校の生徒と講師である。彼女が捨てた? 鍵を卜部が持っていた。

 恐らくはそれだけであるだろうとは分かってはいるのだが、その鍵があの事故の真相について何かのサゼッションを示しているような気がしてならないのだ。

「日記……あれは日記の鍵だったのですね……彼女は、あの子は日記に何を記していたのだろう……」

 卜部は目を爛々と輝かせ、少女の日記について思いを巡らせている。

 それが欲しくて欲しくてたまらなくなってしまったのだろう。

 けれど卜部の両手は手錠で塞がれ、もう自由に物を取ることはできない。

 もしもまだ自由の身であるときに日記帳の鍵だと知ったなら、少女の家まで行って空き巣に入っていたかもしれない。

 貫井はほっと胸を撫で下ろす。

 そこまでのゾッとするような熱量が、卜部の目には宿っていたのだ。

「あの鍵を、あれを拾ったのが始まりだったんだ。眺めていると気持ちが安らいで、もっともっと欲しくなって、だけどやっぱり足りなくて、彼女もいなくなってしまって、想いが想いがもっともっとっと欲しくなる……」

 卜部の目は、もう何も見ていなかった。

 もごもごと口を動かしてブツブツと言葉を発し続けてはいるが、その言葉はもう誰にも向けられていない。

 門田や貫井ではなく、どこにでもない場所に吐き続けられる言葉。

 少女の鍵は、卜部の盗みへのトリガーだったのだ。

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