第6話意外な正体

 身柄確保の際にうすうす気づいてはいたのだが、一見すると少年のような体格をしたその男は、成人を大幅に過ぎた三十五歳の男だった。

 取り調べは被疑者の確保をした貫井と門田で引き続き行うこととなったのだが、身上の調査でまずは驚くべきその職業が明らかとなった。

「卜部進、三十五歳」

「職業は?」

「あの……」

 もじもじとして口ごもる卜部に、門田は穏やかな笑顔で微笑みかける。

「あなたの指先はずいぶん繊細ですね。ほっそりとして指も長くて、ひょっとしたら指先を使う職人的なお仕事をされているのかな」

「い、いえ、工芸はずっとやっておりましたが」

「へぇ、どんなものをお作りに?」

「あの、大学では漆をやったりですとか…‥」

「ほぉ、すごいですねぇ、漆かぶれとかは平気なのですか?」

「あ、私はもう抗体が出来ているみたいで……あー、でも以前授業でやろうとしたら生徒がかぶれてしまったらどうするんだって教頭に反対されましてね」

「ほう、教頭先生が」

「あっ」

 雑談でうっかり口を滑らせた卜部は思わず声を漏らしたが、観念をしたのか自分が市内の私立高校の美術講師であることを告白した。

 月見ヶ丘上奏学園、中高一貫のこの辺りでは一番の進学校だ。

 そして、先日の事故の当事者である少年少女が通っていた高校でもある。

 市内に高校は公立と私立合わせて二校しかない。二分の一の確率でここに関連性を感じるのは大袈裟かもしれない。

 しかし、調書をPCに打ち込みながら貫井はあの事故現場、未だまざまざと脳裏に残るあの陰惨な痕跡を思い起こしていた。

「あの……」

 事故を起こした生徒たちと面識はありますか? そんな言葉が出かかって、貫井は慌てて口をつぐんだ。

 今は連続窃盗事件の取り調べ中なのだ。あの事故の捜査ではない。そもそも事件性があるだとかの話はいっさいこちらに上がってきてはいないのに。

 スタンドプレーは良くない。そう思ってはいるのに、貫井の胸の奥底にはあの事故への疑義の気持ちが魚の小骨のように突き刺さっているのだ。

 そんな貫井の浮かない表情とは対照的にふくふくとにこやかな表情を浮かべて頷く門田を前にして、一番隠したかった自分の職業を告げてしまった卜部の口は最初とは打って変わったように滑らかになり、舌はくるくると実に良く動いた。

「隣の芝生は青く見えると言いますか、昔から人が持っている、大切にしているものがたまらなく欲しくなってしまう性分なんですよね。兄や姉と年が離れていたせいか、二人の好物のミルクレープや苺のショートケーキだったりや買ったばかりの漫画やゲームとかね、それまでこれっぽっちも興味がなかったものでも二人がそれを目の前にして嬉しそうにしていると急に羨ましくなっちゃって、僕も欲しいって大泣きするといつも譲って貰えていたんですよ。末っ子気質っていうんですかねぇ。あっ、でも譲って貰ったものはちゃんと兄や姉の想いも一緒に大事に味わって食べたり、大切にしまっておいたりしたんですよ。兄に譲って貰った宇宙船の模型も今でもちゃんと棚に飾っていますし。でもねぇ、この年になると駄々をこねて人の物を貰うとかそういう訳にもいかないじゃないですか。だからずっと我慢していて、ネットオークションやフリマでずっと大事にしていました泣く泣く手放しますってものを探して買ったりしていたんですけど、そもそも売っている時点で大切じゃないんじゃないかって思っちゃうとどうにも満ち足りなくて。そんな時にあのおばあちゃんが大事そうに抱えて、ちらちら中身を確認している袋の中身がどうにも魅力的に見えてしまって」

「欲しくなってしまったんですね」

「えぇ! そうなんですっ」

 愛想よく相槌を打つ門田、その背後で黙々とキーボードを打つ貫井の表情は苦虫をかみつぶしているように険しい。

(末っ子気質だぁ、ふざけんじゃねぇよ。兄と姉! 君らが甘やかすからこんなモンスターが仕上がっちまったぞ。いや、知らんけど)

 イライラする貫井の指先には知らず知らず力が入り、カタカタターンッと話の合間に取調室に響き渡る。

 そんな不協和音の中、門田のとある言葉をきっかけに全ての音が鳴りを潜めた。

「そうですかー、じゃあ先ほどのお話のクマちゃんの編みぐるみも大切に保管されているんでしょうね」

「えぇ、勿論、綺麗に大事に仕舞っていますよ」

 ここまでは良かったのだ。しかし……

「では、それを確認いたしたいので、卜部さんのお宅にこちらでお邪魔させていただきたいんですよ。勤務先も市内でいらして、自転車で駅前までお越しになったということは、ご自宅も市内なのかな?」

 雑談から住所を聞き出そうとした門田だったが、卜部はその問いに答えず貝のように固く口を閉じてしまった。

 春休みとはいえ勤務先の高校には誰かしら職員はいるだろう。事情を話せば卜部の自宅の住所は直ぐに分かるはずだが、門田はそこで諦めず本人の口から聞きだそうとした。

「あの編みぐるみね、おばあさんが丹精込めてお孫さんのために編んでらっしゃったんですよ。でも完成間際のところで卜部さんの手に渡ってしまった。私はぶきっちょなものでこういう手芸とかのことはとんと不得手なんですが、物作りのお仕事をされている卜部さんなら作りかけで作品を手放してしまう心残りはお分かりになるんじゃないかなぁ」

 引っ手繰った、盗んだ、ではなく手に渡ったという言い方で卜部の気持ちを逆撫ですることなく情に訴える。

 なるほど、出世が遅かったとはいえやはりベテラン、手練手管のやり口だ。

うっかり感心した貫井の前で、門田はその気持ちを消し去るようなどうでもいい雑談を繰り広げ始めた。

「ひょっとしたらドラマとかのイメージで、ここで私がかつ丼食うかい? とか言うかもと思われていたらごめんなさいね。あれね、逮捕前の人にしかできないんだよねーちなみにあれね、奢りじゃなくて頼んだ方の実費なんですよ。これちょっとした豆知識ね」

 取り調べのかつ丼豆知識、なかなかどうでもいい知識を披露された卜部の顔は、何故か急にほころんだ。

「いや、僕別にかつ丼とか期待していなかったし、そもそもあれはあんまり好きじゃないんですよ。同じカツならどっちかというとカツカレーの方が食べたかったですね」

「ほほう、カツカレーがお好きなんですか」

「いや、そういうわけでもないんですけど。折角揚げたカツを何故わざわざ煮込んでべちゃべちゃにしてしまうのかが納得いかなくて。カレーなら避けて掛ければサクサクのままじゃないですか。だから、母にもカレーは絶対にカツに掛からないように、別の入れ物で出してくれっていつも……」

「ほうほう、なかなかのこだわりをお持ちなのですね。ふむ、流石芸術家でらっしゃる」

「いえ、芸術家なんてそんなことは……しがない一講師ですし」

「しかし、お母さまもカツカレーをご自宅でお作りになるなんて素敵ですねぇ。カツもご自宅で揚げられるのかな、さぞかしサクサクで美味しいんでしょうね」

 その言葉をきっかけに、卜部は俯きその両目からはぽたぽたと涙が零れ始めた。

「母、自宅には今母が一人でいるんです。父は海外赴任でずっと留守にしていて……」

 どうやら母親に知られるのが心配で、住所を伝えるのを渋っていたらしい。

(それなら最初から引ったくりなんかやらなきゃいいだろ。このすっとこどっこいが! 泣きたいのはお前の母ちゃんの方だろうが)

 そんな貫井の悪態は、勿論口から出ることはない。

「そうですかー、しかし卜部さんのお口から教えていただけないと我々も学校の方に問い合わせるしかなくなってしまうんですよね。そこからお母さまのお耳に入るとなると、うーん、明日まで待ってもいいのですが、お母さま心配なされるでしょうね」

 さっきまでの笑い交じりの軽快な口調と違い、ゆっくりと静かな口調で伏し目がちにため息を吐く門田、卜部の顔は青ざめカタカタと小刻みに震え始めた。

「あの、あの、悪いのはすべて僕です。母のことは」

「もちろんです! 決して責めたりなど致しませんよ。当たり前じゃないですか」

「よ、よろしくお願いします。うちは……あけび山市三丁目藤川町二の三の……」

 飴と鞭……というほどではないが、一聞どうでもいいように思えるカツの話題で口を開かせてから相手の不安を煽るような物言いへの変節により住所を聞き出す。

やはりこの人はなかなかの取り調べ名人なのかもしれない。

 そう思い一人頷く貫井の耳に、奇妙な音が入ってくる。

 ぐーぎゅるるるる……

 被疑者が去り、静まり返った取調室に響き渡ったのは、門田の腹の音だ。

「ちょっと門田さん。取り調べ前にもあんパン食べてたじゃないですか」

「いやー、ずっと喋っていたからエネルギー使っちゃったよー」

胸ポケットから出したいつものあんパンをもしゃもしゃと噛みしだく門田。

(はぁ、流石ベテランとか感心するんじゃなかった。損した気分)

 ため息をこらえつつ今日の調書をプリントアウトしながら、貫井の胸にはとある疑問が湧き上がって来た。

「あのー門田さん」

「何だい、貫井ちん」

「かつ丼って煮込みもあるけど、ソースかつ丼とかもあるじゃないですか。あれだとカツべちゃべちゃにはならないですよね。そっちじゃなくて何でカツカレーなんでしょうね」

 これもまた、なかなかにどうでもいい引っかかりだ。

「ははは、それもそうだね貫井ちん。いやーいい着眼点だよ! 私ときたら取調室のかつ丼と言ったらとろとろの玉子でとじたあのお蕎麦屋のかつ丼しか思い浮かばなかった。こりゃしてやられたなぁ。うーん、ちょっぴり悔しいからここで一つまた豆知識を! さっきのは貫井ちんも当たり前に知っていることで面白みがなかっただろうしね」

「えー、そんなのいいですよ……」

「いやいや、遠慮しないでー」

「はぁ、別に遠慮なんかしていませんけど……」

 迷惑そうに眉と口を下げプリントアウトした調書をまとめる貫井をよそに、門田は二個目のあんパンを胸ポケットから取り出して飽きもせずにむしゃむしゃ実に上手そうな破顔の表情で食べながら得意げに口を開いた。

「もごもごごくん、えー日本では演技の下手な役者のことを大根役者と言いますが、英国ではハム役者と言います! そして私の腕はっ、はっジャジャーンボンレスハム―」

 豆知識自体はどうということもないものであったが、押さえながら振り上げた二の腕がボンレスハムそっくりで、(頭があんパンで腕がハム、絶対正義の味方じゃない。これじゃあ、あんパンハム怪人だよ。しかも一番の雑魚キャラであっという間に倒されそう)子供のころに観ていた特撮番組のヒーローに秒でコテンパンに伸される門田を思わず脳裏に浮かべてしまい、貫井はぷっと吹き出してしまった。

「おー、このとっておきの豆知識、面白かろー。何でハムなんだろうなー」

「いえいえ、そうじゃなくて……あ、うん、そうですね、不思議です」

 否定しつつも何故笑ったのかを説明するわけにも行かず、貫井は適当にお茶を濁す。

「うんうん、そうだよね。じゃあ、これから検察の人と合流して卜部の自宅にガサを入れに行くけどさ、貫井ちんは腹減っていない? 昼飯食べてないよね。出前取ろうか、蜂金軒のソースかつ丼でも」

「あー、いいです。羊羹ありますから」

 胸の悪くなるような我が儘男の話を一時間以上も聞き続けて食欲は消え失せていたが、これから家宅捜索をするにあたって何か位に入れておいた方がいいだろう。

 貫井は胸ポケットから入れっぱなしのミニ羊羹を出し、もぐもぐと口中に入れた。

「あーそうだった! 羊羹デカ!」

「だからそれはやめてくださいって、ほら一本あげますから」

 言い合いをするのも面倒になった貫井は門田を黙らせようとして、もう一本の羊羹を差し出した。

 すると、門田はすぐさまその羊羹をパックから取り出しあーんと大口を開けて一気に口の中に放り込んだ。

「もぐもぐ……ふーむ、ほほう、これは塩羊羹なのだね。ほほう夏場に向けては塩分対策にもなるし、こりゃいいねぇ。味も甘さが引き立って乙だね。たまには羊羹もいいなぁ」

「はぁ、じゃあ今後は羊羹を持ち歩いたらいいじゃないですか」

「うーん、でも私はやっぱりあんパンデカだから! ふんっ」

 貫井の提案に首を振った門田は、まだ隠し持っていたあんパンを片手ににんまりと笑ってスチャッと銃を構えるようなポーズを決めた。

 どうやら、貫井が言い返したあんパンデカというコードネームを意外と気に入っていたらしい。

 (はぁ、あなたは見た目怪人ですけどね)

 貫井はそのお気に入りのコードネームで門田を呼ぶことは二度とあるまいと思いながら、机の下に隠した両手でこっそりとお手上げポーズをしたのだった。

 おやつ時の取調室にはまるであんこ屋かのように、羊羹とあんパン、二種のあんの匂いが充満している。

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