第4話引ったくりにご用心

 あけび山市の駅前広場で最初の引ったくり事案が発生したのは、三月二十五日市内の小中高が春休みに入ったのと同日だった。

 六十三歳の女性が編み物教室に通う途中、孫のために編んでいた完成間際のクマの編みぐるみ入りの手提げ袋を、後ろからやって来た自転車の少年に奪われたのだ。

 幸い貴重品は他のバッグに入れていて無事だったが、誕生日にその編みぐるみを貰うのを楽しみにしていた孫娘のことを思って、被害者の女性はひどく意気消沈していた。

 貴重品が無かったため、近くのゴミ箱に捨てられているのではないかとあけび山駅前交番の面々はパトロールがてらゴミ箱を覗いたりしたのだが、結局見つからなかった。

 刑事課に異動が決まり急いで残務処理をしていた貫井も駆り出され、あちこち見回ったのだが、広場の前を何度も行ったり来たりする被害者の姿を目にし、どうにも切ない思いになったものだ。

 被害者にとっては、孫が楽しみにしていた編みぐるみが貴重品よりもずっと大切でなくしたくないものだったのだ。

 遺失物としてひょっこり届いてくれないかと思いもしたが、貫井の移動の日までクマの編みぐるみが届くことはなく、後ろ髪惹かれる思いで交番を後にした。

 しかし、貫井はその後刑事としての初捜査でその事案に再び対峙することとなったのだ。引ったくり事案は編みぐるみの一件だけでは治まらず、その後も続いた。

 編みぐるみ、指輪、花束、古書、子供用の電車のおもちゃ、一見関連性が無いように思えるが、全てには奇妙な関連性があった。

 被害者が大事そうに抱えていたということだ。

 大金の入った財布入りのアタッシュケースを盗まれた被害者もいたのだが、現金は手つかずで駅から少し離れた場所にあるコミュニティセンターの裏口に投げ捨てられていた。

 引っ手繰った後の手順にも法則があり、狙われた被害者が直ぐに諦めて手を離すと去り際に今引っ手繰ったばかりの鞄や品を投げ捨てて行く。

 一度現金がそっくり抜かれて公共施設前に捨てられていた事案もあったのだが、それを届けに来た拾得者に巡査が質問するとしどろもどろになり、防犯カメラを確認すると告げると顔面蒼白になり拾得物横領を自分から白状した。

 犯人は現金には興味がなく、高価な貴金属の入った鞄であろうとも被害者があっさり手放すと興味をなくす。

 しかし、同じ貴金属であっても婚約者に渡す婚約指輪であったり、子供にねだられたおもちゃであったり、退職する恩師に渡すはずだった花束であったり、件のクマの編みぐるみであったり、被害者側に思い入れがありどうしても奪われたくない大事なものだと分かると、どんなに必死に食らいついてもぐいぐいとペダルと腕に異常なまでの力を込めてぐいっと引っ手繰られてしまうのだ。

 そして現金がそっくり残っていた財布の中からも、一つだけ盗られたものはあった。

 被害者の息子の七五三の写真だ。定期入れ部分に大事にしまっていたところ、抜き取られてしまっていた。

 新しくプリントできるとはいえ、その写真には【ぱぱおしごとがんばってね。あゆむ】という息子からのメッセージが書き添えられていたため、現金がそっくり戻ったにもかかわらず被害者である会社役員はひどく落ち込んでいた。

 この引ったくり犯は、物自体が欲しくて盗んでいるわけではない。込められた気持ちを奪いたいのだろう。

 被害者、そして逃げる犯人を目撃した人々が口をそろえて言うのは、帽子を目深にかぶった痩せぎすで小柄な少年でとても力任せに引ったくりができるような体格ではないということ。

 しかし、奪う時には尋常ではない様な腕力を発揮するのだという。

 何故そこまで他人の大事なものに執着するのか。がっかりして嘆き悲しむ様子がみたいのか、理解しがたい不可解なフェティシズムでも抱えているのか。

 謎めいた事案であるが、本人を確保しないことには真相はどうやっても掴めない。

 そんなわけで門田と貫井は連日周辺を張り込んでいるのだが、ここ数日は動きがない。

 引ったくり犯が欲しがるような大事なものを持ち歩いている人が見つからないのかもしれない。

 しかし、犯人が目撃情報通りの少年であり、春休み中の学生であるとすれば新学期が始まれば動きが鈍くなるだろう。

 何とかその前に確保したい、ひょっとしたらあの編みぐるみも戻ってくるかもしれない。

 鼻息を荒くし、鋭い目つきで駅周辺を凝視する貫井の肩を、門田が伸ばした手でぽんっと叩く。

「貫井ちん、肩に力が入りすぎだよ。目もビカーって眼光鋭くなっていてさ、これじゃあ私はここで見張っていますよって宣言しているみたいだ。防犯には良さそうだけどね」

 しまった。貫井は肩をすくめはははと力なく苦笑した。

 長年の補導癖がまだ抜け切れていないようだ。

「やっぱりさ、おとり捜査またやってみた方がいいよね」

 門田の提案に、貫井は少し首を傾げた。

 二人でコンビを組んだ初日、刑事課長にもそう提案され貫井がおとり役となって何度も駅前から国道沿いに歩き続けたのだが、鞄はぴくりとも動かされず怪しい人影も現れなかった。

「うーん、私の演技力が足りなかったんでしょうね。やっぱり大事なものっていうと……門田さんのあんパンじゃないでしょうかね……おとり役門田さんやってくださいよ」

「えぇつ、私のあんパンが盗られてしまうなんて、想像するだに恐ろしい」

 門田はガタガタと震え、青ざめている。

「そう、それですよ! その迫真の演技、じゃなくてリアリティには私なんて到底かないませんから。あんパンは引っ手繰られても私がちゃんと取り返してみせますから!」

「えー、貫井ちんの羊羹じゃダメなのかい」

「私、羊羹にそこまで思い入れありませんから……」

 嫌がる門田を何とか説得し、おとり捜査あんパン作戦が取り行われることとなった。

 門田の緊迫感をより煽るために、おとり用のあんパンは普段使いのコンビニのものでなく門田が一番気に入っていて月に一度お取り寄せして楽しんでいる厳選された小豆と砂糖を使った高級あんパンに決定。ちょうど今日の午後に届くと渋々情報をはいたため、一度取りに戻ってから決行されるのだ。

 いつになく不機嫌な様子で自宅への道を戻る門田に付き添いながら、貫井はちらりと交番を見た。

 自分と入れ替わるようにして配属された若い男性巡査が、小さな子供の相手をしている。思いがけず長く居座ることになってしまったあそこにもう自分の場所はない。早く脱ぎたいと思っていた制服も、今は懐かしい……わけはない。

(時が来たら昇級試験をさっさと乗り越えて希望の部署に行くんだよ。勉強はちゃんとしとけよ、若人よ、先輩刑事からのアドバイスだ。そう、私は刑事なんだよーん)

 失敗続きだった自分のことを横に置いて胸の中で偉そうにエールを送りながら、高揚感で小さくガッツポーズする。

 これから行うのは、あんパンを大事に抱える壮年の小太り男性をおとりにしたどことなく間抜けなものだというのに。

 あんパンのことが心配で胸がいっぱいなのかいつになく口も足取りも重い門田を追い抜きそうになりながらスピードを緩め、そっと背を押しを繰り返しながら小一時間、国道脇の細道の突き当りに門田の自宅、バラック小屋のような古びて今にも崩れ落ちそうな危うさのある平屋建てについた。

 色褪せて穴でも開いていそうなトタン屋根の上では呑気に日向ぼっこしていた鳩が烏に急襲され、ほうほうの体で逃げまどっている。

「うわー、こりゃ不味い。いち早く受け取りたくて置き配を頼もうかと思ったけど、止めておいて正解だった! 烏に食われちまうところだったよー」

 ノブを引いたら壊れてしまいそうなこれまたボロボロのアルミ扉の前に立てかけてある曲がった竹ぼうきをがっしと掴むと、門田は屋根と電線を行ったり来たりしながら鳩をじりじりと追いつめている烏に向かってそれを振り回し、「どっかいけー、あっちいけー」と声を張り上げた。

 人間の突然の参戦にびくっとした烏は「ガァァ」と恨みがましいだみ声で鳴きながら、国道方面へと飛び去ってゆく。九死に一生を得た鳩は、電線からトタン屋根へと悠々と舞い戻りうーんっと首を伸ばしてから、バッと屋根から飛び立ち門田の頭の上を旋回した。

「おっ、命を助けてくれてありがとうってか。あはは、可愛い奴め」

 頬を緩め、にまにまとしていたその顔は、一瞬で青ざめることとなる。

「うわっ、キタねぇ……」

 鳩がぽちゃりと頭の上に置き土産を残していったからだ。

「あははははー、門田さん鳩の恩返しですよ。恩返し。糞でお礼をしていったんですよ」

 頭上を指さし腹がよじれるほど笑い転げる貫井を涙目で見つめ、門田は頭をゆすいでくるとぎぃぃと烏の鳴き声に似た音を出す扉を押した。

「貫井ちん、私が糞を落としている間に宅配の人が来たらちゃんと受け取っておいてね。玉林堂の特上あんパンを受け取るのにこんな頭じゃ申し訳ない、あっ、くれぐれも中を開けて一口齧ったりしないでくれよ」

「ちょっと、私どこまで信用無いんですか! 今まで一度でも門田さんのあんパン狙ったことがありましたか!」

 不本意な言葉に貫井が口を尖らせると、門田半身をドアに差し入れながらとっとした目つきで「だって、貫井ちん最初はあんパン欲しいって言っただろう……」と、言い残しべそんと間抜けな音を出し扉を閉じた。

「ちょっとー、あれはそっちが勧めて来たからでしょう。私から欲しいとかいったこと一度たりともないし、実際食べたこともないっていうのに」

 貫井の反論の声はドアの前でむなしく響く。

 ことあんパンにかけての門田の情熱は、理解不能すぎる。はぁぁと大きなため息を吐きながら、貫井は扉に凭れ掛かった。

 尋常じゃないし、一ミクロンたりとも共感できるところがない。しかし、ここまで好きなものがあるというのはほんの少し、針の先ほどの羨ましさは感じてしまう。

 貫井にはここまで好きになれ情熱をかけ心血を注げられるものが何もないからだ。

 小学校三年生の時から十年続けた剣道も、「武道をやると心根が真っすぐになる」という祖父の思い付きで始めただけだし、警察官になるという夢も彗からの借りものだ。

 カレーは好き、けれど長い間食べられなくても別に禁断症状が出るほど好きなわけでもないし、子供のころから大切にしている品物があるわけでもなく、漫画を読むのは好きだったが読み終わればしまい込んで忘れてしまい、何度も何度も大切に読み返すほど好きなものに当たったことが無い。

 部屋の中の物を留守中に母親に勝手に処分されてしまっても一体何が無くなったのか今一分からなくて怒る気も起きないほどに、物に対する思い入れがほとんどと言っていいほど無かった。

「こんなに好きになるって、どういう気持ちなんだろうなぁ」

 二匹の鳥が去った後の空を見上げ雲が覆い始めた青空の断片を探しながら、ぼんやりと浮かんでくるのは懐かしいあの顔、貫井の中では十八で止まってしまっている彗の真っすぐな目だ。

 大事なことを見定め、自分にはこれしかないのだと決意のこもった声で「警察官になったら、私がみんなを守るから」と、きっぱり告げたあの澄み渡る影一つない瞳。

「なってはみたけれど、私には彗ちゃんの気持ちがまだわからない……」

 独り言ちていると、薄い扉の奥から焦りを孕んだ叫び声が聞こえて来た。

「ド、ドアが開かないぞーパン、あんパンがー」

 どうやら自分が凭れていることで、扉が開かなくなってしまったらしい。貫井は慌てて扉の前から飛び退いたが、まだ扉は開かないようだ。

「あー、すみませんー、さっき私が凭れかかっていたんです。でも、もうどいてますよー」

 扉の奥に呼びかけると、はぁぁと大きなため息が漏れ聞こえてくる。

「じゃあ、また固まっちゃったんだな、このうち古いからドアが直ぐ機嫌損ねてひしゃげちゃうんだよ。悪いけど、貫井ちんそっちから飛び蹴りしておくれよ」

 機嫌を損ねる⁉ 古いから具合が悪くなっているだけじゃ……首をひねりつつも、貫井はリクエスト通りに助走をつけて思いっきり扉を蹴り上げた。

 先ほどのあんパン濡れ衣容疑を思い出し、今更ながらむかっ腹が立ってきたのだ。

 貫井の渾身の力がこもった蹴り技に即座にタップした扉はその口を開けた。開けたのだが、べしょうと情けない音を出し大きな凹みが出来てしまった。

「ぬ、貫井ちん……ここまでしてくれなくても良かったんだけど」

 門田はまた涙目になっているが、自業自得というものだ。

「あー、すみませぇぇん、門田さんが閉じ込められたら大変だと思って思わず足に力が入り過ぎちゃって」

 ちっとも悪いと思っていなさそうな猫なで声を出しながら、貫井は胸の中でちろっと舌を出して、あかんべーをした。

 食べ物の恨みも恐ろしいものだが、食べ物で濡れ衣を着せられた恨みもまた実に恐ろしいものなのである。

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