第3話カレーとシチューがダンスを踊る
ミニ羊羹一本では治まらなかった空腹を満たすため、アパートに帰宅した貫井は初めての自炊をしようと思い立った。といっても、ここに引っ越してきてから食材は一度も購入したことが無く、冷蔵庫には、ゼリー飲料とスポーツドリンクしか入っていない。
「うーん、どうしよう。もう近所のスーパー閉まっちゃってるし」
独り言ちながら首をひねると、一昨日実家から送られてきてそのままになっていた段ボールが目に入った。
「あっ、お母さん食べ物入れてくれているよね。悪くなるものは……うん、匂わないから入ってないでしょ」
バリバリとガムテープを剥がし中身を確認すると、そこには大量のレトルトカレーとおかゆ、乾パン、非常食セットと共にシチューとカレーのルー、そして皮が剥かれて切り分けられた状態で真空パックに入ったジャガイモと人参玉ねぎのセットが入っていた。
「うわっ、こんなのまで……ヤバッ、ほっといたら腐るとこだったよ」
一応クンクンと匂いを確認し、「うん、臭くない」とつぶやいてから一度も使っていないピカピカの片手なべに野菜と水を入れコトコトと煮始める。肉抜きになってしまうが、それは仕方ない。わざわざ遠方のスーパーやコンビニにまで肉を買いに行く面倒くささに比べれば何でもないことだ。
「えーっと、カレーとシチューどっちにしようかなー」
両手にルーを持って見比べていると、隅で折れ曲がっているチラシに気付いた。
「ん? 緩衝材に入れたのかな」
何気なく手に取ってみると、実家の近くにあるそろばん塾の生徒募集のチラシの裏には母親からの手紙が書かれていた。
「やだー、気付かなかったら捨てちゃうとこだったじゃん。もー、お母さんったらこんなのケチらないで便せんに書いてよねー」
いつになく一人の部屋で饒舌になりながら読んだ手紙に書いてあったのは本当に何でもないことだった。
【あっさは食べることに無頓着だからすぐ出来るように切った野菜を入れたよ。これをおなべに入れてお水と一緒に火にかけて煮えたらルーを入れるんだよ。お肉は自分で買っておいで】
「えっ、それだけ! 体大丈夫とか、仕事どうとか自分らの近況とか何も書いてないし! それに小さい子じゃないんだから、煮ることぐらい分かるって」
拍子抜けしつつ、「お母さんらしいな」とクスクス笑いが止まらない。あっさというのは、貫井が幼いころに自分の名前がきちんと言えず、あっさあっさと言っていたため両親も呼び始めた家族内でのニックネームだ。
二十九歳にもなってまだ幼児期のままの呼び名なのは照れくさいが、今更ありさときちんと呼ばれてもそれはそれでむず痒い気持ちになるのだろう。
チラシ手紙と一緒に入っていたルーも貫井が小さい時から好んで食べていた香辛料ひかえめの子供も安心カレーのエトワールとシチューのプリマドンナだ。女子寮のカレーは中辛だったため始めは辛くて食が進まず、ミルクキャンディをこっそり口に含んでは一口食べ、また休んでといった調子で何とか食べていたが、何年も食べ続けるうちに舌が慣れて来たので今はちゃんと食べられる。
しかし、母の中の貫井はまだ子供舌の辛い物嫌いのままなのだろう。
「うん! 今日はカレーにしよ、甘口カレー久しぶりっ」
いつの間にがぐつぐつと煮立っていた鍋の中にぽとりとルーを落とし、貫井はぐーっと背伸びをした。一人暮らしをする前に数日実家に帰ったが、奮発した両親は寿司やそばを連日頼む出前祭りを繰り広げ、本当は食べたかった家のカレーをリクエストする隙が無かったのだ。
本来実家のカレーにはバターで炒めた牛ひき肉が入っているので再現するとまではいかないが、野菜とルーが同じなのだから近いものは出来るだろう。
ぷーんっと香って来た懐かしい香りに引き寄せられるように鍋の前に戻った貫井は、そこで重要なことにやっと気づいた。肉抜きなど問題ではない。もっと重要な、カレーライスの下半分、ライスがここには無いではないか!
炊飯器はある。段ボールにしまい込んだままだがあることはある。しかし、肝心の米がない。
段ボールをもう一度隅から隅まで見て見たが、レトルトのご飯は入っていないようだ。
「あっ、非常食袋になら」
そう思って開けてみるが、そこにあったのは水を入れて作る炊き込みご飯だけだった。
「あー、きのこたっぷり炊き込みご飯……美味しそうだけど、カレーに合わない……おかゆ、も違うよね」
こんなに白いご飯を欲したのは二十九年の人生で初めてではなかろうか。思わず苦笑しながら、貫井は肉とライス抜きのカレーを食べそのまますぐに眠りに就いたのだった。
翌朝、肉ライス抜きカレーを再び食べた後職場であるあけび山署に向かった貫井は、何か忘れているような気がして首をひねった。
そんな貫井の顔を見て、刑事課長の平沢も首をひねる。
「おや、門さんから今日は張り込みに直行しますって報告受けていたのだけれど、貫井さんどうしたの?」
そうだった! そういえば、別れ際に門田は駅前に集合と言っていた。しかし、何口だとか、詳しい時間については何も聞いていない。慌てて仕事用のスマホを見ると、門田からのメールが何件も届いていた。
【おーい、駅の南口にいますよー】【寝坊したかなー】【コンビニのイートインスペースであんパン食べて待ってまーす】
これは不味い状態だ。「えーっと、そうですね、ちょっと課長に報告してから向かおうと思いまして、貫井本日張り込みに向かいます」
「そう、じゃあ頑張ってね」
曖昧な笑顔をかわしつつ、会釈しながら後ずさりして貫井は一目散に駅前へと向かった。
駐輪場で自分のスクーターに乗り、出勤途中で通り過ぎてしまった駅前に到着すると門田はまだコンビニにいて、何個目かのあんパンを頬張っていた。
「門田さん、ほんっとすみません。私、これ駐輪場に置いて来てからすぐ戻りますから」
「うんうん、焦らないでのんびりでいいよー」
珍しくぺこぺこと頭を下げる貫井に、門田はえへらえへらち笑いながら齧りかけのあんパンを持った右手をひらひら振った。
「はぁ、私ったらおっちょこ過ぎるでしょ」
怒られなかったことが逆に胸に響いて、はぁっとため息を吐きながら駐輪場にスクーターを置きコンビニに戻ると、門田はあきらかにさっきまでとは違う齧り痕のないまん丸の
あんパンを前に口をあんぐりと開けていた。
「あのー、お待たせしました」
貫井が背後から声を掛けると、丸い背中が一瞬びくっとはしたがそのままあんパンに被りつき、くるりと振り返るとズボンのポケットから取り出したガラケーを太い親指で操作し始めた。
ピピピピピ……それは今まさに目の前にいる貫井へのメールだった。
【今、あんパンを食べています。少々お待ちください】
いや、見たら分かるから……つーか口に入れる前に声かけたんだからその時口で言えばいいじゃん。そのたった数秒が惜しいくらい食いたかったんかい! 貫井は尋常ではない門田のあんパンに対する執着にほとほと呆れて肩をすくめながら、コンビニの外へと出た。そして、欠伸をする暇もないほどに直ぐに後から出て来た門田と共に、駅前の広場へと足を進めた。
「この時間……って、最初の引ったくり事案が発生したのと同じくらいですよね」
「うん、そうなんだよ。貫井ちんちょうどいい時間に来てくれたね」
昨日勝手に決めた羊羹デカというコードネームは、どうやら立ち消えになってくれたらしい。
ほっと胸を撫で下ろしながら、貫井と門田は広場でさり気なく周囲を見回す。
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