第2章
「元彼くんは、ビタミンDをビタミンデーっていう人だった」
「そうですか」
「それで、ショートケーキは好きだけど苺はいつも私にくれた」
「変わってますね」
「だからね、許しちゃうんだ。なにをされてもね」
嫌なほど具体的なエピソードが、直近で起きたことなのかもしれないと僕を不安にさせる。それか、物凄く好きだったか。それとも嫌いだったか。僕の頭をぐるぐると気持ち悪くさせる。海が言う元彼くんは、僕が今一番恐れていることをする奴なのだろうか。
「あたしのこともっと知りたいって思う?」
「思うようになりました」
「それはどーして?」
「僕が今一番興味のあることが海なんです」
「じゃあ、ちなみに、あたしの裸見たいって思うの?」
「……あー、いずれかは」
僕がそう言うと海は目の前で服を脱ぎ始めた。辺りが薄暗いとはいえ、肌色の部分がはっきりと見える。その面積が大きくなるにつれ、僕の耳は落ちそうなほど熱くなった。
「あの!……もう、いいです」
保健の教科書でしか見ることはなかったため、下着姿ではあったが目線を落とすことはできなかった。母さんので慣れているはずなのに。水着とはまた違う。なんか、恥ずかしい。海は一体なにを考えているのだろうか。
「あたしのこと好きになった?」
「好きにならないように……いや、好きになってないです。大丈夫です」
「もういーよ、あたしのこと好きになって」
「なんでですか?」
「あたし、少年くんのこと好きじゃなくなっちゃった」
「じゃあ、なんで僕のこと好きになったんですか?」
「生きててもつまんないって顔して、今にも消えちゃいそーだったから」
「じゃあ、なんで僕のこと好きじゃなくなったんですか?」
「言ったでしょ?好きにならないでねって」
こうなる気はしていた。普段は頑張って平然を装っていても、いずれ抑えきれなくなる
「あの、最後に僕の部屋来ませんか?」
「あたしのこと襲うつもりでしょ?」
「手を繋ぎたいだけです。付き合ったら、ふつーの人は最初に手を繋ぐそうです」
「だれ情報?」
「唯一の友達が教えてくれました」
海沿いを走る救急車の音が響く。いつもの「ピーポー」という音ではなくて、今日は「ウー」と鳴っている。四本の足が絡まり合い、昨日変えたばかりのシーツが乱れる。海は僕のファーストキスを自然に奪った。顎には黶が三つ並んでいて、長い下まつげと目が合う。普段気にならないところに目がいくこの時間は、僕の心を満たすものだった。海は僕に跨ったまま髪を一つにまとめて揺らす。大きな風が吹き、僕たちがカーテンの中に入ると海はもう一度キスをした。今日は猛暑日だからか、体は湯気が出るくらいまで熱くなっている。
そんな僕を見て海は楽しそうに笑い、僕の首に流れていく汗を舐めた。
「……海って変わってますよね」
「変わり者って自分では気付かないもんなのよ」
そして、ドアを閉める暇もないまま、僕は海と繋がった。
「わぁ、生活感あるね」
彼がシャワーを浴びてる間、私は堂々と人ん家の冷蔵庫を漁った。ラムネを両手に「飲んでいい?」とジェスチャーをする。今日は海が見える彼の部屋で私もラムネも汗をかいていた。
「少年くんさ、あたしのこと好きになった?」
彼の初めてを奪った今、私は息をするように聞いた。
「はい、好きです」
「あたしがいなくなったら困る?」
「困りはしないです。寂しいとは思いますけど」
嘘つき。でも――
「少年くんのそーいうとこ、好きだな」
「僕も好きです」
「そかそか」
私より十個も年下の彼は十七歳の誕生日を迎えたばかり。強がる姿にくすっと笑ってしまうほど、彼はまだ子供だった。脱ぎっぱなしの服を畳みながら、横目でビー玉と遊ぶ彼を見る。それにしても、明日少年くんに会うの楽しみだな。
「海?」
「少年くんよ、おはー」
「なんでいるんですか?」
「あたし担任」
しわしわな襟と飴で膨らむポケット。カバン指定なのに平気でリュックで来るところ。真面目そうに見えて、意外と不良の気質があるのが彼のいいところ。
「みんなおはよう」
「あー先生おはようございます!」
私はずっと探していた。あの日、夢で見たときから。なにもなかった私に生きる意味を与えてくれた彼を、ずっと。
「こうちゃん、担任の先生の名前教えてっ」
「あさみあい先生。朝に美しく愛するって書いて、朝美愛」
「なんだ、ちゃんと名前あるんだ」
僕はすぐに海を追いかけるように科学準備室のドアを開けた。フラスコの周りについた水滴を拭く海の姿が目に入る。そして、白衣を纏う海の後ろ姿がここは学校だと僕に知らせる。
「先生」
邪魔者はいない。十分聞こえる距離にいるのに海は反応しない。
「朝美先生」
そう大きく一歩踏み出して名前を呼んでも、海はなにかブツブツと言いながら無視を続ける。ここには僕と海しかいないのにどうしてだろう。そう焦っていると、海はため息をつきながら髪を下ろし白衣を脱いだ。ああ、そっか。
「海」
「ん?……少年くんだ、どうしたの?」
緊張で掻いた汗が冷房に当たりひんやりと気持ちいい。それから口角が上がりっぱなしの僕は華麗なステップで海に近づいた。
「聞きたいことたくさんあるんですけど、全部聞きたいわけじゃないんです」
「うん」
「僕は、先生って呼びません」
「うん」
「あっでも、一つだけいいですか。海が僕に言う好きは何色ですか?」
「ラメ入りの赤色」
「らめ?」
「キラキラしてるの。あたしの少年くんはキラキラだよー?」
そう言って海はフカフカのソファーに横たわった。校長室にもなかった質のいい高そうなソファー。なぜそれがここにあるのかという問いに対して、今の僕は「それは海だから」と答えるだろう。ただ黙って見つめる僕に海は黙って背を向ける。そこで見えたのは思っていたよりもずっと小さな背中だった。そして、髪に隠れていた首筋には青紫色に滲んでいる部分があった。
「無理をすることは偉くないです」
「偉いなんて思ってないよ」
「無理をすることは当たり前なことじゃないです」
「当たり前なことなんて思ってないよ」
「無理をする人を可哀想だとは思わないですが、不思議には思います」
ああ、こんな私見せたくなかったのにな。
「あたしね、弱いから戦えないの」
「僕が守ります」
「海って大きくて深いんだよ?」
「覚悟はできています」
子供が言う覚悟なんてすんなりと信用できるものではないのに。朝の光に当たる彼の横顔は天然水よりも透き通っていた。そして、力強く輝く彼を近くで見ると、私は不思議とその覚悟を試したくなった。
「人体模型があたしの初恋だった」
「そういえば、学校の人体模型は女性ですよね。なんか珍しいみたいですよ」
違う、なんで。もっと聞いてほしいのに。着眼点がズレてるところ、ほんとそっくりだな。
「暴力っていろんな形があるの」
「身体と精神ですか?」
「そう。まあ、他にもあるんだけどね」
「海の初恋の人は全部を受け止めてくれたんですか?」
「初めてだったの。ボロボロになってまで好きにさせてくれたのは」
「僕もそうなったほうがいいですか?」
「ううん。もう後悔がふえるのは嫌だから」
決して結ばれることのない初恋。付き合っているが、付き合ってはいない。僕の初恋の人の初恋の相手は人体模型だった。
「なにそれ、先生の初恋とかつまんないんですけどー」
「じゃあもう帰れよ」
「やだ、帰りたくない」
「帰りたくなくても帰るんだよ。親御さん心配するだろ?」
木の椅子の音も響く暗い科学準備室で、僕は生意気にわがままを言う彼女に手を焼いていた。僕に反抗するように下唇を出し、椅子をゆらゆらさせながら彼女は楽しそうに質問をしてくる。
「ねえ先生?なんで先生は先生になったの?」
「知っておきたいことがあったんだよ。それも先生になったらわかると思ってさ」
「なにそれー、原先生ってほんと変わってる。そんなんじゃ一生独身だよ?いいの?」
「まあ来世に期待だな」
あの頃、十七歳だった僕はどこか変わっていて、どこかおかしかった。好きという感情がわからなくて、知りたくて、必死に探していた。
学校では教えてくれない恋という科目を習いたくて、海を眺めながら、妄想したり、夢を見たり。
「期待しすぎると裏切られたとき辛くなるよ?」
「ちょっとの期待しかしてないから、平気だよ」
ある日、朝起きると私は泣いていた。その原因はすぐにわかった。さっきまで見ていた夢のせいだと。
海にプカプカと浮かぶ私の先にいたのは知らない少年だった。少年の顔はぼやけていたが、雰囲気で泣いているように見えた。だが、可哀想とは思わなかった。ただ嬉しくて笑みが溢れた。それから少年は猫を連れて姿を消した。
徐々に体力がなくなったのか、私の体は海の底に沈んでいった。目を閉じると、ぼやけていたはずの少年の顔がくっきりと頭の中に映し出され、こう言った。
「僕は変わらない海が好きだった」
その光景は鮮烈に記憶に残り、今でもはっきりと思い出すことができる。
「恋ってなんですかね」
「まだ知らなくてだいじょーぶ」
「なら責任は取ってくださいね?」
「はいはい」
乾いた雨の匂いが窓から流れてくる。お昼休憩が終わり授業が始まったが、僕は海が飲んだコーヒー片手にただニヤけていた。ソファーに座りながら、向こう側で授業を進める海の声を聞いてニヤけていた。
「はぁ……暗っ……」
僕はいつの間にか寝ていて、目が覚めると太陽が沈む準備をしていた。やばっ、早く海に会わないと。けれど、まだそんなに慌てる必要はなかったようだ。海は、まだ僕の近くにいた。
「先生は俺のこと好き?」
「もちろん好きだよ」
「それは男として?」
「その質問に答えると先生でいられなくなっちゃうから、内緒かな」
隣の科学室から聞こえる気持ち悪い会話。聞き馴染みのある声に被せるように校内アナウンスが流れる。壁に滲む赤い心臓はきっとあいつが作ったんだ、壁の向こうでニヤけるあいつが。あいつに勝ち目などないはずなのに、僕はなぜかイライラが止まらなかった。そんな僕はわざとほうきを倒し、物音を立てた。嫉妬心が少しだけ顔を出したようだった。
「海」
「少年くんさ、今日の聞いてたでしょ?」
「あの、僕以外にもいるんですか?」
「なにがよ」
「抱いたことある生徒」
「ずるいね。生徒って単語ここで出さないでよ」
「そうですか、いるんですか」
「いるって言ったら少年くん嫉妬するのかー」
袖の隙間から流れてくる夜風は反った背中を痛く痒くさせる。ああ、邪魔なやつほどこうやってしぶといんだよな。
「キス、する?」
「しません」
「あたしはこの関係好きだよ?」
「僕以外の男は海を幸せにはできません」
「少年くんってさ、横顔綺麗だよね」
――また、話を逸らされた。
――横顔が綺麗すぎて、話が頭に入ってこないよ。
――キスすればよかった。断わんなきゃよかった。
――断ってくれてよかった。ほんと、どうかしちゃうところだった。
僕の価値は海がいないと無いに等しい。それくらい僕には大きな存在だ。でも、海と深い関係になれる日は来るのだろうか。好きって言ったのは海からだったが、それが僕を安心させる材料にはならず、むしろ不安にさせた。
僕にとって海は先生でもなく、恋人でもない。じゃあ「誰」なんだろうか。
それでも町に月花が降り立つたび、僕は海と逢瀬を重ねていった。
「長生きしたくないの、あたし」
「僕もです」
「苦しみを乗り越える経験なんて、もう嫌だから」
「そうですね」
「僕、十四歳からの記憶しかないんです」
「ほんとになにも覚えてないの?」
「孤独を感じると怖くなるくらいしか」
「残念だね。あ、これちゃんと思ってるからね」
「別に疑ってないです」
「無駄な心配だったか。ごめんね」
「この村の人ってなんでそんな笑うんだろうね」
「ほとんどの人は外の世界を知らないんです」
「強制的に笑顔になるガスで充満してないか、時々心配になる」
「ここの海が汚いのって、多分そのせいですね」
「か、海斗くん!」
放課後、下校のチャイムが鳴ったと同時に僕は誰かに声をかけられた。
「今日一緒に帰りませんか?」
なんか見たことあるような、同じクラスの子だっけ。今日は信号を渡る授業で疲れたというのに、なんだろう。
「なんで?」
「え?……あ、えっと、なんでって……」
「なんで僕と一緒に?話したことないよね?」
「うん……それは、そうなんだけど……」
彼女は明らかに困っていた。言いたいことがあるならはっきりと言えばいいのに。
「海斗くんのこと陰でずっと見ててね。優しいし、かっこいい――」
「海斗なにしてんの?あ、あれー、横山さん?一組の横山さんだよね?」
「あーうん、まあそうだけど。私は海斗くんに話があってね」
「この後さ、俺と海斗一緒に遊ぶんだよねー。だから、もういいかな?」
「あーそうなんだ、なんだ……わかった、ごめんね。じゃあ海斗くんまた今度話すね、またね」
僕はあの子に陰でずっと見られていたんだ。全く気がつかなかったな。
「じゃー遊ぶかー」
「おい、今日は遊ばないぞ」
「断る口実だよ……っていうかさ、付き合ってる人いるって言って断ったら?」
「あー、そっか。断っていいのか」
「なんでだめなんだよ。付き合ってる人に失礼だろ」
付き合ってる人か。僕と海はまだ、いや最初から付き合っているのだろうか。花粉症でもないのに異常に目尻が痒くなり、僕は無心でまつ毛を抜いた。紺碧の空の下、そっぽを向く僕にこうちゃんは珍しく眉間にしわを寄せていた。
「やっぱ変だな。知らない人とは付き合うのに、可愛いクラスメイトの誘いは断るって」
「僕は可愛いとかそういうので見てないから」
「あーそーですか!」
この話長くなりそうだな。そう思った僕は浜辺のベンチにこうちゃんを誘導した。そして、売れ残ったつぶあんぱんを噛りながら、こうちゃんの説教ぽいお話を聞いた。まあ、いつものように聞いているふりだけどね。
「海斗は無駄に顔がいいからな。女子はすぐそういう目で見てくるんだよ。それに海斗も困ってる人は助けるから。だから、みんな勘違いして、告白して、断られて、やっぱり思ってたような人じゃなかったって言うんだよ」
「そうだねー、そうだそうだっ」
「っていうかさ、海斗は海斗でなんでオッケーしたんだよ。危ない人かもって思わなかったのか?」
「んー断ったら後悔するって直感的に思って。この人しかいないって」
あの日、海とは初めて会ったはずなのに不思議と怪しく見えなかった。
「大きく見えてさ、存在が。心がグワァーってなったんだ」
「なんか運命に導かれたみたいな出会い方だな」
今では存在するだけで僕の胸を締め付けて、僕の感情を支配する。「好き」がどのようなものかはまだわからないが、海は他の誰かと比べることのできない「特別な存在だ」ということだけは、はっきりとわかっている。
「っていうか、こうちゃん痩せたね」
「……そう、か?」
「夕方うちに来なよ」
「あ、予定はなかったんだ」
こうちゃんの頬の肉が前よりも少なくなっているような気がして、久しぶりに僕の家で一緒にご飯を食べることにした。
母さんがおやつ感覚で焼いてくれた卵焼きを手掴みで食べ、熱々のナポリタンスパゲティを勢いよく頬張る。お客さんよりも先にがっつく僕を見てこうちゃんは笑いながらも、僕に続いて少しずつ母さんのご飯を口にし始めた。
「あの、すいません。こんなに作ってもらっちゃって……」
「いーのいーの!たくさん食べる若者って見てるだけで気持ちいいから」
「ありがとうございます」
「あ、海斗。学校楽しい?結構ご無沙汰だったんでしょ?」
「学校なんて楽しくないよ。ただ、こうちゃんがいるのだけが救いだね」
「そっかー。まあ行きたくなくなったらさ、自分で判断して休みなよ?」
「ほーい、了解した」
母さんはこうしてたまに僕の気持ちを探ってくれる。そうでもしないとなにもわからないらしい。家族でも僕のことはなに一つわかれないらしい。
「おーい、こうちゃんもだからね?」
「え?俺ですか?」
「大人になったら嫌なことめーっちゃあるんだから、今無理する必要ないのだぞっ!」
「ねぇ語尾変だよ?なにだぞって?」
「ママ今ね、ダゾダゾ言う漫画ハマってんのだぞ」
「もしかしてまた大人買いしたの?」
「表紙のムキムキマッチョに惹かれちゃったからね」
「そこだぞって言わんかーい」
「っふふ、ふははは!」
「おっ!やっぱりこうちゃんは笑った顔がいいね!」
「そうだね、笑顔が似合うね」
「ほら、美味しいご飯に夢中になってないで、海斗も笑えー?」
「はは、ははははー。ははは!」
「えー?ぎこちなー嘘っぽーい」
「ははははは!」
「まあ、今日はそれで許す」
「はぁなんだよ、せっかく頑張ったのにー」
「じゃあ今からママは買い物に行くから、2人ともお留守番頼むんだぞっ!」
「はーい、いってらっしゃーい」
こういう内容のない会話で僕の人生は彩られている。なくてもいいのに、ないとどこか寂しくて。振り返ってみると、やっぱりあったほうがいいってなるもの。一人でいて辛いと感じることはないが、一週間に二回くらい訪れるこの時間を大切にしたいとは思う。
「ふぅ、ごちそうさま。結構食べたねー。こうちゃんはお腹いっぱいになった?」
僕はお皿を重ねながら不意にそう尋ねると、こうちゃんは少しだけ目に涙を溜めていた。その瞬間、やっぱり誘ってよかったと強く思った。この時間が長く心に残ることはないのかもしれないけど、幸せだったことに変わりはないから。また、こうちゃんとも感情を共有できてるようで嬉しかった。
「僕ちゃちゃちゃって洗い物済ましちゃうから、先にそっちで休んでていーよ」
「あっ、いや、俺も手伝うよ」
「前に調理自習でお皿五枚も割ったの誰だったっけ?」
「……俺だ。じゃあ、海斗の部屋行っててもいい?」
「どーぞ」
泡まみれのシンクに手を突っ込みながら笑う海斗に、俺は安心してそっと背を向けた。
さっき、海斗から「うち来なよ」と誘われた時、一瞬躊躇った自分がいた。いつもなにを考えているのかわからないのに、誰も気づかないような細かい変化には気づくから。けれど、今では来てよかったと心から思う。他愛もない話ができて、遠慮なく笑えるような時間を過ごせて。また海斗に感謝しないと。俺はそんなことを考えながら先に二階へ上がった。
海斗の部屋にはいろんな物があった。来ないうちに、会わないうちに、いろんなことがあったんだと思う。
「ん、なんだこれ?」
俺は昔から端を見る癖がある。左から順に部屋を見ていくと、右端になにか落ちているのがわかった。机の影に隠れた部屋の端っこに「本望浩介へ」と書かれた小さな封筒があった。
「どうしたの?座っててよかったのに」
「ああいや、普通の部屋だなって思ってさ」
「うわぁー辛辣ー」
俺は拾った封筒を二つに折りたたみ急いでポケットにしまった。幸い、海斗には気づかれていないようだった。
「なぁ、海斗って俺の苗字書けるっけ?」
「見ないと書けないよ」
「そうだよな。海斗は記憶力いいはずなのに、人の名前だけは覚えられないもんな」
「覚える必要がないからね。覚えたい人はあだ名をつけるから」
風は髪先と頬をくすぐり、海に顔を向けると一度だけ不自然に高く波を打った。僕に秘密の合図を出してくれたようだ。
「海」
「少年くんよ、どーお?」
振り返ると、ウエディングドレスを纏った海がいた。ドレスが海を綾なすというより、海が纏う布が輝いていると言ったほうがしっくりくる。発光体と成した海は、青春恋愛小説の表紙のような輝きを放っていた。
「あたし結婚できるかなー?」
「僕次第ですね」
脇役に降格したの満月が冷たい明かりを灯す。そんな光に照らされた海は眩いばかりの美しさだった。
「綺麗です、とても」
僕は海に惹かれている。指につけられたスパンコールが水面に反射していたが、それよりも今は海のどこか切ない表情から目が離せなくなっていた。
「僕のことを好きな子がいるみたいなんです」
「……そっか」
「嫉妬しますか?」
「しないよ」
海が発する言葉は僕が捕まえる前に風に流され消えていく。その度に記憶とは本当に貴重なものだと思い知る。それから少しして、海は細い離岸堤をウエディングロードのように歩きながら話し始めた。
「中学二年生の、あたしがまだなにも知らない純粋だった頃の話ね」
「はい」
「ある男の子が『お前の裸見てもなんとも思わないわー』って言ってね。あたしほんとかなーって思って、みんながいる前で着てた服ぜーんぶ脱いだのね。そしたら、その男の子顔真っ赤になっちゃって、あたしそれ見て『嘘は程々にね』って言ったの」
「そうですか」
「かっこいいでしょ?」
その問いに、即答なんかできなかった。海が今までとずいぶん違って見えて、どうすればいいのかわからなくなった。
それから動き出さない僕を一瞬見て、海は髪で顔を隠し下を向いた。いつもならここですぐに話題を変えるのに、今回は僕が必要なようだった。
髪の隙間から見える海の目からは涙が流れている。夜空に一際輝く月の下で、海の影が消えてしまう前に。僕は寄り添うように海の横に移動してから、そっと口を開いた。
「あの、僕には嘘をつかなくても大丈夫です」
「ついてないよ」
「ついてます。人は嘘をつくとき目を逸らすんです」
「なにそれ」
「ほんとは嫌な記憶なんですよね?」
「違うって」
「辛くて苦しかった過去を僕に変えて話して、必死に耐えようとしてるんですよね?」
「じゃあさ、もしそうだとして、それをなんで全部私にぶつけるの?」
「……受け止めたいから」
まだまだ子供だったのは私のほうだったのかもしれない。彼の真っ直ぐなその目は、言葉は、私に向けられた思いは、前に言った覚悟を表すようなものだったから。今まで隠し通せていたものが急に露わになり、本当に丸裸にされたみたいで恥ずかしかった。
彼はそんな私を見て引き止めるように強く抱きしめた。日に焼けた温かい腕に包まれる。そして、風が絶え、彼の鼓動を胸で感じる。
必死に保っていた心の距離は、いつの間にかなくなっていたようだった。
瞼を閉じてみれば全てわかった。
――ああ、好きだな。
「好きです」
――でも、これ以上はもう、
「愛してます」
――だめなことなんだって、教えないと。
「ねぇ、あたしのこと好きなの辞められる?」
「結婚するんですか?」
「あたしのこと諦められる?」
「相手がいるんですか?」
「あたしのこと、先生って言える?」
「言いません」
「これからは先生って言わないといけないよ?」
「無理です。嫌です」
「あたしが本気じゃないって気づいてたよね?」
「僕の唯一好きなものは海です。本気になれるのは海だけなんです」
一度通じ合ったこの思いを失くすには、もうこうするしかなかった。
「海斗くん、もう遅いから早くお家に帰えるんだよ」
「……え?」
初めてこの場所で彼の名前を口にした時、彼の目には微かに怒りの感情が映っていたような気がする。
「誰ですか?」
「朝美愛。あなたの担任の先生です」
「ああそうですか、わかりました。もういいです。さようなら、先生」
(にゃー)
「いいの、これでいいの」
彼が一時の方向へ帰るのを見届けると、私は七時の方向へ歩いていった。彼は歩きだしてから一度も私の方へ振り返らなかった。
それくらい、私は彼の未来を変えてしまったんだと思う。
僕は海に見捨てられたことで破れかぶれになり、今まで海で拾ったものを全てゴミ箱に捨てた。足が重く固まったように動かなくなり、冷たい涙が頬を伝う。
前に母さんが言っていた。「自分の心は自分で満たせるようにしておいた方がいい」と。僕はそんな言葉を思い出し、久しぶりに温かい湯船に浸かった。
「ただいま!我がアジト!」
「あ、母さんおかえり。今日は頑張ったねー」
「ううん、仕事終わりにちょっと買い物してたー。でね、海斗見て!可愛いでしょ、この香水!」
「うん、買ったんだ。可愛いね」
僕がタオルを頭に巻きながらそう言うと、母さんは満足げに笑って部屋中にラベンダーの香りをばら撒いた。そして、楽しくなってきたのか、腕をぐるぐる回しながらオリジナルのダンスを披露した。
「どう?ママに似合ってる?」
「母さんはなんでも似合うけど、それは特別似合ってるよ」
「そうー?まあ、そうねー」
前よりも相槌が上達した気がするのは、最近人と話していたからだろうか。
「今日は早く寝よ!海斗ももう寝なねー?」
「うん、そうするよ」
ん、いや違う。きっとまだ僕は眠っていて、起きてはいなくて、よくできた夢で混乱したんだ。僕はそう思い込みたくて、どこもつねらず静かにベットに寝転がった。夢の中で飲むビールは美味しいと言うけど、飲んだ人はおねしょする確率が高いというのでやめておこう。
枯らしたボールペンのインクに尋ねる。今日の出来事をノートに書くべきだろうか。首を傾げたついでに首の骨を大きく鳴らす。
ああ、遥か遠くいるお月様は僕たちを照らしてどうするつもりなんだろう。ずっと僕たちのこと見ていたとしたら、今日は振られた僕を見て嘲笑っているに違いない。
僕の愛で海を溶かしてしまいたい。なんて、子供の僕には早すぎたんだ。僕は初めて自分の無力さに腹を立てた。今すぐ肺に溜まった藍の水を取り除きたいとも思う。
「母さん、また明日から学校にはいけな――」
「すぅーはぁー、んー」
「そっか、今日はもう疲れたよね……うん、おやすみ」
父さんたちの財産で買ったこの家は無駄に広い。四LDK、あと五人は余裕で住める広さだ。けれど、母は硬い床に敷いた毛布の上で気持ちよさそうに眠っている。別に死にたいわけじゃない。家族も友達もいて、神もいる。
「じゃあ、なんで涙が出てくるんだよ……」
会えないわけじゃないのに。元の生活に戻るだけじゃないか。数時間前は時間を止めたいと思っていたのに、今は巻き戻したくてしょうがない。ああ、このままじゃ寝不足で頭痛をおこして明日倒れてしまうよ。早く寝なければいけないのに、目を瞑ればさっきの映像が頻りに流れる。
「いっそのこと、なかったことにしようか」
僕は一億人に一人といわれている難病を患っていて、一部の記憶を忘れてしまうんだ。ギリギリバレるラインでもない大嘘で、さっきの出来事を記憶から消した。そして、睡眠の質をあげるため、僕は昨日買ったコーヒーを冷蔵庫から取り出してパジャマに垂らした。
七時半、俺は帰ってからすぐにあの封筒を開けた。海斗の部屋に落ちていた、俺宛のなにか。大きめの便箋には中央に詰めて書かれていた。
本望 浩介
会わないと。そう約束としたのにと、こんなにとも君を想とってしまとうのは病と気かなにとかなのでとしょうかと。
今日が何日とで、この手と紙が渡ると頃が何月にとなるのかと。なにもとわからなといまま、と私はただと君を、
君を、君だけとを考えて生ときていまとす。
全てを捧げ、託とし、差し出とす。まだと、私にはそとの覚悟がとありませとん。だかとら、
少しだけ乱暴にもとなってしまとう。誰もと傷つけずにとこの手のと震えを抑とえる方法となんてなといのだかとら。
君にはいつまでも夢とを描いていとてほしいとから。
「君の勝手すぎる行動でと助かった命とが誰かをと殺したとしとても、君とは決しとて共犯者とにはならとない」
私はそう信じています。
P.S
これまでも、これからも、滲んでやっと交わったような関係のままで。
封筒の底には十円玉が四十七枚入っていた。謎解きのようなこの感じに胸の奥が騒ぐ。差出人は書いていなかったが、誰が書いたのか俺にはわかった。
「懐かしいな、この感じ」
手の平に十円玉を積み重ね、影でピサの斜塔を創る。
なにかを生み出すことに夢中になっていたあの頃、俺は発明家になろうとキラキラしていた。それを取り上げられたあの日、俺は頭を下げて必死に抵抗した。そして、宝物が敵になったあの瞬間、俺は自我をなくした。
「浩介どこにいるの?お母さん帰ってきたわよ」
ここで生きていくためには、俺は人間を辞め、何事も完璧に人間らしく行動をしなければならない。
「……あっ、ここにいるよ」
なにをされたとしても従わなければいけない。たとえ、それが自分の望んでないものだったとしても。
母が帰ってきたことに気づいた俺は慌てて押し入れから顔を出した。二日ぶりに見る母の顔は少し痩けているように見えた。骨を削ったような、なにかを入れたような、そんな感じで。
「早くこれ冷蔵庫に入れといて」
「わかった」
けれど、それを言ってしまうと母は機嫌を悪くしてしまうので、いつも通り見なかったことにした。俺は母に言われた通り、冷蔵庫に食べたことのない食材たちをテトリスのようにはめていった。ひんやりとしたこの部屋で過ごす野菜が羨ましいな、と最近はよく思ってしまう。
「ねぇ、インターホン押したんだけど気づかなかったの?」
「ごめん……あ、あの、考え事しててさ」
「は?なにそれ?ほっんとそういう所直しなさいよ!こっちは接待で疲れてるんだから!」
母はそう言って着ていた服をその場で脱ぎ散らかし、すぐにニコチンとアルコールを体内に入れた。父の前では見せない母のだらしない姿が、また僕を俯かせる。
「あーもう疲れた!あ、そういえば。ねぇ浩介あれ取って」
「……あ、あれってなんだっけ?」
「冷蔵庫に入ってる刺し身!」
「ごめん、そうだよね」
「ちっマジでムカつくわ!そんくらいわかってよ!」
「ごめん、ごめんなさい」
俺は母に頭を下げる時、いつも同時にズボンのあいびきを掴むようにしている。万が一のことがないように。母がお腹を痛めて産んでくれたおかげで俺はここにいるのだから。しかし、母はそんな俺を見向きもせず、恋愛ドラマを倍速で見ている。
「はい、これ」
「もう!今いいところだったのにさ!静かにしてよ!考えればわかるでしょ!」
「ごめんなさい」
これが俺の日常だ。道徳の授業で習ったささやかな幸せというものだ。
しばらくして、タバコと人工の薔薇の匂いが部屋に充満したため、俺はまた隠れるように息を潜めた。言いたい言葉が宙に舞っているのを無視して、オレンジ色の懐中電灯を床に置く。
この手紙はいつ書いたんだろうか。壁に持たれ、体育座りをして考える。
今日は久しぶりに夜が暖かく感じた。
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