第1章

この村には小汚い海がある。太陽が姿を表すたびに誰かの落とし物が届く。空き缶、ビニール袋、食べかけの魚。

 横断歩道はあるが、信号機はない。ラムネはあるが、サイダーはない。駄菓子屋と無人の八百屋は無限にある。

 外の世界との境目には越えられない壁があって。唯一、海だけがこの村から出られるルートだった。

 そんな少子高齢化で取り上げられるような村だが、実際にニュースなどで取り上げられたことはまだない。たぶん今後もないと思う。

 そして、今日もまた僕はここにいる。明るい未来を想像させるチャイムが鼓膜に触れたとしても、僕はここにいる。昼間の眠気は海の匂いと絶妙にマッチするから。生きているという実感はあまりしないが、家と海を行き来する毎日はなんだかんだ楽しい。アイスを見かける回数は少ないけど、かき氷の種類は豊富だからな。今日はサイダーシロップからのブルーハワイシロップにしよう。

 生きていく中で優先順位をつけるとしたら、海、飯、勉強だろうか。

 僕はそんな生活を繰り返し、学校に行かなくなってから一ヶ月が経とうとしていた時、ついに校長室へ呼び出された。

「なんで学校に来ないんだ、理由を教えろよ」

「だって、学校はなにも教えてくれないから」

 冷房が効きひんやりとした部屋で放った僕の言葉は、この空間を一瞬にして凍らせた。僕の向かい側には呆れた表情が三つ並び、ため息が連続して起こる。

 だが、そんなしょうもない理由に母は「どうせ休むんだったら楽しいことをたくさんしなさい」と言った。母は汚い野良犬のような男をものにしては捨て、僕に四人の父親をつくった。今はタイプの男がいないと言って仕事を頑張ってくれているが、あの頃よりも笑顔が減ったような気はする。

 毎日ちゃんと自転車漕いで、電車に乗って、仕事に行って、働いて、稼いで、誰かを支えるために頑張って。

「すごいな。みんなすごいな」

 なーんて言ってるけど、憧れとかそういう感情は生まれなかった。学校も行かないとだけど勉強はできても楽しくはないし。将来なんてまだ決めたくない。

 僕はただ海を見ていたい。変わらない海をただずっと。時間を潰しているわけではない。時間たくさん使って楽しんでいるのだ。

 きっかけの一つなんかあれば自然に大人になれると、信じているだけ。


「爪?」

 砂浜に映える真っ赤な爪が僕の眼球に一瞬にして焼き付いた。すぐに僕は携帯電話で 爪 単体 落ちてる やばい? で検索をかけると、ネイルチップではないかと出た。ここにはそんな最先端なものは置いてるはずないため、また誰か来たんだなと思った。

(にゃー)

「今日もおはよ」

 僕に続いてここへやって来るのは海が荒れた日に出会った三毛猫だ。それから晴れた日に姿を表す「守り神」のような存在だから、前に「神」と名付けた。僕がここへ来る理由の一つにもなってくれている。

(がるぅー)

「どした?」

 いつもなら可愛い声で鳴いてくれるのだが、今日は朝食がまだのようで機嫌が悪い。餌なんかあげられればいいけど、「ご飯をくれる人」とは思われたくないからな。

 そう僕は、またいつものように海の近くで考え事をしていると、色素薄い蝶が薬指に吸い付くように止まった。僕はこの出来事がなにかの前兆だと予想する。

 それから、すぐに神は僕を誘導するように後ろを向いた。

「少年くんよ、あたしと付き合わない?」

 この村の住人はほとんど知っているはずだが、見かけない顔だった。また、この世の人間とは思えないほど鮮やかな人だった。

「いいですけど……なんでですか?」

「二目惚れしちゃった」

「そうですか」

 そして、女性は目がなくなるくらい笑いながら、僕の手を掴んで言った。

「今日からよろしくね」

 年齢も学歴も出身も、名前すら知らないまま、僕はこの人と付き合うことになった。耳に空いている穴は合わせて六つ。足のネイルは剥げていなく、意外とちゃんとしているように見えた。右手には藤紫色のブランドのバッグ、左手には空の缶コーヒーを持っている。

「なんて呼べばいいですか?」

「少年くんの好きな物ってなーに?」

「海、ですかね」

「じゃあ、海って呼んで!」

「わかりました」

 会話をしていると少し不思議な気持ちになった。僕のことを最初から知っているような気がした。

「あの、付き合うって言ってもなにをするんですか?」

「ふつーの人はキスとかハグとかするみたいだけどね」

「海は僕と付き合ってなにがしたいですか?」

「……うーん、考え中かな」

「なら、僕はどうしたらいいですか?」

「毎晩あたしの名前を呼んでよ、ここでさ!」

「それだけですか……まあ、わかりました」

「少年くん、ちゃんと学校行ってね」

「学校に行ったら、なにかしてくれますか?」

「学校に行かなかったら、少年くんのこと好きじゃなくなる」

「僕も好きになったほうがいいですか?」

「好きにならないでいーよ。その方が都合いいから」

 風が吹き、影が揺れ、雲が揺れる。指についた花粉をバレないように落とす僕に、海は今にも消えそうな声で言った。

「少年くんさ、あたしのこと好きにならないでね」


 この村は極端だった。バスが停まるのは一時間に一回で、最寄り駅は存在しない。野菜は基本百円以内で買えるが、惣菜は存在しない。自動販売機は見た限り一台のみ。コーヒー以外は売り切れのままだが。東京から逃げてきた私にとってこの村は、知れば知るほどガッカリするものだった。

「朝美先生、ちょっといいですか?」

 この村で青春が集まる唯一の高校に勤めてから一ヶ月が経ったある日、私は校長先生に呼ばれた。

「あの、枯渇海斗くんのことなのですが……」

 枯渇 海斗こかつ かいと 十七歳 母子家庭

 ・一年生 授業態度は悪かったものの、試験は全て九十点以上で校内でもトップクラスの成績。

 ・二年生 新学期が始まってからすぐ授業には出なくなり、五月に実施された中間試験は全て白紙で出されていた。

 問題児扱いをされても反抗はせず、素直な一面もあるそう。いじめは受けているわけでも行っているわけでもない。彼女はいたことがなく興味もない?

 名簿で一人だけ笑っている彼を見て、私は不思議と魅力を感じた。そして、またどこかで会ったことのあるような気がした。

 その瞬間、私は担任という立場で彼と接触するのはもったいないと感じた。

「一度会っていただけませんか?最近やっと落ち着きましたし、元気かどうか確かめるだけでもいいので……」

「わかりました。私なりに頑張ってみます」

「よろしくお願いします。新しい先生なのでどうかなって思ってたんですけどね。はぁ、俺はなにもしてあげられなくて、すみません」

「私は枯渇くんの担任の先生ですので、大丈夫です」

「まあ素直なんですよ。やりたいことをやって、やりたくないことはやらない」

「そうですか。なんだか楽しみになりました」

 華を添えなくとも、これからの日々はきっと輝きに満ちている。そう確信した私は浮つきながら彼探しの旅に出た。まあ半径一キロ圏内にはいると思うけれど。

 まずは彼の家を訪れた。想像と違い意外にしっかりとした外観だったが、平成というこの時代にまさかのインターホンがない。面倒くさいことになりそうで、ため息を交えながらドア越しに何回か声をかけたが応答はなかった。

「海斗くんか」

 待っててね、もうすぐ素敵な出会いをさせてあげるから。ラベルが剥がれたコーヒーを片手に辺りを少し探してみると、意外にも早く見つかった。

 海を見ながら猫と戯れる彼はどこかつまんなそうに見えた。

「少年くんよ」

 たんぽぽの根のような声で振り向かせた私を、彼は下から舐め回すように見た。やっぱり他の生徒と違う目をしている。

「あたしと付き合わない?」

 まさか、こんな変な人間のことを担任だとは思わないだろう。突然現れた人間の質問に、彼女ができたことのないであろう彼は食いついた。

「いいですけど」

 生徒と先生が付き合うことは決して許されないが、人生は一度きり。「学校はなにも教えてくれないから」と正直に言った彼には世間が、周りが許さなくても、そういう経験をさせたかった。先生として生徒にはたくさんのことを教えたい。たくさんのことを生徒全員に教えたかった。

「ちゃんと学校行ってね」

「学校に行ったら、なにかしてくれますか?」

「学校に行かなかったら、少年くんのこと好きじゃなくなる」

 付き合っているが、両思いでも、私の片思いでもない。

 彼の素直は事前に聞いていたものと少し違ったが、私はそんな彼に恋を教えたくなった。

「少年くんさ、あたしのこと好きにならないでね」

 

 僕は海を好きにはならない。海もきっと本気ではない。これはただの経験で傷つくことは恐らくない。海がどんな人生を歩み、どんな恋をしてここへたどり着いたのか、知らないほうがいいと思った。だから、聞きたくない。聞かない。でも、気になった。

「なんで、なんでこんなに知りたいって思うんだよ」

 僕の頭の中はいつの間にか海で占領されていて、心臓が震えるほど呼吸が浅くなっていた。深い足跡を辿る家までの帰り道、僕は珍しく太陽が少しだけ早く来てほしいと思った。


 寝床に付き、窓を開け、カーテンに触れる。そして、空に浮かぶ玲瓏と輝く月を見上げる。朝からなにも食べてないはずなのに、僕はもうなにかに満たされていた。

「あぁ……」

 キンキンに冷えたコーラを瓶の蓋で飲む。これを母の前で披露するとまあまあ怒られるが、最近やっと僕の部屋を取り返せたため、もうし放題だった。適当に指を鳴らし、ゲップを喉で鳴らす。それから机に広げたノートに今日起きた出来事をまとめた。

「海斗!」

 あれ、もうこんな時間だ。時計を見ると、あれから二時間半も経ったようで短針が七を指していた。今日の夜ご飯はきっとそうだな。これは僕の隠れた特技だが、階段を駆ける足音で今日の夜ご飯がわかる。

「三日ぶりのカレーだな」

「海斗!今日はカレーだぜっ!……早く取り分けるの手伝ってー」

 そう言って母はお玉を振り回して登場した。たぶん最近ハマった漫画のせいだ。

「はーい」

 退屈よりだった生活はもう終わり。明日は学校に行かなきゃな。


 二ヶ月ぶりの登校。蝉の音と笑い声の鳴り響く校庭がもう懐かしい。学校は昨夜の大雨で地盤が緩んだのか、前よりも優しく僕を受け入れてくれた。

「海斗?」

「あ、こうちゃん。おはよう」

 僕の唯一の話し相手 本望 浩介ほんもう こうすけ 僕とは違う陽キャだ。

「おはよう、じゃないだろ!」

「なんか髪伸びてかっこよくなったね」

「え、そ?……じゃなくてさ!お前どこいってたんだよ?俺結構寂しかったんだけど」

「僕以外にも友達いるのに?」

「いないよ、お前だけだよ」

「そっか…………嬉しい」

「溜めんなよ!」

 一年生の頃はずっと一緒にいた友達だ。こうちゃんは彼女ができてもいつも僕を優先してくれた。「なんで僕といるの?」と聞くと、ただ寂しそうな顔をするだけ。そんなこうちゃんには心を許せた。

「っていうか、ちゃんと受けられるのかよ」

「え?なにを?」

「授業!今日は楽な科目ないぞー」


「拷問だ」

 久しぶりの授業は地獄だった。端っこの僕には人権がないようで、質問をしても却下される。また考えればわかることを無理に遠回りをして説明している。そんな先生の脳みそを少しでもいいから覗かしてもらいたい。

 時計の長針が十を指すまで僕はどこを見ればいいのか。前に校長先生は先生が板書している姿を見なさいと僕に言ったが、今となってもそれを理解することはできない。

「帰りたい。でも、今日は帰れない」

 朝からなにも食べていないせいか、口が寂しい。いつもならサイダー味のドロップスを持ち歩いてるのだが、今日に限ってはそれも忘れてしまった。

「やっと終わった」

 一日の授業が五分もオーバーして終了した時、進行方向と逆の方向から名前を呼ばれた。

「枯渇海斗!ちょっといいかー?」

 相手から顔が見えないことをいいことに僕は渾身の変顔を披露する。こんなことをしていないとやっていけない。

「おーい!枯渇海斗ー?聞こえてんだろ絶対ー、そのまま無視してるとマジでぶっ飛ばすぞー」

 こんなにも口の悪い先生は他にいないと思う。将来のことを考えると顔に傷はつけたくなかったので、仕方なく顔だけ方向を変えると、トンボみたいな顔の校長先生が「にたー」っと笑いながら手招きしていた。

「どうしました?」

「今日担任の先生いなかったろ?なあ、お前来週も来るか?」

「はい、来ます」

「じゃあ俺から先生に伝えとくからな……っていうかさ、お前ちゃんと来れんじゃんかー」

「素直なんで、来てほしいって言われたら行きます」

「なーんだそれ。まあよかったよかったー」

 学校一面倒くさい奴が変わってくれたと、校長先生は少し大袈裟に安堵の表情を浮かべた。

 それにしても新しい担任の先生か。前の先生は問題児の僕とトラブって辞めちゃったからな。まあ、優しければいいな。


 きらきらと動く世界できらきらな妄想ばかりしていると、昨日の出来事が夢のように感じる。足を引きずると靴に擦れて砂利の音が鳴り、足跡の付かない地面を見て僕はだんだん不安になる。そして、だんだんと冷えた汗が気持ち悪くなった。

 そんな僕はなにかを追いかけるようにすぐに海へと向かった。

 

 今日の海は夕陽を斜に構え、まるで学校の僕のようだった。まあ同族嫌悪にはならなかったけれど。

(にゃー)

「神はいいな、気楽で」

(がるぅー)

「あ、ごめん。調子乗った」

 風が凪ぎ、波打つ海は色褪せた光沢を放つ。神は僕の手に顔をはめて気持ちよさそうに目を細める。

「可愛いな……ん?あれ、もう帰るのか?」

 いつもならもう少し遊んでくれるのだが、今日はもう疲れたようだ。神は尻尾をピンと立たせながら、僕の足を踏んで帰っていった。そういえば神は気が利く頭のいい猫だ。僕はそのことに気づき急いで後ろを振り返ると、そこに今日のご褒美が待っていた。

「海」

「少年くん、ちゃんと来てくれたんだね」

「まだ僕のこと好きですか?」

「好きだよ」

 水鏡に映る海は小刻みに揺れている。それが面白くて、なんとなく僕も揺れた。まるで会話をしているようで楽しかった。

「あの、ふつーのことしませんか?」

「どっちがいーの?」

「ハグですかね」

「少年くんさ、あたしのこと好き?」

「好きじゃないです」

「……そっか。じゃっ、おーいで」

 初めての経験だった。肌触りのいいタオルに包まれているようで、柔らかく気持ちよかった。

 ――いい匂い、ずっとこうしていたい。

 ――体がゴツゴツしてる。私よりずっと大きいな。

「こっち見て」

「嫌です」

「ねえ、こっち見てよ」

 僕はまだ海に包まれていたかったが、絶妙な沈黙の間に耐えられなかった。いわゆる大人の圧に負けたのだ。

「やっと目合った」

 黒目だけを限界まで上に動かし僕は嫌々目を合わせると、そこには吸い込まれそうな魅力が詰まっていた。天国のような輝きがあって、少しだけおかしなことになりそうだった。

 いや、僕はもうおかしくなっている。もう恋に落ちている。「好き」なんて一瞬だ。飽きずに思い続けるだなんて不可能だ。だから、みんな浮気や不倫を犯してしまう。母さんもその一人。「飽き性だからしょうがないの」と言っても許されない。いつか終わってしまうものなのに、そこへわざわざ飛び込むことなど無駄なことだと思う。

 そんな僕はいつもこうちゃんの惚気話をどこか冷めた気持ちで聞いていた。

 誰か教えてほしい。癖になるこのモヤモヤとズキズキは「恋」というものなのだろうか。

 

 家に帰った僕はテロテロの靴下を足にフィットさせてから、「海となにをしたいか」ノートに書き出すことにした。

 ・もう一度ハグをしたい ・キスをしたい ・好きを感じたい

 海はこんな僕を見たら気持ち悪いと思うだろうか。部屋の中心でシーリングライトに照らされながら体育座りをして考える。紅茶を吸収して考える。初めてぶつかった難題に僕は一人で頭を抱えた。


「海斗!」

「こうちゃん、おはよ」

「おはよー。なんかいいことあった?」

「あった」

 高校生にとっては貴重である休日を使って、僕はこうちゃんに海のことを全て話した。

「つまり謎の女の人に付き合ってって言われて海斗はオッケーをした。でも、好きになるなって言われてるから好きではないってこと?」

「うん、まとめるとそんな感じ」

「いやまとめてもわかんねーよ」

「付き合うってなにをするかわかる?」

「いきなりなんだよ」

「こうちゃん、付き合ったことあるから」

「まあそうだけどさ……だいたい分かるだろ、そういうの」

「ふつーはどんな感じなの?」

「んー、最初は、手を繋ぐとか?」

「そうなんだ。手を繋ぐから始まるんだね。教えてくれてありがとう。じゃあ、また明日ね」

「ああ……え?それだけ?」

 波打つ海は僕の心臓のように激しく、砂浜は引き止めるように足をさらってくる。やっぱり僕は海が好きだ。


 

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