31.俺は靄のかかった荒野に立っていた
俺は靄のかかった荒野に立っていた。
これは夢だ、とすぐにわかった。
この場所を覚えていたからだ。
女神の部屋から転移して最初に送られる場所。千人にも及ぶ転移者となった人たちすべてのスタート地点。
今はムシラ王国に入って旅をしていたはずだ。ならば異世界に転移したばかりの地域にいるのはおかしい。転移した場所は東にあるエイジフット王国の中でもさらに東の端だからだ。
景色全体に霧のような靄のようなものがかかっているのも変である。視界はいつでも良好だったはずだからだ。
夢って夢だと意識すると目が覚める。これまではそう思っていたのに、この夢はそのまま続くようだった。するとこれは俺が異世界に来てからの追体験みたいなものなのだろうか。異世界に来て初めは何をしたんだったかな。
過去の記憶がだんだんと蘇ってきた。
「ああ、ここからまずはナナミさんとソラくん夫婦のいる家へ向かうんだったな」
建物のある方角へ歩き出す。
ふと思い出したことがあり、声を出しながら振り返った。
「セナ、そこにいるのか?」
異世界に来て最初に助けてくれたのは妖精のセナだった。旅の途中で『妖精なんかいない』と言われたが、俺の能力でもあったし、確かにいたはずだ。
しかし、生意気で小さな妖精の姿はなかった。代わりに黒い人型が俺についてきている。マンガやアニメでシルエットだけ見えるアレだ。夢のせいか俺は怖がることはなかった。「あ、お前がついてくるんだな」とだけ思って歩き出した。
赤い屋根の家に入る。
以前はトンボの魔物に追われて逃げてきたが、今回はそのままドアを開けて入った。
正面に穏やかそうなソラくんと、気の強そうなナナミさんが並んで立っている。こうして改めて向かい合って見るとお似合いの夫婦という感じがした。
二人は同時に左の方を指差す。あっちの方向へ向かえ、ということらしい。本来はこの家でこの世界全体のこととか、魔気のこととか、魔王のこととかを習ったはずだったが、夢ではすべてカットされていた。
俺は仲良し夫婦の家を出た。
黒い人型もついてくる。真っ黒だが俺より背が高く、真面目そうな雰囲気を出しているような気がする。なぜセナではなくこいつがついて来ているのかわからないが、悪いやつではなさそうだ。
あれ? 俺は何でこいつを悪いやつではないと思ったのか。元も子もないが、これが夢だからかもしれない。
歩きながら俺は黒い人型に尋ねた。
「お前は誰? 何でついてくるんだ?」
黒い人型は何も答えない。ただついてくるだけだ。
「まあ答えたくないならいいけどな」
俺は後ろにいる黒い人型を見つめながら歩く。
突然前にあった何かにぶつかる。驚いて前に向き直ると、巨大ガエルが道の真ん中を塞ぐように鎮座していた。この世界で大人しい魔物でもある巨大ガエル。世界最弱の魔物なんて別名もあるくらいだ。実際はもっと小型で弱い魔物もいるが、人間以上のサイズでこれより弱い魔物はいない。
そのくせ見た目のわりに肉が鶏肉みたいに美味しく、狩りやすく量も多いから、人間の食料として重宝されている。
そうだ。こいつだ。
こいつにすら勝てなかったから、俺はこの世界で戦うことを放棄したんだった。
いつの間にか俺の手には剣が握られていた。
今の俺なら仕留められるような気がしたので、剣を持ってカエルの横に回り込んで構えた。しかし、少しだけ考えたあと、剣を捨て、巨大ガエルを放置したまま再び歩き出した。やっぱり負けるかもしれないと思ったのか、今更勝てても意味がないと思ったのか、自分でもわからない。
黒い人型も大人しくついてくる。
それほど歩いた感覚はないのに、気づくと俺は大きめの建物の中にいた。
見覚えのある部屋が広がっている。異世界なのにどこか和風な部屋。雑魚寝しやすいように枕がいくつも転がっている。
この場所は忘れるはずもない、一年以上過ごした場所だ。
ソハグの町にある『異世界人集会所』である。
ヨウタって人が建てた転移者専用施設みたいなものである。食事処や風呂などはないが、寝床だけでなく、いくつかの書物がある学習スペースとトイレ、洗面所など最低限の設備は整っている。異世界に来たばかりで落ち込んでいた俺は、ここでセナとヨウタに支えてもらい、立ち直らせてもらったんだ。
今の俺があるのはセナとヨウタのおかげといえる。セナが俺に『戦わない覚悟』を決めさせてくれた。ヨウタは常に集会所を過ごしやすい場所として提供してくれた。この二つがあったからこそ、一年もの間この世界の地理や環境、魔物について学び続けることができたと思う。
学んでいるときは本当に必死だった。大学受験の軽く三倍は勉強した。今ある知識はほとんどこの時期に身に着けたものだ。
ヨウタはいつも忙しそうにしていた。転移者に対していろいろなアドバイスを送ったり、町全体の仕事を手伝ったりして、ソハグの住民にも転移者にも慕われていたように感じた。
セナは俺に食事の差し入れや叱咤激励をしてくれた。
しかしここでひとつの矛盾が生まれる。セナは世界に存在するすべてのものに触れることができない。したがって食事を運んでくることは不可能なはずだ。なのにこうして俺の記憶として残っているのはなぜなのか。
わからない。
考えを中断して振り返ると、黒い人型は片手にパン、片手に飲み物を持って立っていた。
続けてヨウタを見る。いつも明るいはずのヨウタが涙を流していた。黒縁眼鏡を外し、涙を腕で拭っている。
泣いている理由は一切わからない。俺に関係のあることだろうか。
それともセナに関係があるのか。
いや、と俺は首を振る。
セナは俺以外に見えないし声も聞こえない。存在は俺にしか感知できないのだ。セナに関係あるという可能性はない。
ならば俺か?
または他に大きな事件があったのかもしれない。
この世界に来てから一年と少しが経ったころ、俺は集会所を後にして、旅に出ている。目的は元の世界に戻ることができる力のある『渡り石』を手に入れるためだ。
噂では魔王が所持しているという『渡り石』だが、俺は正直話半分に聞いているつもりだ。そんな都合のいい石を魔王が所持しているなんて出来すぎた話である。
転移者に魔王を討伐させるために作られた嘘、それが俺の推測だ。だから俺は半分疑っている。
半分疑っているということは、半分信じているということでもある。そして、『渡り石』のある確率が半分の五十パーセントなら、十分に命を賭ける価値がある、と判断している。
だから、俺は旅に出た。
ただ、不思議なのは一年以上もいたソハグの町での記憶が曖昧なことだ。
確実に地理や魔物、魔道具について勉強したし、知識としてもしっかり頭に残っている。にもかかわらず、セナやヨウタとどんな話をしたのか、どこへ出かけたのか、何をしたのか、一切記憶がない。ヨウタの仕事に同行したような記憶が朧気ながらあったり、人のいない空き家でセナと語り合ったりしたような思い出があるような気がしたりしているのだが、ぼんやりとしたまま思い出せない。
この夢の中みたいに、一年間の記憶に靄がかかっているのだ。
ヨウタは眼鏡をかけるとゆっくりと右の方を指差した。町の外へ出て、大陸の中心へ向かう方向だったはずだ。
俺は集会所を後にした。
背後を確認すると、黒い人型は姿を消していた。
俺がこの世界のことを学んでいる一年の間に何かあったのだろうということは推測できる。
しかし何があったのか。ヨウタに聞けばわかるのかもしれないが、本来の俺はムシラ王国にいる。今からエイジフット王国の果てにいるヨウタに尋ねるのは非常に難しい。
次の瞬間には馬車に揺られていた。馬車の中には俺を含めて全員新人と思われる冒険者たちが同乗している。どこかで見たことがあるようなないような顔ぶれだ。
そうだ。
このとき、エイジフット王国ではほとんど見かけないはずのキマイラウルフに襲われたんだった。
あの化け物から何とか逃げ切って、他の冒険者たちとよく話すようになったと記憶している。この頃以降は記憶が曖昧であるとか、混濁しているとかはない。ほとんどの事象をはっきりと思い出せる。
そういえば俺の記憶がおかしいと気付いたのが、この馬車で旅をしている最中だった。
転移者である俺の過去を聞きたがった冒険者たちに非難されるまで、俺は俺の記憶に疑問など持っていなかった。セナがいないなんてとても大きい事件のはずなのに、だ。
俺は新人冒険者たちや御者に、嬉々として自分の過去話をしている。全員の表情が曇っているのに話し続けていた。自分の口でありながら、止めることができない。辛うじて首を動かすことはできたため、辺りを見回してみたが、セナどころか、黒い人型すら見つけることができなかった。
みんなの眉間に皺が寄っていく中、俺はひたすら何かをしゃべり続けている。自分でも何を喋っているのか聞き取れなくなっていった。
壊れたラジオのような自分の声を聞き流していると、またもや唐突に場面が変化した。
レストランの装飾が目に入る。BGMこそ流れていないが、まるで日本にいるかのような内装が施された店内。ディムヤットの町で最初に入った洋食屋だ。
店員が明るい声で応対してくれる。
「いらっしゃいませー。冒険者の方ですか?」
まだ冒険慣れしていなかった俺はぎこちなく答える。
「い、一応、そうです」
「いいですねー。私もこの世界で旅をしてみたくて、ここで働きながらお金貯めてるんですー」
魔物がいるこの世界で旅をするためにお金を貯める。珍しいと思うが、出てくる言葉はシンプルだった。
「そ、そ、そうなんですね」
「それよりハクヤ! いつまでそこにいるの、早く戻ってきてよ!」
急に口調が変わり、驚いて店員の顔を見る。明るい金色でパーマのかかった髪が揺れている。顔は俺のよく知っている顔だ。メリハリのある身体も、声も、笑顔もよく知っている。
そりゃそうだ。
初めての出会いはこの洋食屋だったのだから。
「ヒカリ」
自然と名前を呼んでいた。
「いいからそろそろ起きて! 旅を続けようよ」
俺は目を覚ました。
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