30.もうどこへも行かないで、この辺にいることにするよ
左手首から先が地面に落ちている。
自分で斬った自分の手だ。
痛い。
叫びたくなるほど痛い。
こんな痛みは今まで味わったことがないというくらいの激痛だ。痛みだけではなく、痺れているような感覚と、血液を失っていっているせいか、頭痛もしている。声も痛みも必死にこらえているのに涙だけはとめどなく溢れてくる。いくら作戦のためとはいえ、まさか自分の手を自分で切り落とす日が来るとは思ってもみなかった。
だがさすがは魔晶石入りの短剣。人を切ったことのない俺でも思ったよりは比較的簡単に手首を切断することができた。日本にいたときに自分の手を切り落とすなんてこと、怖くてできるわけがない。この世界の雰囲気と、身体強化された肉体と、魔晶石が嵌め込まれた短剣の力だ。
手首から先のない左手に防水袋を被せ、紐で止血を兼ねてきつく縛る。右手だけだと口も使わなければならず、難しい作業だが、涙を流しながらとにかく急いだ。
「ねえ、お兄さーーん」
外からアローロの声がする。
聞いている暇などない。むしろ敵として考えるならば無言で襲ってくればよかったのに。もしかしたら俺が準備するより早く、俺を始末できたかもしれない。ところがお前は最後通告なのかわからないが、話しかけてしまった。残念ながらお前は俺を取り逃がす。
落ちた左手を袋に入れた。
「無駄だってわかっているのにまた蔓なんかで囲んじゃったんだね。もう逃げられないよーー」
わかってる。もうどこへも行かないで、この辺にいることにするよ。
「僕にも時間がないからさ、これで終わりにするね。さよーーならーー」
響き渡る斬撃とともに、蔓が倒れてまたもやアローロと俺の目が合う。同時に自分のやや後ろで三つ目の魔道具を発動させた。手持ちにある最後のアイテム、閃光弾だ。
背後に猛烈な光が発生する。軽く目を閉じていても視界が真っ白に染まるほどの光だ。目を開くと目の前にいたアローロが手で顔を覆っている。そしてその姿勢のまま高速で周囲を飛び回り始めた。
そうだろう。わかるぜその気持ち。
視界を奪われたら次は大砲での攻撃を警戒するよな。
俺は大砲を構える。球には紐で袋を括りつけてある。
すばやく動けば大砲で狙いを絞れないって思うよな。
大砲を湖の上方へ向ける。アローロが動いている範囲とは全く違う方向だ。
その通り、正解だ。お前のスピードで動き回られたら狙いなんてつけられない。
だから滅茶苦茶に動くのが正解だよな。
大砲を放つ。大きな音がして、球は湖の対岸へ飛んで行った。
俺は細長い筒を地面から拾い上げて、左手のズキズキとした痛みを我慢しつつ真っ直ぐに湖へと向かう。音を極力立てないように注意しながら、だが、できる限り急いで湖の中へ進んでいく。蓮の葉のような水草が大量に浮いている地点の中央辺りに場所を定めると、筒を口に咥えて水中に潜った。俺の身体はすべて水中に隠れたが、筒のおかげで呼吸はできる。防水の袋を紐できつく縛ったため、傷口に水が侵入してくることもなかった。
「逃がさないよ!」
水中でもアローロの叫び声が聞こえた。水中からでもうっすらとやつの人影が見える。
アローロは『大砲の球を追いかけて』湖の対岸へ飛んで行った。高速飛行を使っているのだろう、水面がアローロの風圧を受けて波立った。
そうだよな。目が見えていなくても鼻が利くもんな。ならば『俺の左手が入った袋』を縛りつけた大砲の球に俺の匂いはたっぷりと入ってる。どうにかして球に掴まって逃げたと考えるのが自然だろう。しかもやつは転移者の匂いを嗅ぎ分けることに自信を持っていた。匂いを優先して追うという予想をするのは難しくない。
その甲斐あってあの恐ろしい魔王の幹部様は俺ではなく、俺の手を追ってくれた。これで魔気を使い切って帰ってくれると信じたい。
万が一、もしこちらに戻ってきたら俺の負けだ。
道具をすべて使い、知恵もすべて絞り出し、左手まで失って逃げ切れないようならさすがにどうしようもない。
これが俺の策。
策と呼ぶにはお粗末な推測に推測を重ねたものではあったが、とにかく引っかかってくれたことに対しては素直に喜んでいいはずだ。
あとはこの水中でもう少し待機していればいいだろう。多めに見積もって、アローロが球の行方を追うのに一分、見つけるのに一分、諦めて帰るのに一分としたら、三分程度ここでじっとしていれば終わりだ。それまでは静かに待つことにしよう。
「お兄さん! 聞こえてるーー?」
唐突に静かな時間の終わりを迎えることになった。
アローロが戻ってきたのだ。球を追いかけてからまだ二分すら経っていない。
気づかれたのか。いや、追っていって左手だけだったらこの辺にいると判断するのは自然なことだ。問題はやつが魔気をまだ使い切っておらず、周辺をしらみつぶしに捜索された場合だ。
隈なく探されたら、俺はあっという間に見つかってしまう。
そうか。
戻ってきたならば仕方ない。
俺の負けだ。
この左手の負傷で水中にいつまでもいられるわけでもない。
さっさと出て行って、さっさと殺された方がいいのかもしれない。
そんなことを考えていた。
「お兄さんはきっとこの辺にいると思うから言うねーー。
今回は僕の負けを認めるよーー」
意外なアローロの発言。彼は言葉を続ける。
「お兄さんは逃げ切った。
自分の手を切って、僕の目を眩ませて、手の匂いを追跡させて、色々がんばったんだねーー。僕もここまでお兄さんに振り回されるとは思わなかったよ。だから今回は諦めて帰るね。
でもお兄さんは気づいてたんだよね、僕の魔気がほとんど残ってないことに。正直に言うとね、手を追いかけている最中で魔気を使い切っちゃったんだ。お兄さんになら魔気なしでも勝てると思うんだけど、あの弓矢を使う禿げた人が意識を取り戻したらと思うと怖いんだよーー。だってあの人の矢を避けそこなったら大ケガするような急所を狙ってくるし。魔気なしで戦うのは無理かなーー。
ということで僕は帰ることにしたから。嘘は付かないから安心してね。それじゃ、またねーー」
水中でも聞こえるくらいひと際大きな羽の音が聞こえる。その音は徐々に遠くなり、やがて聞こえなくなった。
これは、安心していいのか?
実はアローロの作戦で、帰ったふりをしているだけではないのか?
もうしばらく隠れていた方がいいのかもしれないが、身体の方が限界だった。冷たい水、荒くなる呼吸、一向に引かない痛み。このまま水中にいたら溺れて死んでしまうかもしれない。
俺は意を決して水中から出ることにした。呼吸に利用していた筒を捨ててゆっくりと水面から顔を出す。周囲を伺ってみるが、アローロの姿は見えない。本当に帰ったのか半信半疑ではあるものの、向こうがこちらを騙すつもりならもう俺の姿は発見されているだろう。
湖岸へ歩き、陸地へとあがって深呼吸する。
再び周囲を見渡すが、特に魔物の気配はない。
どうやら諦めてくれたのは本当らしい。切り落とされた蔓の辺りまでのろのろと歩みを進めるが、どこかに隠れているだとか、遠くから戻ってくるだとかもないようだ。
よかった、俺は生き延びた。
魔王に仕える三幹部、そのひとりから俺は逃げ切ったんだ。安堵のため息が自然と漏れた。
そういえばヒカリとガンボラさんはどうしただろうか。気を失っているだけのはずだが、万が一何かがあったら大変だ。ふたりのところに戻るとしよう。
ずぶ濡れの身体を引き摺るようにして歩く。アローロから夢中で逃げてきたたった数百メートルが、今は果てしなく遠く感じる。
左手の痛みも変わらず続いている。出血のためか意識がところどころ途切れるような感覚があり、右手で顔を叩いて自らを鼓舞した。
一歩一歩がどんどん重くなってくる。
まずい、限界だ。
足が踏み出せず道にそのまま倒れこむ。
早く、二人のところへ行かないと。
あ、やばい、意識が遠くなる……。
俺は動けないまま意識を手放した。
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