29.ひとつしか手は残されていなかった
「もう、痛いってーー」
背後でアローロの叫ぶ声が聞こえた。無我夢中で逃げてきたが、十秒程度ではせいぜい百メートルちょっとの距離しか離れられていない。
俺は走りながら振り返って様子を伺った。煙幕は依然煙をもうもうと上げている。その煙の背後へ向かって横に移動したガンボラさんが矢を打ち込んでいた。俺からはアローロの姿は見えないが、アローロの声の様子、未だにこちらへ向けて飛び立っていない様子から、ガンボラさんの足止めは成功していると考えられた。
ヒカリはガンボラさんの近くで矢を供給している。矢はヒカリのマジックバッグに大量にストックしていたので、使い切るということはないだろう。
前に向き直って走り続ける。湖との距離が近づいてきた。
思ったよりキレイではなさそうな湖で、多くの水草が浮いている。逃げるために煙を挟んでやつから反対へ目指して走ってきたものの、湖へ行くことは得策ではない。俺自身の逃げ道が限定されてしまうからだ。水際まで追い詰められたら左右しか逃げられない。
仮に水中へ潜ったらどうだろう。あいつは追って来るだろうか。
しかしすぐに意味のないことだと理解した。アローロが水に潜れるなら水中に逃げても無駄だし、潜れなくても上空で待機していればいいだけの話だからだ。どうせ息が続かなくなったら俺は浮上するしかないからだ。忍者みたいに筒を使って水中で呼吸する手段もあるが、敵に見つからなければという前提が付きまとう。特に今回の場合、アローロの視覚だけでなく嗅覚も欺かなければならない。
待てよ。
この方法なら!
俺の脳裏に突如閃くものがあった。
この方法なら逃げ切れるかもしれない。覚悟は必要だが魔王の幹部を出し抜くためだ。やってみるしかない。
というより、他に方法が思いつかなかった。いくらガンボラさんが足止めしてくれているとはいえ、二分も三分も引き付けておけるはずがない。多めに見積もっても三十秒くらいだろう。俺は走りながら準備を始めた。
数えていないが二十秒を過ぎたくらいだろうか。
湖のそばにある小屋にたどり着いた俺は外を覗いていた。
黒い影が煙幕から飛び出し、ガンボラさんとヒカリを通過したかと思うと、二人は同時に倒れ込んだ。遠目なのではっきりしたことはわからないが、出血した様子はなかった。
アローロの武器は鋭い爪。殺害するつもりであれば、出血を伴うはずだ。ガンボラさんとヒカリは違った。ただ単にすれ違いざまに気絶させられた、という感じだった。
アローロは転移者以外を殺さない。俺の読んだ本にも書かれていたし、アローロ自身もターゲットは転移者のみと発言していた。だから、二人とも死ぬことはないだろうと思っていたが、どうやら真実のようである。正確にいうとヒカリは転移者なんだけどな。
ともかくアローロは転移者以外の命を奪わないというのは間違いなさそうだ。俺は安堵の吐息を漏らした。
それにしてもヒカリはともかく、熟練の兵士であるガンボラさんを一瞬で戦闘不能にする実力は恐ろしい。あの影は次に俺を狙ってくる。しかも俺の命を、だ。
俺は準備を急いだ。目の前には香水、細長い筒、魔晶石の埋め込まれた短剣、紐と小さな防水袋がいくつか、魔道具が三種類。
まずは自分に香水を振りかける。
匂いを誤魔化すためだ。もちろんこんなことは気休めにしかならないことくらい理解している。俺が煙を使ってアローロの視界に入らないよう逃げたことは、やつもわかっているだろう。となると、アローロの立場からすれば湖方面に逃げたのは必然である。匂いを辿れなくてもこのあたり一帯を隈なく探し回るのは間違いない。
だがそれで構わない。
俺の目的はあくまでもやつの魔気を使い切らせ、俺への追跡を諦めさせることだ。俺を探すために飛び回って魔気を消費させられるなら問題はない。
何かが崩れる大きな音で俺の思考は中断された。
外を覗くとアローロが隣の小屋を斬り飛ばしていた。予想以上に早いし、速い。あの距離をこんなすぐに詰めてくるとは。そして何よりあの爪の破壊力。いくら小さな小屋とはいえ、あっという間に上半分が吹っ飛んでいる。剣ごと胴体を切り裂くという話は真実みたいだ。
「早く出てきなよーー。今なら苦しまないようすぐに死なせてあげるよーー」
俺に向けての言葉だろうが、死ぬわけにはいかない。
むしろ俺は別の意味として読み取ったぜ。お前は「すぐに」と言った。それは俺が苦しまないためじゃないだろう。自分の魔気が尽きそうだから早く決着をつけて帰りたい、ってのが本音のはずだ。魔気の回復を諦め、攻撃すると決めたということに違いない。
あと少しだ! 逃げ切ってやる。
俺が覚悟を決めた瞬間、自分のいた小屋の壁から一筋の光が差し込んできた。それが小屋の壁を斬られた隙間からの光だと気付くのに少し時間が必要だった。
直後、屋根だった木片がバラバラになって降り注いでくる。凄まじい速度で切り刻まれたのだ。
「見つけたーー」
身体より大きな羽を羽ばたかせながら、アローロが俺を見下ろしている。殺意って伝わるもんなんだなと思いながら、俺は魔道具のひとつの蓋を開け、中身の粒を周囲に振り蒔いた。
無数の粒子が地面に付くと、周囲から巨大な植物の蔓が一気に上空へ向かって伸びていく。まるでジャックと豆の木のような極太の蔓で俺の周囲が満たされた。巨大な円錐のような防御壁が出来上がっている。
ペットボトルのような形状をしているひとつめの魔道具。
巨大な植物を生成する魔法を封じ込めたものだ。周囲を覆ってしまえば強固な壁としての役割を果たす。さっきの小屋よりは何倍も丈夫な蔓だ。無論アローロ相手には時間稼ぎにしかならないだろうが、時間稼ぎで十分だ。
さあ、破ってみろ。どれくらい時間がかかるかな。
しかし、俺の予想は外れた。羽ばたきが俺の周りを一周した音が聞こえたと思った次の瞬間には、円錐型の蔓が目線の高さで斬られ倒れていく。時間などほんの数秒しか稼げなかった。再び俺とアローロの目が合う。
すぐさま同じ魔道具で蔓を再構築する。
今度は蔓が伸びている最中に斬られてしまった。
だが今回は俺の予想通り。今回は背後に地面を這うような角度でもう一本蔓を出しておいた。俺はそれに掴まってアローロから大きく距離を取る。水際までたどり着くと、二本目の筒状の魔道具を取り出す。
二本目の魔道具。
こいつは言ってしまえば大砲だ。二発しかないものの、バスケットボール大のサイズの鉄球を超高速、高威力で撃ち込むことができる。飛距離は約一キロ。遠くから撃っても躱されてしまう可能性が高いため距離は置いておくとして、至近距離でまともに当たればいくら魔王の幹部が相手でも無事では済まないだろう。
敵は俺をなかなか仕留められなくてそろそろ焦りだすはずだ。直線的にこっちへ向かってくるに違いない。ある程度引き付けてから撃てば躱しきれないと予想する。
アローロは俺を見つけると真っ直ぐに飛んできた。もう笑顔ではないところを見ると、焦っているのは正解のようだ。ここも予想通り。
思ったより飛行速度が速い。でも慌ててはいけない。俺は狙いを定めて引き付ける。
今だ!
迫りくるアローロに向かって球を放つ。金属バット程度の太さしかない筒から、なぜかバスケットボールほどの直径を持つ球が発射された。さすがは魔道具。
だが、撃った反動は大きく、抱えていた左手が吹き飛びそうな衝撃を受ける。それでも視線だけは逸らさず、球の行方を凝視する。
完璧な弾道だ。これは躱しきれない、当たる!
そう確信したが、アローロは躱すことはなかった。姿勢をそのままに自慢の爪を振るう。あの頑丈な球がまるでチーズのようにキレイに切り裂かれた。破片のひとつがアローロの肩を抉ったが、それだけだった。方向転換をし、再び上空でストップして俺を見下ろす。
「今のはびっくりしたよーー。そんなものまで持ってるなんて。魔道具っていうんだっけ? すごい武器だね。でもさ」
肩の傷がだんだんと治っていく。あの距離であの程度しかダメージを与えられないのか。しかもあいつはこの魔道具が大砲であると学習してしまった。
「次は当たらないよ。それにーー」
これで足止めできなかったのはまずい。
正直かなりまずい。
仕留められるとはさすがに思っていなかったが、理想はここで重傷を負わせることだった。自動再生に魔気を使い切って、撤退に追い込む。せめてガンボラさんのように羽を傷つけて飛行能力を奪うくらいはできると思っていた。
それがあんなかすり傷程度しか負わせられないのは痛恨の極みというやつだ。
俺が持っているラスト三本目の魔道具はいわゆる「閃光弾」だ。強烈な光で相手の目を眩ませる。その隙に逃げることができればいいのだが。
「お兄さん、左手血が出てるよ。僕の嫌いな匂いがしてきたなーー」
アローロは決定打だと確信したのか、最初のころの笑顔に戻っていた。俺は左手を見る。夢中で気付かなかったが、べっとりと血がついている。
誤算だった。大砲を撃ったときの衝撃で左手のひらを擦りむいていたようだ。何より問題なのは、たとえ閃光弾でやつの視界を奪ったとしても、匂いで追跡されてしまうこと。それではそもそも閃光弾を使う意味がない。
もう、ひとつしか手は残されていなかった。文字通りの意味だな、と自虐気味に笑ってからすぐ行動を起こす。
蔓を背後に伸ばし、伸びる蔓に掴まって再びアローロと距離を取る。最初とは違い、即座にアローロが反応して追ってきた。俺に向けて爪を突き立てようとしたところで俺は方向転換。アローロの爪は空振りに終わる。
「蔓の途中から新しい蔓を伸ばして方向を変える。よくそんな発想が出てくるねーー。僕本気で感心しちゃってるよ」
距離を取った俺は再び蔓で円錐状の壁を作った。中に残っていた粉をすべて使い切ったおかげか、さっき作ったものよりかなり分厚い壁になった。もちろん分厚くしたのは防御のためではない。あの爪はどんなに厚みを持たせようが容易く切り裂いてしまう。
目的は外から俺の姿が見えないようにするためだ。
急がなくては。
革袋から香水の瓶を出して叩き割る。
紐と防水袋をありったけ、それに短剣、さらに残っている二つの魔道具を取り出す。
手早くひと通りの準備を終わらせる。
そして最後に。
俺は短剣を右手で持ち。
自分の左手を切り落とした。
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