28.それでも動かなきゃいけないのはわかっている
ガンボラさんは少しだけ汗をかいていた。だがいくら汗をかいたとしても問題はない。彼はエル・ファテハの民なのだから。
ヒカリはその性格か体質によるものかわからないが、あの状況でも汗をかかなかった。最近ヒカリの凄さをよく目にする気がする。
俺が、俺だけが大量の汗をかき、香水の匂いをかき消してしまった。
あの化け物、アローロに俺が転移者だということがバレてしまった。
「あってるでしょーー。僕は君たちの顔を覚えるのは苦手だけど、匂いと戦いには結構自信があるんだよねーー」
自信がある割にはヒカリを転移者と見抜けてないけどな。
などと考えているが、決して余裕ぶっているわけではない。動揺して思考がまともにできなくなっているのだ。
アローロは両手を広げる。すべての指先から計八本、日本刀のように長く鋭く美しい弧を描いた爪が飛び出した。夕日を浴びてオレンジ色に輝いている。
転移者殺しのアローロの武器は爪。
それだけである。
三幹部だからといって、特殊な能力を使うわけでも強大な魔法を放つわけでもない。爪に毒が仕込まれているわけでもない。通常の剣であればそのまま叩き割ってしまうほど硬質化された爪。
それがアローロの武器である。剣より硬い爪で、敵の攻撃を潰し、掻い潜りながら接近して斬りつける。爪の威力は絶大で、斬られれば一瞬にして決着がつく。それだけがアローロのすべてだ。
その爪はエル・ファテハの住人の命を奪うことはなく、気絶させたり一時的に行動不能に陥らせたりする程度。
標的は転移者のみである。
と、俺の読んだ資料には書かれていた。
それだけといっても普通の剣より頑丈な爪にアローロの飛行能力が加われば、文字通り次元の違う強さを発揮する。
素早い飛翔で三次元的に飛び回られたら大抵は困惑するだろう。魔法や弓を使用しても一度躱されて近づかれたら終わりだし、剣や斧での近距離攻撃では刃を折られてしまう。そもそも射程距離の短い攻撃は当たらない可能性が高い。
単純だ。
しかし単純なだけに攻略が難しい相手でもある。スピードが速く、攻撃力が高いだけなのだが、それだけに弱点が見当たらない。アローロは速攻型でもあるため、時間をかけて癖や習性を見つけ出すことも容易ではないだろう。
「そうそう、今さっき戦った四人組のひとりが僕を見ていきなり汚い水を飛ばしてきてさーー。僕の爪で払ったんだけど、この爪がドローーって溶けちゃったんだよ。びっくりしたよ、初めて僕の爪にダメージを入れたのがただの液体だなんてね」
アローロは自分の爪を見ながら話している。さっきヒカリが話していたサングラスの男の能力だろう。頑丈な爪までも溶かすなんて相当危険な能力だ。しかしアローロの爪は八本とも完璧な形をしており、溶けた痕跡など見当たらなかった。
「ああ、心配しないで、見ての通りさ。僕の魔法は『高速飛行』と『自動再生』だから。どっちも攻撃には役に立たないけど、自動再生の魔法でケガはすぐに治っちゃうんだーー。爪の一本や二本くらいなら十秒もあれば元通りだよ。
そのあとは糸を使ってくる人が面倒だったくらいかな。汚い水を出してきたやつはすぐに突き殺したし、女の子のミリョウ? って能力はわからないけど、僕には効かなかったみたいだし、素手で挑んできた人は糸で動きの鈍っていた僕に触れることすらできなかったもんねーー」
のんびりと話し続けるアローロ。
動くことのできない俺。
今すぐに逃げなきゃいけないのはわかっているのに、身体が動くことを拒否する。動いた瞬間、それを遥かに上回るスピードで俺の命が刈り取られる気がしていた。
逃げるための魔道具のほとんどはヒカリに預けている。無論服にも仕込みをしているが、魔王の幹部に通用するビジョンが見えない。
それでも動かなきゃいけないのはわかっている。逃げなくてもお喋りに飽きたら殺される。アローロにとって転移者である俺は始末する対象だからだ。最終的にはいつもと同じ、逃げ一択のはずだ。
なのに動けない。強者の圧力なのか、単純に俺が恐怖しているからなのかはわからないが、身体が石化したかのようだった。
どうせ動けないんでしょ、わかってるよーー。とでも言いたげな顔つきで、転移者殺しは自分語りを続けている。
「糸を使ってくる人は結構強かったよーー。斬っても斬っても糸を絡めてくるし、何百って糸を一斉にぶわーって出してきたときは焦ったね。まだ自分に絡まった糸を斬り終えてなかったし、飛んで上空に回避することもできなかったからさーー。だいぶ魔力も減っていたしあんまり時間ないなーー、どうしようかなーーって考えてた。
そこで僕閃いちゃったんだよ!
逆に糸を斬らなければいいって。この糸は僕と敵を繋いでいるわけだから、これを引っ張れば向こうからこっちに来てくれるなーーって。
どうかなどうかな? 僕もたまには冴えてるんだよ。それでぐいーーって引っ張って、近づいてきたところをズバーーって斬ったんだ!」
最早一刻の猶予もない。早く逃げなければ。
気持ちではそう思うのに、身体が動いてくれない。こいつから目を離したら殺されるというイメージが頭にこびりついて離れない。今までのピンチだって逃げ切ってきたのに。あのバティカロアからだって逃げ切ってきたのに。
動け。
ヒカリやガンボラさんは恐らく狙われない。俺だけが逃げればいい。大丈夫なはずだ。
どこへ? 辺りは草原ばかりで遮蔽物もないのに。近くに湖と小屋はあるが隠れてやり過ごせるところなどあるはずもない。
どうやって? 逃走用の道具はほとんどヒカリに預けていて、手持ちはほとんどないのに。せめてマジックバッグに保管している魔道具が一式あればまだ可能性はあったかもしれない。
いい案が思い浮かばない。こういうときはそれでも逃げるべきなのに、恐怖に竦んだ俺の身体は一切いうことをきいてくれなかった。
「さてと」
アローロは大きく伸びをした。
「色々話したけど、そろそろいいかなーー。お兄さんを合わせて五人。五人も転移者を殺せれば十分すぎるくらいだよ。わざわざこっちの方まで飛んできた甲斐があったってもんだよね」
背中の大きな羽がゆっくりと開きだす。
俺はそれを呆然と見ていた。頭の中で「ああ、俺は今から殺されるんだな、俺がビビッて汗をかいただけでこうなるんだな」などと考える。やはり俺の身体は動いてくれなかった。
そのとき、俺の耳のそばを何かが通過した。同時に目の前にいたアローロの羽に、一ヶ所穴が開く。それが矢によるものだと気付くのに少しだけ時間がかかった。
「ハクヤあ! しっかりしろ、さっさと逃げやがれ!」
振り向くとガンボラさんが二本目の矢を放っていた。矢はまたもや俺の横をすり抜けて、アローロに命中する。両方の羽にひとつずつ穴が開いていた。
「身体を狙っても躱されちまう! 早く逃げろ!」
「ハクヤ! 受け取って!」
俺の肩に大きな革袋がぶつかる。俺はそれをキャッチする。俺が買った魔道具がいくつか入っている袋だった。視線の先にはヒカリがいる。
咄嗟の判断でガンボラさんが隙を作り、ヒカリが準備をしてくれたようだ。二人の声が重なって俺に届く。
「逃げろ!」
瞬間、俺の身体は驚くほど軽やかに動いた。
まずはベルトに隠されていた煙幕を目の前に叩きつける。大量の煙が俺とアローロの間に立ち塞がるのを確認すると、俺は全力で逃げ出した。
走りながら状況を整理する。ガンボラさんの矢でアローロは羽を負傷したが、やつは自動再生の魔法を使える。十秒程度しか時間稼ぎはできない。
また、煙幕も有効とは言えない。汗や血の匂いで転移者を判別するというのなら、草むらに身を潜めても無駄な可能性は高い。
さらに見渡す限りの草原。湖と小屋があるものの、それ以外に特徴的な場所はない。
逃げたところでどうにもならなくね?
一瞬よぎった考えをすぐに振り捨てる。諦めてはいけない。せっかく二人が作ってくれたチャンスだ。何が何でも逃げ切ってみせる。
きっと何かある。考えろ。あんな草原で寝っ転がっていたガキに殺されるなんてゴメンだろ、ハクヤ。
あれ? そういえば何であいつは草原で寝ていたんだ?
普通に考えれば転移者を殺したらその場で寝る意味などない。確か五人も殺せば十分「すぎる」って言っていた。四人の転移者を始末した時点で帰っても良かったはずだ。
じゃあなぜあいつは帰らずに寝ていたのか。
違う!
帰らなかったんじゃなくて、「帰れなかった」んだ!
魔王討伐パーティーとの戦いは余裕みたいな雰囲気を出していたが、恐らくは相当苦戦したのだと考えられる。そしてさっきの転移者との戦いでほとんどすべての魔気を使い切ってしまったのだとしたら。
アローロ自身が自動再生と高速飛行の魔法しか使えないと言っていた。思いの外飛び回ったり負傷したりしていたら、いくら転移者の倍以上魔気を溜め込んでいても消耗するのは間違いない。
魔気を回復するために休憩していたのであれば説明がつく。
そして俺たちと会話をしたがっていたことも。
四人の冒険者とはほとんど会話をせずに戦闘へ突入したようだった。なのに俺たちとの会話を望んだ理由は十中八九「時間稼ぎ」だ。魔気を少しでも回復するためだったんだろう。
アローロにしてみれば転移者以外の命を奪うつもりはないのだから、近くを通った人間に話しかけてみる。匂いを嗅いでエル・ファテハ人ならそのまま通し、転移者なら殺す。ただし、転移者は強い可能性があるから、会話で時間を稼ぎ少しでも魔気を体内に取り込む必要がある。
こんなところか。
無論、アローロが嘘をついている線もある。だが、やつの口ぶりから正直に話しているように感じたし、今はアローロの言ったことを前提に仮説を組み立てる以外の手はない。
となれば、あいつの魔気がなくなればそれ以上追ってこなくなる確率は高い。すでに四人の転移者を始末している以上、魔気を使い切ってまで俺に構うリスクはないはずだ。
つまり、アローロに魔気を使い切らせればいい。
魔気を使い切らせる。言葉でいうほど簡単なことではないかもしれない。だがアローロの魔気はまだまだ少ないはずだ。高速飛行と自動再生のいずれか、あるいは両方を使えば、アローロは魔気を消費していくのだから方法はきっとある。
先程まで何も考えられなかった、全く動けなかったことが嘘のように、俺の頭脳と身体は高速で回転し始めた。
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TIPS
魔王の側近クラスの魔物は、転移者の約二倍から三倍程度の魔気を溜め込むことができます。側近も転移者もエル・ファテハの民も魔気の量にかかわらず溜めるまでに必要な時間は同じくらいで、八時間程度となっています。
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