十二 尾行

 聴取を終え、法廷から正殿に戻る廊下を歩いていた紫水は、大広間のすみっこに暗雲垂れ込める一角を見つけ、足を止めた。 

 あれ、絶対、えっつーだ…。

 姿は見えなくとも、気配で分かる。

 最近の彼の落ち込み具合ったら、それはもういちじるしく、周囲の『どうにかしてやれよ』という無言の圧が、ひたひたと紫水に迫っていた。

 ここのところすれ違いが多く、なかなか話せずにいたが、紫水も本当はずっと気になっていた。

 この機を逃したら、後がない―。荷物片手に法廷用の外套から腕を抜きつつ小走りで廊下を行くと、気付いた廷吏がサッと近づいて、両手を伸ばした。


「陸評事、お預りします」

「お、ありがとう」


 外套と冠を預け、使い終えた資料を奥の書庫に返却する。自分用の帳面メモを懐にしまって、廊下からぐるっと広間に回り込み、彼の横に出る。


「えっつー」

「あ、お疲れ様。聴取終わったんだ」


 手書きのようなぎこちない笑顔で振り返った夏逸に、紫水は苦笑した。こんな時でも愛想笑いの習慣はブレないらしい。目はほぼ死んでるのに。


「うん。調書書こうと」


 隣に座り、帳面を取り出す。大理寺は基本、座席自由。各々が空いてる席を選んで座る。そこに年次は関係ない。『風通しの良さは効率の良さに比例する』という、鬼神の信条ポリシーが生んだ文化だ。


「どうだった?」

「今日は変わったものは無かったよ」

「そっか」


 それ以上、夏逸も紫水も、どちらも口を開かなかった。

 肩を並べ、黙々と筆をはこぶ。

 次に紫水が筆を置いた時には、周りは空席が目立ち始めていた。チラッと隣を窺うと、「終わり?」と夏逸が首を回して聞いた。


「もうすぐ。えっつーは?」

「オレも終わりそう」

「んじゃ、ちょっと気晴らしに行かない?」

「ん。あと5分ね」


 やつれた笑顔で頷くと、夏逸はまた手元に視線を落とした。


 片付けを済ませ、退庁したふたりは西市に向かった。

 都城の中心線、朱雀大路から見て、東は貴人官僚、西は庶民の生活の場と、おおよその区別があった。

 東側の『左街』に対し、西側は『右街』と呼ばれ、商業の中心として栄えていた。都城の西門、開遠門から運びこまれた交易品は、まずは官営市場である西市に入り、売買される。『西市で買えない物は無い』といわれ、ありとあらゆる品目が揃うお買い物好きの聖地は広く国内外にその名を轟かせていた。 

 一歩足を踏み入れれば、見る者の目を奪う、海を越えた貴重な品や、砂漠を渡り遥か西域から持ち込まれた珠玉の品の数々…。様々な背景を持つ品物と人が集まるこの市場は、異国の色彩に満ちあふれ、訪れる者を圧倒的な熱量で包み込んでいた。


「今日も人が多いなぁ。で、何食べようかね。えっつーはお腹の具合どぉ?」


 連なる駱駝らくだが闊歩し、口から火を吹く胡芸人に歓声を上げる人々。いつ来ても、西市は活気に溢れている。


「そこそこいてる」

「んじゃ、今日はちと奮発するかねぇ」


 落ち込む友人には、とびきり美味しいものを食べてもらう。それが紫水に出来る、唯一のこと。

 都城の百万の民の胃袋を満たす西市は食の種類も豊富で、珍しい食材も簡単に手に入る。巷では小麦を使った料理が流行っていて、名厨と呼ばれる店がいくつもあった。


「麺屋でいい?気になってる店があって」

「もちろん」


 夏逸は無類の麺好き。「何食べたい?」と聞くと、大抵麺をひさぐ店を選ぶ。財布と相談して、今日はとびっきりの名店を選んでみた。


「羊肉のスープがオススメなんだって」

「じゃ、オレはこれにしよ」


 夏逸が頼んだのは白切羊肉麺。紫水は紅焼羊肉麺。麺にのせる羊肉を汁で煮たか、醤油で味付けして焼いたか、の違いらしい。

 しばらくして、ふたりの前に顔より大きな器が運ばれてきた。立ち上がる湯気に顔をつっこみ、麺をすする。


「あ。おいしいー」

「ほんと。見た目より濃くなくて、いい感じ」


 紫水が選んだ紅焼羊肉麺は甘辛に煮付けた肉がウリ。一口噛むと甘い脂と滋味があふれ出し、お疲れ気味の身体に染みた。


「おいしかったぁ。紫水、いい店見つけたね」

「うん。この前、廷吏に聞いて」


 懐紙で口を拭き、茶で口の中を清める。ひと息ついたところで、紫水は本題に入った。


「で、えっつー…。今日も来なかった?彼女から」


 単刀直入に聞く紫水に、夏逸はコクリと頷いた。


「そっか…」


 前回、湖碧楼で引き合わせた時は、盛り上がったと聞いていた。夏逸いわく、小一時間ほど楽しくお話して、別れ際に手紙を書くと約束したそうだ。真面目な夏逸らしく、次の日には「また会いたい」という内容の手紙を送ったそう。なのに、一週間経っても、返事は返ってこないと。


「嫌われたの、かな…」


 どんよりと雲を背負う夏逸に、下手な言葉はかけられない。


「もう一度、書いてみる?明依に直接渡してもらうように、頼んでみるよ?」

「うん、そうだね…。一回で諦めたら駄目だよね」

「そうだよ、『三顧の礼』とか言うし」


 夏逸は頷くと、「じゃあ」と言って、持っていた巾着の中をゴソゴソ探って、携帯用の筆記箱を取り出した。


「今から書くね」

「あ、うん」


 行動が早い。墨をすり、筆と紙を選ぶ。準備が整うと、早速夏逸が筆を立てた。

 サッ、サッと筆先のこすれる音とともに、綺麗な字が紙の上に次々と浮かび上がる。


「出来た」

「相変わらず綺麗な字だねぇ…」


 瑞々しく、かつ優雅で品格のある夏逸の文字。何度見ても、惚れ惚れしてしまう。


「これ、お願い」

「うん。預かるよ」


 墨が乾くのを待って、ふたりは店を出た。



 ◇


 その週は繁忙期並みに忙しかった。

 夏逸は程寺正に揮毫や奏上文の代筆を頼まれたり、紫水は刑部との会談の代役を押し付けられたりと、本務外の仕事が増え、日が落ちるまで走り回る日々が続いた。

 そんな中でも、紫水は時間を見つけては、ある場所に足繁く通っていた。


 大理寺から東へ進み、含光門街を南に下ってすぐ左手に現れる庁舎、『秘書省』。紫水が配属希望を大理寺とした最も大きな理由が、ここにあった。

 この国では天子と政に関する一切を記録する、という文化がある。文章ごとに機密等級が定められ、天子のみ開封できる天書や、勅許でのみ閲覧できる特秘などいくつもの規範ルールがあった。文章は等級ごとに仕分けされ、秘書省の大書庫に保管されていた。


「今日もですか。精が出ますな」


 書庫の入口で受付票に記入し、『符』という身分証と大理寺職員用の入館証を出すと、顔馴染みの省吏が手際よく受付印を押した。


「『資料はきちんと精査しろ』って、鬼神に躾けられたものでね」

「大理寺さんは大変ですよね。手が抜けなくて…。はい、どうぞ」

「ありがとう」


 鍵を受け取って、階段を上がる。通常、書庫は立ち入り禁止だが、大理寺の職員は長官寺卿の許可があれば、入室可能になる。

 この特権を利用し、紫水はこの一年、あることを密かに調べていた。 

 積み上がった書簡の山から、たった1行のために何十頁に渡って目を通す、地道な作業。

 人っ子一人いない書庫で、紫水は無心でページをめくる。

 欠片をひたすら集めて、おぼろげながら浮かんできた景色を、ひとつひとつ切り絵のように付け合わせていく。

 まだ掴めない、華雲宮の真相。あの日からずっと、紫水は真犯人を追い続けている。

 遠くで暮鼓が鳴るのが聞こえた。

 顔を上げると、窓から差し込んだ夕日が顔を橙色に照らした。


「…あと、すこし」


 呟いた紫水の視線は、遠くの空の、さらにその先を見つめていた。



  ◇


 去年よりも忙しい毎日に、あっという間に十日が過ぎた。

 昼もだいぶ過ぎた頃。大理寺から一番近い、皇城の西門・順義門を出る紫水の姿があった。

 今日は何が何でも、西市で美味しいものを食べようと決意して、すべてを投げ打っての退庁。

 不協和音に揺れる職場は、機能不全の一歩手前まで来ていた。しわ寄せが全て回って来る下っ端は休む暇もなく、ここ最近は泊まり込みの日々が続いていた。もう、完全に劣悪職場だ。

 暮鼓が鳴る前に、大理寺を出るのも久しぶり。夕方前の人で賑わう街中を足取り軽く、紫水は西市へ向った。


「…」


 不意によぎった違和感に、紫水はパタッと歩みを止めた。そのまま顔を動かさずに、周囲の気配に神経を張り巡らせ、様子を窺う。

 少し間をおいてから、紫水はまた、歩きはじめた。

 思い過ごし?

 いいや、そんなはずない。

 顔は前を向いたまま、耳をそばだて、音に集中する。

 自分を取り巻く不要な気配を一つずつ消して、違和感をあぶり出す。

 喧騒が徐々に薄くなり、人も景色も形を無くしていく。

 そこに浮かび上がる、音のない雑踏の中、自分と同じ歩調の足音ひとつ…。

 尾行つけられてる―。

 疑惑が確信に変わると、紫水はワザと歩調をバラして泳ぐように人波に紛れた。人の多い路に入って様子をうかがうと、足音を消した相手の気配が、確実に近くまで迫っていた。

 なんでこんな時に…。メーワクだよ、ほんと。

 しかめっ面のまましばらく歩く。その間も相手は一定の距離を保って、ずっとついてくる。

 何なんだよ。まったく…。イヤになる。

 待つのは苦手。早くスッキリさせたい。紫水は人少ない小路を選ぶと、キュッと角を曲がった。


「何故、私に付きまとう」


 白光する切っ先を相手の喉元に定めて、紫水は睨みつける。


「これはこれは、公主はまこと不躾でいらっしゃる…。こんな街中で剣を抜くなど」


 ふてぶてしく笑う男に、紫水は舌打ちした。


「…司郎中の従者か」


 その顔には見覚えがあった。


「公主は多少、頭が使える方のようですね。安心しました」

「…外では呼び名を改めよ」


 皮肉ダダ漏れの言い草にイラっとしながらも、紫水は剣を鞘に戻した。


「最近、朝から尾行されてると思ったら…。アンタだったの」

「主人から『今日は絶対、屋敷に連れ戻せ』ときつく申しつけられておりまして」


 この男の名は馬佑ばゆうという。成景に仕える家人で、気づけばいつも、傍らに控えている。屋敷勤めとは思えない程、精悍な顔と身体つきをした、油断ならない存在だ。


「やっと日がある時刻に退城できたのに、寄り道もせず邸に戻れと?」


 今日ぐらい好きにさせて。自由がないと死ぬ人間もいるんだ。てゆうか勉強しないとまずいんだよ―。

 口には出さないが、雰囲気で伝わるだろう。無言でジッと睨んでいると、分かったような顔で返された。


「ご都合は拝察しますが、約束を反故ほごして、逃げる貴女様が悪い。諦めてください」

「こちとら毎晩遅いの。職場に近い方が都合いいに決まってるでしょーが」


 紫水は任官と同時に陸家を出た。以来、皇城の正門・朱雀門にほど近い坊にある、学生向けの寮を間借りしていた。


「ものには限度というものがあります。『仏の顔も三度まで』と申しますし」

「誰が仏だ」


 反論しつつも、ここ半月ほどを振り返ると、確かにほぼ芙蓉別邸に帰っていない。だけど、仕事が忙しいだけで、どうして責められなきゃいけないのか。メンヘラ彼女を持った覚えはない。


「自由には義務がつきものですから。さ、参りましょう。主人がお待ちです」

「はいはい、わかりましたよ」


 あぁ、ほんと、やってらんない…。

 紫水は心の中で悪態をつきながら、馬佑が用意した馬車に乗り込んだ。

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