十一 右金吾衛

 朝から身体が重い。

 紫水は筆を止め、窓の外に目を向けた。

 大理寺の中庭は他の省庁と同じく、小さな池を樹木が取り囲む、緑豊かで目の休まる空間。何を見るでもなく、ぼんやりとその景色に視線と心を泳がせる。

 柔らかい春の風が手元をふわり通り抜け、水路を流れる水音がさらさらと耳に心地よい。


「…おかしいの」

 

 あれからもう、半月。

 悪夢は、終わることなく続いていた。

 紫水は約束を違えることなく、別邸に戻った時はあの男の恋人ように振る舞い、素知らぬ顔の密告者にその様を見せつけた。

 それで十分なはずなのに、あの男は三日と空けずに、閨での戯れを仕掛けてくる。 

 ほんと、昨夜も、散々だった―。 

 思い出しただけで、身体の芯がジンと熱をはらむ。

 それもこれも、全部、アイツのせい―。

 なす術もなく、されるがまま。好き勝手に翻弄されて、頭も身体も莫迦になったんじゃないかって思う。

 なのに、朝になればこうして、何事もなかったかのように出仕して、澄ました顔して机に向かう。

 世間は何ひとつ変わることなく、いつも通りに淡々と進んでいく。

 すべてが幻のようで、自分だけが覚めない夢の中なのかと、本気で錯覚しそうになる。

 でも、間違いじゃない。

 胸元に視線を落とすと、衣の下の肌に散らばる、いくつもの紅い花びら。

 昨夜の幻影が重なって、また、身体が震えた。


「―」


 こんなこと、誰にも言えない。

 ほんとはえっつーに聞いて欲しいのに、言えないことが多すぎる。言ったところで、信じてもらえるかも分かんないが。

 なんでこんな、まどろっこしい事ばっかなんだろう。イヤになるわ。

 机に顔を伏せ、木目の冷たさを頬に味わう。すりたての墨の香がボケた頭を落ち着かせる。

 仕方ない。すべては真犯人を見つける為、だから。

 自分に言い聞かせ、紫水は身を起こした。筆を握り直し、また、文机に向かう。

 

「陸評事、そろそろお時間ですが…」

「…あ」


 顔を上げると、気まずそうな表情の廷吏が廊下からこちらを窺っていた。

 すっかり忘れてた。


「ごめんっ!今、行く―」


 慌てて立ち上がり、身繕いも半ばに廊下に出た。


「こちらが本日の案件です」

「ありがとう」


 早足のまま、渡された書簡に目を通していく。一件目は窃盗。盗品を自宅に隠し持っていた所を、タレコミを受けた金吾衛が押さえた。

 罪人は金吾衛に身柄を拘束された後、全員が事情聴取を受ける。そして、弁解の機会が与えられ、答弁を経て、正式に罪状と量刑が決定する。

 都城内の事件の審判は大理寺の管轄。そして調書作成は評事の仕事。紫水も多い日には数件、聴取に立ち合う。

 

「被疑者、ねい泰元たいげん。齢二十六。右街にて飯屋を営み―」


 廷吏が粛々と述べる罪状を聞きながら、白砂利の庭で後ろ手に縛られ座る男に目を向けた。

 顔は青白く、肩が震えているのが庭に下りる階段の上、一段高い床面に置いた文机を前に坐す紫水にもよく見えた。

 ここに座った者の挙動は、いくつかの種類に分かれる。

 ひたすら怯える者。罪を認め、大人しく沙汰を待つ者。減刑を乞う者。逆上し、暴言を吐く者―。

 …珍しいな。

 今、紫水が上座から見下ろす男はそのどれにも当てはまらず、震えながらも目は真っ直ぐに、一点を見つめている。

 

「―寧とやら」


 訴状の読み上げが終わるのを待って、声をかける。


「ここは潔白のみ存在を許される法廷。まごうことなき真実の庭。その胸に思う事あらば、述べてみよ」


 ビクンと大きく背筋が揺れた。男は戸惑いながらもゆっくり顔を上げると、不安に揺れる目で紫水を見つめた。

 

「どうした?」

「…」


 ジッと見上げてくる相手に、紫水は訝しがりながらも念を押す。


「無いならば、審理にまわるが」

「あっ、あのっ…!」

「なんだ」

「お、お役人様」

「ん?」

「ほ、本当に、私でないのですー!」


 

  ◇


 本日のノルマ、三件分の調書を纏め終えたのは、正午を過ぎ。


「失礼いたします―」


 諸々の書簡を載せた盆を抱えて、紫水は程寺正の部屋を訪れた。背中で戸を押し開け中を見渡すと、誰もいない。


「ん〜?」


 今日は他部門との打ち合わせも、来客の予定もなかったはず。だから朝イチで、溜まった書簡の精査を終わらせてくれって、頼んだのだが…。

 机の上は昨日と何一つ、変わっていない。 


 「どうすんだ、これ…」


 着任して一ヶ月。書簡の山は高くなるばかり。

 そろそろ雪崩が起こる。季節じゃないのに。


「…代役、しかないか」


 いろいろ考えを巡らせたのち、紫水は古い日付のものだけ手に取り、盆に乗せた。

 部屋を出て、その足で正殿に向かう。

 騒々しい大広間に入ると、すぐに声がかかった。


「あれ、どしたの陸ちゃん?眉間にすんごいシワ寄ってるけど」


 文机に向かっていた王信が紫水を見つけるなり、ニヤけた顔をした。


「見てわかるでしょーが」

「…今日もご不在?程寺正」

「陶寺正はいずこに?」


 仁王立ちであたりを見回しながら、被せ気味に言う。


「ちょっと、陸ちゃん。先輩に八つ当たりしないでよぉ。奥で夏逸たちと、この前追加になった一文の解釈に花咲かせてる」

「行ってくる」


 ドスドスと床板を踏み鳴らす紫水に、王信がまた余計なことを口走る。


「おぉ怖っ。せっかくの美人が台無し―」

「邪魔」

「イテッ」


 ドンッと片足で彼の背中を横蹴りして、紫水は奥の部屋に向かった。


 コンコンと板を鳴らして、戸を開く。

 部屋の中では陶寺正を中心に車座になった面子が、巻物を広げて、あれやこれやと盛り上がっていた。


「ちょっと失礼します〜」

「あ、紫水」「お、陸」


 声に振り向くと、それぞれが口々に喋り出す。大理寺ココの人間は、総じて良く喋る。


「すみません、陶寺正。これ、今、押印お願いしたいんです」

「え、俺が?」

「もう五日経っちゃうんで。今日中に持ってかないと、刑部に何言われるか」

「…この量を、今日中にと?」


 陶寺正は盆の上の山と、不機嫌全開の紫水の顔を交互に見比べる。


「俺なのか?」

「わかってて聞かないで下さい」


 夏逸が文机を持ってきて、陶寺正の脇に置く。紫水がその上に盆を載せると、陶然は渋々ながらも山に手を伸ばし、書簡を取った。


「なぁ、俺、最近働きすぎだと思うんだけど―」

「大丈夫です。まだまだ行けます」

「ちょっと、夏逸―。陸がスパルタ教育してくる」

「陶寺正、ここは本気出しましょう」


 夏逸もわかってる。普段はゆるゆると仕事してるが、こうみえて陶寺正も、鬼神の右腕を張っていた人物。


「俺、常に余力を温存する主義なんだが」

「温存した分、いつ使うおつもりで?」

「非常時に」

「今ですね」

「だよな~」


 そろそろみんな、気づき始めてる。

 今、大理寺に不協和音が生まれていること。

 澄んだ川の流れも一か所が滞るだけで、水は澱んでしまう。その予兆が、この盆の山。

 嫌々な顔しながらも、陶寺正は書簡に手に取る。ざっと全件に目を通し、並べ替える。


「管理職にも時間外手当、出してくんないかなぁ。過労死する前に」

「そんな働いてましたっけ?」

「最近はしとるがな。不本意ながら」


 文句言いつつも、無駄な動きひとつせず書簡を広げては、さらさらと筆を走らせる。「頼りになります」という紫水の言葉に口をへの字にしながらも、やれば出来る男。少しの間で、山が低くなった。


「…最近、窃盗罪多くないか?しかもタレコミの」


 墨が乾いた紙から順に朱判を押しながら、陶寺正がつぶやいた。

 その言葉で、みんなの顔が一斉に仕事モードに切り替わった。これが大理寺。普段は和気あいあいだが、肝心な時は厳格に動くのが、玄人プロの仕事だ。


「はい。私も今日、一件ありました。被告は無実を訴えており、保留にしています。右金吾衛に資料依頼中です」


 実はちょっと引っかかっていた。陶寺正は紫水を見て、小さく頷く。


「被疑者は西市の周辺で小さく商いやってる人間ばかり…。しかも、通報者は商売とはまったく関係ない。これ、右金吾衛はわかってんのか?」


 陶寺正が顔を上げて、その場を見回した。 

 みんなが目配せし合う中、紫水が一歩前に出た。


「確認して参ります。えっつー」


 紫水が呼ぶと、夏逸もさっと立ち上がった。


「陸、聞くなら司矛の安雄あんゆうがいい。俺の昔の部下だ。信用できる」

「かしこまりました。では」


 二人は頭を下げると、袖をひるがえし、その場を後にした。



 ◇



 皇城の西門、順義門を出て直ぐ正面の坊里に右京の治安維持部隊、右金吾衛の庁舎がある。


 「えっつー、こっち」


 多くの人が出入りする門を通り、庭を抜けて奥に向かう。以前、紫水の一番上の兄が勤めていたので、内部構造は把握している。


「こんにちは〜」


 事務方の庁舎をのぞいて声を掛けると、顔見知りが返事をした。


「お、小陸じゃん」

「お久しぶりです。安隊長はいらっしゃいます?」

「奥の厩戸にいる」

「ありがとうございます」


 ニコッと愛想笑いをして、紫水は夏逸を連れて裏に回った。


「知り合い?」

「うん、一番上の兄の友人」


 今は北方の要所で県令知事を務めている兄は、父そっくりの武勇に長けた人物で、次代の国軍司令官候補。ちなみに紫水の仕官時の推挙人&身元保証人も、彼にお願いした。


「若い時、金吾衛にいたんだ。今は下の兄が洛都で金吾衛してる」

「治安部隊って、武官の出世街道なんだね」

「武術において『理論は証明、技術は実践ありき』。治安維持は平時の要ってヤツなんだと」


 話をしてる間に厩に着いた。馬舎の外で馬の毛を梳く男に、紫水が声をかける。


「安雄さま」

「おう」


 当たり。男が振り返った。


「大理寺評事の陸と、こちら夏逸です。陶寺正からお名前を伺い、参りました」

「お、そうか。すこし待ってな」


 日焼けした顔に白い歯が光ると、彼は手綱を手に馬舎に消えた。


「すまんなぁ。むさ苦しいところを」


 しばらくして馬舎から出てきた安雄はふたりを連れ、一番奥の庁舎に向かった。日陰を作る軒下の階に腰を下ろすと、二人にも促す。彼が衛士に声を掛けると、ほどなくして奥から盆を持って現れ、茶を三つ呈した。


「遠慮せずに」

「いただきます」


 紫水は茶碗を手に取り、一口含んだ。よく冷えた緑茶が、のどをさらりと流れた。


「で、何用だ?」

「はい」


 三人で横並びに座っているところ、膝から上を安雄に向け、紫水は姿勢を正した。


「最近西市で起きた窃盗事件の容疑者が無実を訴えておりまして―。他にも数件、似たような事件のタレコミがあったと耳にしました。安雄さま、何かお心当たりはございますか」

「いかにも…。して、君はもしや女子か?」

「はい?あ、はい…」


 突然のフリに、紫水が拍子抜けした声を出した。隣の夏逸がぷっと茶を吹いた。


「すまん。えらい美少年だなと。迂闊にこんなところにやって来て大丈夫かと、一瞬心配になってな」

「…なんの心配です?」

「いや、いいんだ」


 彼は言葉を切ると、ぐっと茶を仰ぎ、ふうっと口元を拭って空になった茶碗を盆に置いた。


「確かに、冤罪らしき案件、最近多いな」

「やっぱり…」


 紫水たちは顔を見合わせて頷き合った。実は夏逸も先日、嫌がらせとも取れる訴訟を担当したばかりだった。


「かといってだ、どの案件も状況証拠は揃っている―。お前さんたち、どうする気だ?」


 的を得た問い。下手な言い訳は通じない相手に、紫水は正直に告げた。


「周辺の聞き込みをし、不審点を洗い出したいのです」

「どうして?」

「民の冤罪を証明出来ぬ官吏など、大理寺にいるべきではありません」

「真面目ちゃんだな」


 小莫迦にしたような言い草に、紫水はスッと目を細め、静かにその人を見た。

 相手を推し測る、ふたつの視線。無言の中に蒼い閃光がぶつかり合い、火花が散った。


「―すまん、冗談だ」


 先にはずしたのは安雄だった。彼はニッとまた歯を見せて、紫水たちに向き直った。


「相分かった。右金吾衛で、兵を出そう」

「ありがとうございます!」


 声の揃ったふたりに、安雄はハハハっと大きな声を空に放った。

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