十三 夜の戯れ

 勉強、したいなぁ…。

 髪を下ろし、衣をゆるく着崩しくつろぐ成景の膝の上で遠く夜空を見上げ、紫水は嘆く。

 湯浴みの後、成景は紫水を誘い、池に張り出す四阿にやって来た。

 四方に掛けられたほんのりと透ける絹のカーテンを夜風がすり抜け、紫水の肩を抱く濃紺の袖を揺らした。


「…そろそろ、放してくれてもいーんじゃない?」


 酒を片手に、ゆったりと夜空を眺める男に紫水は問う。


「明日から私もしばらく忙しいので、今のうちにと。なので、貴女の今夜を私に下さい」


 彼はそう言うと、紫水のおでこに軽く口づけた。


「…勉強、したいんだけど」

「なんのです?」

「吏部試」

「ほう。二年目で。優秀ですね」

「…お情けだよ。だから、落ちるわけにはいかないの」

「大丈夫ですよ、難しい試験でもないですし」


 あっさりかわされ、紫水はガックリ肩を落とす。この男には試験勉強も、免罪符とはならないらしい。


「…女なんてこの世にいくらでもいるんだから、他所で遊んでくればいいのに」


 口を尖らせた紫水に、成景は手にした杯をコトンと脇に置いた。


「…言ったでしょう、私は何より貴女が欲しいのだと」

「よく言うよ、人を脅しておいてー」


 これを脅迫と言わず、何という。

 ヘッと口を曲げ、ブサイクな顔を惜しげもなく晒す紫水に、成景が声を上げて笑った。


「ははは。目的のためには手段を選ばない主義でして―。でも、それは貴女も同じでしょう?」


 空いた手を紫水の腰に添わせ、ゆっくりと輪郭をなぞる。

 それだけでピクッと肩を震わせる紫水を、成景は灯ゆらぐ瞳で覗き込む。


「う…」


 鼻先が触れそうな距離に、けぶるような色気が迫る。まるで月天子のような妖艶さを目の当たりして、正気を保てるほど大人じゃない。

 いや、正直に言おう。

 恋愛経験なんて皆無に等しい身の上に、この状況。ぶっ倒れないだけよく耐えてると、おねがい、誰か褒めて。


「…一緒に、しないで」


 蚊の鳴くような声を絞り出すと、紫水はフイッと顔を反らした。


「―」


 拗ねた子供のような仕草に、成景の口元がゆるんだ。

 なんともまぁ、そそること―。

 恥じらう姿はあまりに可愛いらしくて、困ってしまう。

 時にその見た目からは想像もつかないほど、えげつない悪態をつくわりに、ちょっと揶揄からかうだけでこれだから。

 本人が意図せずとも、その顔が、その仕草が、普段は懐の奥にしまいこんだ、したたかな欲望をあぶり出す。

 あぁ。このいじらしい天女を、どうしてくれようか。

 己の欲深さに失笑しつつも、食指は止められない。


「では、私の腕に囚われるのは、貴女の意思ではないと…?」


 わざとらしく耳元でささやく声。琵琶のように低く伸びる音は蜜のようにとろけて、どうしようもなく甘美で。


「ねぇ、違いますか?」


 だんまりを決め込む紫水の耳朶を、意地悪な唇がかすめる。


「―」


 ダメ。持っていかれる―。

 紫水は身体を固くして、背中を駆け上がる震えをどうにか耐える。

 そんな紫水をあざ笑うように、指先が躰をなぞる。その度に肌に感じる刺激に、頭は沸騰寸前。

 全てを絡め取ろうとする、誘惑の手招き。

 こんなの、堪えられるはずがない。


「…すべて、真実の為だ」

「好いてもいない男に、身を委ねる事も?」


 紫水は歯を食いしばって頷いた。その様子を黙って見ていた成景だが、やがてふぅっと息を吐くと「強いですね、貴女は」とつぶやいて、柔らかな髪に顔を埋めた。


「…莫迦にしたな」

「してないですよ。そんな片意地張らなくとも」


 そう言いながら、成景は紫水を抱く腕に力を込める。


「張ってないし」

「ふふっ。可愛いなぁ、本当に」

「なんかムカつく」

「どうして?」

「嫌味でしょ。どーせ私は無知なガキですよ」


 何を言っても大人の余裕しかない相手に、負け惜しみしか返せない自分が情けない。


「私の目には、魅力的な女性に映りますけど?」


 紫水の頭にあごを乗せて、成景が言う。


「よくもまあ、口から出任せばっか」

「うら若い女性を捕まえて、子供扱いはしませんよ」

「いいの。散々『未熟者』とか『ガキ』って、怒鳴られてきたし」


 鬼神には、これでもかって言うくらい罵倒された。『ここは子供の遊び場じゃない』とか『仕事舐めてんのか』って。

 あぁ。思い出しただけで、泣けてくる。


「…誰が、そんなことを」

「上司だけど」

「どなたです?」

「鬼神だよ、大理寺うちの」

「あぁ、薛寺正殿ですね。―たしか今期から、門下省だったかと」

「よくご存知で」

「以前、貴女と尚書省に来ていたのを、見かけたことがあって」

「え」

「その時は、まさか、と思いましたが」

「?」

「…そうですよね、彼の下で働いたら、たくましくなりますよねぇ」


 合点がいったという風情で、くすくす笑いながら成景は自分の指を紫水の指に絡めた。


「色々と納得です。―そうそう、よく『大理寺の新人殺し』と聞きますが、実際はどうなんですか?」


 意外な話題を振られ、少しの驚きとともに紫水は顔をあげた。


「―まぁ、忙しさはハンパないよ。間違いなく」


 そもそも繁忙期なんて言葉が存在しないほど、年中フル稼働、かつ慢性的な人員不足。そのせいで色んな事故が起こり過ぎて、もはや混沌カオスが通常営業してる。


「大広間を見渡すと、書簡の雪崩に巻き込まれてる人もチラホラいるし」

「軽く惨事ですね」


 時には紙の海で溺死しかけている者もいる。


「瀕死の同僚の救助も、仕事のひとつだって教わった」

「肉体労働ですか」

「ウチ、筋力も必須技能スキルなの」

「あぁ。罪人とも対峙するから」

「いや、そうじゃなくて。ほら、年度末に発狂するヤツ、必ず出るじゃない?」

「まぁ、いないとは言いませんが」


 いつまでたっても終わりの見えない仕事に「燃やしてしまえ」って松明振り回すヤツが現れるのが、大理寺の年度末のお約束。


「確かに去年、ふたり見たし」

「…いるんだ」

「恒例行事なんだって。みんな慣れたもんで、縄とか水桶持ち寄って。初動も驚くほど早くて。まぁ、ボヤ騒ぎを揉み消すんだから、立派な組織的犯行だけど」

「職員みな協力的なんですね」

「毎回大騒ぎだけどね」


 呆れるくらい騒々しい、いや、大変賑やかな職場ということで。


「なんだかんだ、愉快な職場なんですね」

「まぁねぇ」


 慣れるまではずいぶんと距離を感じたけど、愚直に続けていれば、何かは変わってくるもの。


「なるほど。『西端の異界』のあだ名は真実まとこですね」

「…なんか、見下されてるなぁ」

「そんなことは」

「いいの。知ってるから。三省六部の文官は気取った連中だって」


 あいつらは泥臭い仕事ばっかの九寺五監くじごかんを下に見てる。刑部の人を小バカにした態度を思い出し、ついつい紫水の語気が強くなる。


「お嫌いですか?文官は」

「そこそこ嫌いね」

「私もです」

「はぁ?」

「私、初任は禁軍の儀仗隊ですから」

「うそ」


 目を丸くした紫水に、成景は意外だという顔をした。


「知りませんでした?」

「知る訳ないわ」

「少しは調べてくれてもいいんですよ」

「興味ないんで」

「冷たいなぁ」


 はははと笑う横顔は、まったく気にしている風情じゃない。

 こういうとこが、信用ならないんだと紫水は思う。

 しかし、『敵を知ることからはじめよ』と、兵法書にも書いてある。勝つためには、卑怯でも相手の弱点を攻めるが上策。

 こんなヤツに好き勝手させない為にも、ここはさり気なく、素性を聞き出すのが得策かもしれない―。


「…禁軍は、自分の志望?」


 紫水は怪しまれないように、言葉を選びつつ探りを入れてみる。


「実家が武官の家柄なんです」

「そうなんだ」


 言われてみれば、紫水を囲む腕は固く、涼しげな顔立ちに不釣り合いな筋肉質な躰つき。日頃から鍛えてなければ、ここまでの筋肉はつかないはずだ。


「…それが、なんで文官に?」

「たまたまです。三年目に異動になって。国士学の卒試で二品だったから、というのは多少あるかもしれませんが」

「二品っ⁉うそっ!」


 掃いて捨てるほどいる国士学の卒業生の中でも、卒試で一・二品を得るのは、十年で片手で数えるほどしかいないはず。

 あの薛寺正でさえ、三品だったというのに。


「私、あれだけ頑張っても四品…」


 これでも相当良いほうではある。

 一応名誉のために言っておくと、四か五品を得たら、将来の官僚候補と言われている。

 だからこそ、四品で首席だった自分は配属希望も叶い、初任は地方勤務が当たり前の中、中央配属になったんだと自負してる。

 なのに、その、はるか上を行く男が目の前に―。

 二品の威光に殴られ、紫水はすっかり言葉を無くした。


「記憶力が人より良いだけですよ」


 謙遜か。むしろ嫌味に聞こえるのは、ひがみだろうか。


「…そんな人が、なんで?」


 口をついて出た、素朴な疑問。

 将来有望な若手官僚を、権力闘争が趣味のタヌキ爺たちが放っておくはずがない。

 政略結婚が当たり前のこの世の中。誰でも青田買いを狙うはず。


「なんで、とは?」 

「縁談なんて、腐るほどあったでしょ?」

「そうですね」

「公主の婿なんて、面倒なだけじゃない?」

「…姉君の婿殿たちは、かなりご苦労されてるようですね」

「あれは相手が悪いわ」


 腹違いの姉は三人いるが、みんな揃いもそろって性根が腐ってる。ただ皇帝の娘というだけで、なんの能力も無いくせに威張り散らすばかりの高飛車女たちだ。

 内廷生活の時に、何度ぶん殴ろうと思ったことか。


「仲がよろしくないようで」

「まともに話せるのは、仲璇兄上くらいよ。…まぁ、その兄の腹心に駒に使われたんですがね」

「私には瓢箪からコマ、ですけどね」

「はぁ~っ。なんでこうなったんだか」

「悪いようにはしませんよ、安心して」


 天を仰ぐ紫水の髪を、成景が指で梳く。


「私の腕の中で、存分に甘やかされて下さい」

「…そんなんで誤魔化されないから」


 ただひたすらに甘やかしてくる手を遮って、紫水が真顔で成景を見据えた。


「―で、なんでこの時期に、兄たちの権力争いに進んで首を突っ込むようなマネを?」

「…貴女の聡いところ、好きですよ」


 ニコッと柔和に微笑む顔は、さすが宮中の荒波を乗りこなしているだけあって、思惑の影など微塵も見せない。

 紫水のような小娘がその表情から本音を読み取ることは、到底出来そうにない。でも―。


「秦王になびいたって太子派に疑われたら、アンタだってやりにくいだろうに」


 タヌキ爺の受け売りだけど、そこは黙っておこう。


「あら、心配してくださるんですか?」

「あのさ、肝心なトコはぐらかないでくれる?」

「嬉しいなぁ。気にかけてくださるなんて」

「そんなこと言ってない!」

「ごめんなさい。怒らないで」


 ニコニコと笑いながら、成景はまた、ギュッと紫水を抱きしめる。


「…ほんと、いやになるわ」


 こうやって、また、からかわれて、もてあそばれて。なんなんだ、一体。


「ふてる顔も可愛いですよ」


 あやすように、成景の手のひらが紫水の肩を撫でる。

 こんなことで、機嫌直るとでも?莫迦にしてるわ。


「だから嫌いなんだよ、口の上手い男」

「では、嫌われたくないので、正直に言いましょう」

「なによ」

「欲しいものが欲しいー。純粋な欲求です」


 彼は薄く笑うと、肩を抱いていた手を首すじにすべらせた。指先が頬に伸びて、紫水の顔をくっと持ち上げる。あまりに自然な流れに、意識せず見上げた紫水の無防備な唇に、彼が喰らいついた。


「――――!」


 突然押し入ってきた熱い舌が、紫水の口内を我が物顔で這い回る。すこしでも反抗しようと、紫水は自由の効く片方の手で彼の胸元を押し返したが、まるでビクともしない。それどころか、今度は長い足が絡んできて、紫水の膝を固定すると、同時に腰を撫でていた手が衣の裾を払った。

 夜目にも白い紫水の太腿を露わにすると、指先はその先の秘めた場所にすべり込んだ。


「―んんっ!!」


 意地の悪い指先が紫水の弱い所を探して、肌の上を這いまわり、小さな種火を残していく。


「…ふ…ぁっ」


 鼻にかかった声が塞がれた唇の隙間から漏れると、かすかな水音がひとつ、震える膝の奥からこぼれ出た。

 徐々に湧き立つ快感を、紫水に聞かせるように、成景はわざと何度もかき鳴らす。

 その度に、ジリジリとした熱が紫水の躰を蝕んでいく。

 唇のはしから飲みこめない唾液があふれ、透明な糸となってあごを伝い落ちていく。

 一方的に注がれる、抗いがたい快楽。逃れる術を紫水が知るはずもない。

 やがて、指先が紫水が大きく震える場所を見つけると、何度も行き来を繰り返しては、反応を愉しむように執拗に責め立てた。

 ついこの前まで知らなかったはずの悦楽が、躰の中で跳ねまわる。

 一度覚えたその味を、躰は意思とは無関係に追い駆ける。芯が熱を帯び、全身の血が爪先からブワッと逆流する。

 視界の全てが白く染め上げられ、息のできない胸が大きく震える。

 その瞬間、容赦ない成景の指先が、ぐにっと紫水の熱源を押し潰した。


「ん―――っ‼」


 くぐもった声が漏れ、紫水の足先がピンと宙を蹴った。腕と足で拘束され、動けない背中がビクビクッと波を打つ。

 さらに二度三度と指を往復させて、紫水の腰がガクガクと震えたのを見届けると、成景はようやく唇を解放した。

 すっかり腫れ上がった紫水の唇から、はぁはぁと浅い息がこぼれ落ちる。

 今にもまどろみに沈みそうなその顔を覗き込んで、薄い唇が囁いた。


「私の指戯はお気に召しましたか?」

「…っ」


 美しい顔で巫山戯ふざけたことをのたまう男に、紫水の顔が怒りに染まる。


「私、欲求に正直なんです。だから、つい」


 ぬめる指先を見せつけるように、自ら舐めとって微笑んでみせた。


「…最っ低―」

「そんな顔で睨んでも、可愛いだけですよ」

「あぁっ⁈」


 一瞬で組み敷かれ、目を見開いた紫水の上で、優美な顔が意地悪く微笑んでいる。


「見せつけてやりましょう―。柱の影から様子を伺っている者たちに」

「ふ、あぁっ、ん――っ!」


 再び襲ってきた口づけの嵐に、紫水はもう、なんの言葉も紡げなかった。

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