三 新任上司
役人の新年の初仕事は、日の出と共に奏上を読み上げる文武百官総出の拝謁から始まる。
各国使節団の拝朝や任官の儀などの行事が延々と正午まで続き、その後、五品以上の高官は天子主催の宮中宴席に参列するのが、お決まりの流れ。
下々の役人は式典が終わればお開き。紫水たちも昼前には解放され、同僚たちと共に街に出向き、昼餉を食べて初日を終えた。
明けて今日―。
初仕事を前に、紫水は朝から渋い顔。
その目に映るのは、机の上、文字通り山のように積み上がった書簡の束。新年を迎えたとて、日常は何ひとつ変わらないらしい。
「…ですよねぇ」
当然と言えば、当然か。ブンブンと首を左右に振ってあきらめに似た感情を落とし、フンッと気合を入れる。
実質今日が仕事始め。呆けてるヒマはない。
「さ、はじめよか」
腕をまくり、紙の山に食らいつく。にこうして、大理寺のあたらしい一日が、今日も始まる。
「陸評事、こちら判官へ回覧お願いします」
「はぁい」
「あ、陸殿、これ三合司の資料。小卿から」
「どもです」
正殿の廊下を一度歩いただけで、両手に抱える書類箱は満杯。これらは全て、大理寺実務の管理監督者である『寺正』が本日利用予定の資料。上席組が朝議から戻って来る前に整理して、部屋に届けるのが随身の朝イチのお仕事。
「失礼します」
正殿の奥、渡り廊下を進んだ先にある、上官たちの執務室。誰もいないのは分かっているけど、ひと声かけてから戸を開く。
しんと静まり返る部屋に入り、大きな文机の前に書類箱をドカッとおろす。今日は一段と重かった。
ふぅっと顔を上げると、あふれかえっていたはずの壁一面の書架が、キレイに片付けられているのに気づいた。
「…そっか」
部屋の主が変わったんだっけ。
改めて室内を見渡すと、あれだけ積み上がっていた大量の紙がどこかに消え、ガランとしている。
「この部屋、広いんだ…」
声にしたら、一抹の淋しさがこみ上げてきた。
薛寺正がいない、執務室。
大変な一年間だったけど、いつも見ていた姿がない現実に、なんだか急に、玩具を失くした子供みたいな気分になる。
「もうちょっと、いてほしかったな…。―いや、それはそれで」
思い直し、紫水は首を振った。
ハードな日々は、過ぎ去ったからこそ、良く思えるもの。思い出補正に騙されてはいけない。
「…仕事しよ」
上司が変わっても、するべきことに大差はない。
箱から書類を出して、時系列順に並べていく。
今日は月一の刑部との実務責任者定例会、そのあと御史台への新任挨拶と懇親会を兼ねた昼食会。午後からは左右の金吾衛との打ち合わせ―。
「あれっ?」
予定だと、もう出かける時間。
初日は随身も終日同行しろと、鬼神から指示されていたのに。
「…先に行っちゃった、かな?」
でも、部屋には人がいた気配はない。
「…」
どうする?紫水。
追うか。資料は持っていく?
思案すること数秒。バタバタバタ―と、廊下から大きな足音がしたと思うと、バタンッと戸が開いた。
「ごめん―っ!遅くなっちゃったっ!」
「あっ…、程寺正、でいらっしゃいますか?」
現れたのは、丸顔でニコニコと笑う、人の良さそうな青年。
「君が陸評事?聞いたよ、若手筆頭株だってね!いやぁ、見た目からして賢そうだもんね。そうそう、ご挨拶からだよね!はじめまして、門下省から来ました程基と申します。今日からよろしくねっ!」
「は、はい…」
陽気の押し売りをくらって、ちょっと引き気味の紫水は差し出された手に両手を重ねた。
「いやぁ~、寺卿に朝イチで捕まっちゃって。ご年配は話が長くてさ、困っちゃったよ〜」
「は…」
「近くを通りかかった人を巻き込んでさ、やっと逃亡できたの。もう、朝から大変だったよぉ」
「お、お疲れ様です…」
おちゃらけた調子の新しい上司に、紫水は面食らった。
あの鬼神とは対極、正反対のキャラ。
生まれながらの陽属性に、白くてツヤツヤのお肌。40前後のはずなのに、お世辞でなく20台後半に見える彼。紫水の頭上に「?」が舞い踊る。
なんというか、皇城は人材の宝庫なの、か?
社交用の作り笑いを顔に張り付けていたら、またしてもバタンと勢いよく戸が開き、一人の男が腕を振りつつ入って来た。
「おうっ、陸っ!新任殿を迎えに来たぞ―」
「あ、陶寺正っ」
現れたのは、もう一人の寺正、
「すみません。まだ、諸々のご説明終わってなくて―」
「あぁ。朝堂の帰りに寺卿に捕まってんの見て、こりゃ長くなるなと思ってさ。とりあえず、歩きながらでいい、行こうぜ」
弁明する紫水に片目をつむってみせると、陶然は程寺正の肩に手をまわし、入り口に歩き出した。
「初日からバタバタですみません~っ」
ヘラヘラと笑いながら、程寺正は頭に手をあて、人の良さそうな眉をハの字に下げた。
「いいって。陸、書簡持って。いくぞ」
「はい」
三人は用意していた馬車に乗り込み、皇城の中心部に位置する尚書省までやって来た。
ここは皇城内イチの大所帯で、敷地も大理寺に比べ数倍は広く、色とりどりの官服が省内を行き来していた。
「陸、走るぞっ!遅刻だっ」
「あっ、はいっ!」
バタバタと刑部の庁舎に駆け込んだ三人だが、どうにか間に合ったらしい。示された席につき、着任挨拶から簡単な自己紹介、業務についての意見交換―。会議は粛々と進んでいく、はずだった。
今までは鬼神の主導もあって、定刻内につつがなく終わる会議だったのに、今日は刑部がダラダラと無駄に喋っている。
実務担当(大理寺)と起案部門(刑部)の齟齬を埋めることを目的として始まったこの会議。なのに、初日だからか、どうでもいい世間話ばっかり。
大丈夫なのかな、これ…?
不安に苛まれ、紫水はちらっと斜め前に座る陶然に視線を送った。
すると彼はすぐに気づいて、横顔で左眉を上げてみせた。
まぁまぁ、とたしなめるようなその表情に、紫水は仕方なく小さく頷いた。
「それにしても、大変な役を受けられましたなぁ」
まだ喋りたりないのか、刑部の一人が文机に肘をのせると、前のめりな体勢で程寺正に話を振った。
「いえいえ」
「前任者はまさに独裁だったが、あの混沌とした大理寺を三年で立て直すとは、恐れ入る。程寺正も、その後任となると、さぞ不安もございましょう」
「いやぁ〜、こんな新参者にお気遣いなど、恐れ多いことで」
にこやかに受け流す程寺正の横で、陶然が大きく鼻を膨らませた。
言い返してもいいんだぞ。
そんな風情を見せるの同僚の横で、程基は満面の笑みを浮かべる。
人のよさそうな顔とは、まさにこのこと。
「また混沌に戻ったと言われぬ様、精進します」
当たり障りのない大人な返答に、相手はチッと舌打ちした。挑発に乗らないのが、気に食わないらしい。子供か。
「いや、大理寺には、優秀な人材が多いと聞きます。彼らがいれば、程寺正も安泰でしょう。特に、鬼神の下から逃げ出さなかった新人とか」
嫌味の風向きが変わったのを感じ取り、紫水の握った手のひらに力がこもった。
「紅一点、武官の娘だとか。変わった出自の人間を、さすが鬼神は上手く使いこなす」
「我々凡人には、到底真似できぬことよ」
ハハハッと座に笑いが満ちた。
あからさまな嘲笑に、紫水の頬がぴくっとこわばった。
いなくなった途端に、悪口か。
しかも、鬼神には歯が立たないからって、新参者を狙うなんて。まじでコイツら、クソすぎるだろ。
ここは一発、やり返してやる――。
拳を床につけた紫水が、ゆっくりと顔を上げた。すると殺気を察したのか、前に座した程基がそっと手で制した。
「…そうですね、前任者からは色々と引き継いでおりますが、小職に務まるか、まるで自信はございません」
ゆったりと返す程基の背筋は、スッと伸びていて、言う割にまったく動じていないように見える。
「心中お察ししますぞ。異界の仕事、常人には務まりますまい」
「見目麗しき随身も、男の身には荷が重いでしょうに」
「あの鉄面皮にしか無理な話だ」
「ご苦労が絶えぬこと、心中お察しします」
後ろで紫水が息を飲んだのが聞こえたのか、程基は「えぇ」とだけ言うと、居ずまいを正してから袖を大きく払った。
「新参者の私にご配慮賜り、感謝にたえません」
ゆったりと謝辞を述べ頭を垂れる。ふたたび顔をあげると、全員の顔を見渡した。
「しかしながら、大理寺には優秀な人材が多くおりまして」
「ほう。それは意外な」
「例えば、国士学を四品で卒業した、二年目の随身二人組など、下から数えても枚挙に暇がありません」
ニコニコと、つややかな笑顔を振りまいた。
その隣で陶然がニヤリと笑って、紫水に目配せした。
まるで「お手並み拝見」、とでも言うように。
「そ、それは…、心強いですねぇ…」
相手の攻撃色が一気に落ちた。
いきなり手札を切ってみせた程基に、紫水は心の中で「やるな」と唸った。
ここは宮廷、官位が全ての世界。
中間管理職と五品以上の高級官僚では、その存在意義に天と地の差がある。四品の破壊力は露骨なカウンターパンチを食らわせた。
他部門の新人の成績なんて、知らなくて当然。が、宮中はトラップの宝庫。そこそこ賢い人間なら、ちょっと考えてから口にするけれど…。
まぁ、所詮その程度の人物、ということだ。
苦笑いの相手に、程基は笏を口元に沿えながら、のんきな声で続ける。
「でしょう〜?将来の高級官僚ですからね。やはり若くとも抜群に仕事が出来て。それに―」
クスッといたずらっぽく微笑むと、ゆっくりと座を見回す。
「いつ、僕の上司になるかわからないのでね。今から出来る限り、ゴマをすっておこうと思います―」
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