四 兄の誘い
「ほんと、優秀な人には敵わないんだよねぇ…。私、大理寺の仕事、向いてないのかなぁ」
「とか言って、楽しそうにお見受けしますよ?」
言葉のわりにのんきな声に、逢花がふふっと悪戯っぽく微笑む。
日差し暖かく、風も穏やかな昼下がり。
紫水の髪を飾る
宮城。城壁で囲まれた都の北面の広大な高台に位置し、眼下に街を一望する、天子の居城。
その内廷の奥、竹林を抜けた先に広がる、芝生に覆われた小高い丘に紫水たちはいた。
昨日から内廷入りしていた紫水は、逢花と数人の宮女を連れ、お気に入りのこの場所にやって来た。宮中は何処にいても、人の目と耳がある。『病弱で伏せっている設定』の公主は、人目につかない場所でしか、のびのびと出来ないのだ。
ふたりは砂漠を渡ってきた
「そうだね。―楽しいよ、目指す人がいるって」
少年のように足を投げ出して座る紫水は、棗の乳脂包みをひとつ指でつまむと、口に放り込んだ。
「お顔を拝すれば、わかります」
逢花は楊枝で半分に切った棗を、上品に手を添え口に運んだ。どちらが公主かと見た人が問われたなら、間違いなく彼女を指すだろう。
「美味しゅうございますね。やはり、西市の流行り物は乙女心を掴みます…。お側仕えの身にこの様な物、勿体無いのですが」
「なーに言ってるの。私がこの牢獄を耐え抜けたのは、逢花のおかげなんだから」
屈託のない笑顔を見せる主に、逢花は申し訳無さそうに眉を寄せつつも、残り半分の棗を口に運んだ。口に広がる甘さを噛みしめて、鼻からゆっくり息を吐く。
「陸家の者として、当然のことにございます」
公主より公主らしいこの娘は、実は陸家きっての剣の名手。十三の春に紫水が宮廷に連れ戻された時から侍女として出仕し、側近として仕えている。
常に空気のように侍る彼女は、今では紫水の数少ない理解者の一人だ。
「二人の時は、堅苦しいのナシだってー。誰も見てないんだし」
「そうでしたね」
「宮中じゃ息も吸った気がしないもん―。ほんと、公主なんてやってられないわ」
現帝の第七子・九瑶公主と武家の娘、陸紫水。
一見、接点のないこのふたりが実は同一人物であること、陸家内でも数人のみが知る重大機密。
それは彼女の出生が、祝福されたものでは無かったことに由来する。
遡ること十九年前。当時、皇太子だった現帝はある日、秘密裏に郊外の宮殿に陸将軍を呼び出すと、産まれたばかりの赤子を託した。
その日から彼女は将軍の娘、「陸紫水」として生を歩むこととなった。
武官の名家らしく、三人の兄たちと共に武芸や兵法に励み、明朗快活な少女に育った紫水。兄達のように、将来は役人として出仕することを夢見る彼女の生活が一変したのは、先帝が崩御した6年前のこと。
13歳を迎えたある日、突如告げられた事実。
その日から、お転婆な少女は後宮で公主として生きることを余儀なくされた。
「こうやって、たまの連休に拘束されるだけでも、ゲッソリするわ」
「今回の年始は、いつもより御出ましが多くございましたものね。秦王殿下のお誘いも承知されて」
「不本意ながらね」
兄弟で唯一の、真っ当な感性の持ち主だと言える兄、秦王。彼の話くらいは、聞く耳を持たねばと思う。
「そういえば公主。先ほどの主上拝謁の際に、何もお答えにならなかったのは、なぜですの?」
「あぁ、あれ?」
実の父と言葉を交わすのは、年に1,2回。宮中に来た際にご機嫌伺いの謁見を申し出て、先方の都合が合えば御目通りが叶う。父とはいえ、相手はこの国で最も尊い存在の
対面しても玉座にこちらは階下、と大きな距離がある。会話と言っても、その際に玉言を賜る程度だ。
親子という関係とは、程遠い。
「主上の『何でも申せ』とのお言葉に、公主は遠慮されて」
父君は末娘との久々の対面を喜んでいた。会う度に『欲しいものはないか』と彼は訊ねる。毎回『十分です』と繰り返す娘に、彼は言った。『そなたが望むなら、地位でも黄金でも、憎き者の首でも、その手に渡そう―』と。
頭上に響く峻厳さみなぎる声は、どこか得体の知れない冷徹さを孕んでいて、紫水は背中を氷で撫でられたような心地がした。
「…怖かったんだよ、ただ単に」
「怖かった?」
「試されてる気がして」
自分が知っているのは、彼が、この国の天子だという事実のみ。その黒紫の龍瞳に映る自分は、とても脆弱な存在に見えた。
「そうでしたか…。それも天威ゆえ、なのでしょうか」
「『天に選ばれし子』、か…」
役人生活も1年やってると、それなりの大物に出くわす。名高い高官はやはり、威厳ある人物が多い。会えば自然と背筋が伸びる、そんな雰囲気を、みな持っていた。
けど、主上はそんなもんじゃない。
何物とも比べようのない、圧倒的な威厳と存在感。
それはまるで、地を見下ろす、猛々しい龍―。
紫水には、その存在が人の姿を持ったように思えてならない。
「…宮中は一度足を踏み入れたら、誰しもがその甘美な蜜の虜になる、特別な場所。その主はやはり、稀有な存在なのですね」
そう。ここは、伏魔殿。
権力という魔物に取り憑かれ、人が人でなくなる場所。その頂点に君臨するのは、とぐろを巻いた巨大な龍―。
「…こんなとこ、さっさと出ていきたいのに」
「残すところは、明日の参列のみ。あとひと踏ん張りですよ」
「うん。明後日からはまた仕事だし、気合い入れないとね」
「二重生活、また忙しくなりますね」
「あの日常に戻れるのは、幸せだよ…。だから逢花にはほんと、感謝してる」
「…公主には、敵いませんね」
茶碗を太腿の上で両手で包むように持ち直し、逢花はほうっと微笑んだ。
紫水を見る逢花の眼差しは、春の風と同じ。
本当の友人だったら、良かったのにな―。
紫水は心から、そう思う。
そしたら出会えなかったかも、知れないけれど。
6つほど年上の彼女は、紫水にとっては何でも相談できる、姉のような存在。宮中でも何不自由なく行動出来るように、陸家との連携や段取りやら事務方まで、彼女は常に先を読んで手配してくれる。
何でも卒なくこなす手腕は尊敬に値する。しかも本分は剣士だというのだから、陸家の人材教育には驚きしかない。
「皇城に戻ってからも、無茶は禁物ですよ。私がお側にいないのですから」
「そうだね。逢花がいたら、もう少し捗ってたね。きっと―」
紫水は座り直し、立てた片膝に頬杖をついた。
残念ながら、進捗は芳しくなかった。
「そう公主、『お口直し』ですが」
逢花が団扇を口元に寄せ、膝を進めて紫水に肩を寄せる。
「…ひとつ証言が取れました。あの前の日に、
「ん」
「睡眠薬に用いる薬草です。
「…やはり、内部犯か」
「当日、外廷の人物が持ち込んだ可能性も。受取りの記録がないのは、不自然です」
「手引した者は分かった?」
「いいえ。証拠の無い徹底ぶりから、捨て駒かと」
「そうか。悔しいなぁ…」
紫水は横たわり、空を見上げた。
あれは絶対に、事故なんかじゃない―。
もう二年半近くを、無駄に過ごしてしまった。
風の強い、秋の始まりの日。
大極宮の北東の離宮のひとつ、華雲宮が焼け落ち、二十人余りが犠牲になった。
火元は倒れた燭台と見られ、強風で延焼が早く、消火活動も功を奏さなかった。焔は宵の空を橙色に染めながら、2つの殿舎を焼き尽くした。
「まだ真相にはほど遠い…。でも、必ず」
広大な蓮池を走る風が竹林を吹き抜け、芝生を駆け上がり、寝転んだ紫水の前髪を揺らした。
青空が雲を風に細く流す。形を変えては消えていく白い雲を眺める紫水の視界に、逢花が顔をのぞかせた。
「吉報がひとつ。当時の生存者が見つかりました。楽隊のひとりで、
「身をやつしている?」
「はい。鬼籍に入った事になっています。これから家の者を送って調べます」
「わかった」
紫水はうつ伏せになると、ひじを絨毯について顎を支えた。
「地道に集めるしかないね」
今はバラバラの『点』でしかない証拠たち。
それをつないで、必ず、あの男にたどり着いてみせる。
紫水はあの日見た、花嵐の中に佇む影を瞼の裏に写して、唇を噛んだ。
「喪が明ける前までに、絶対、突き止めてやるから」
「公主、香が―」
声を低くした蓬花が、紫水に目配せした。
紫水は起き上がって座り直すと、茶器を手に取り口に運んだ。
鼻に抜ける
「可愛い妹よ、ここにいたのか―」
瞼を上げると、竹林を背に若い男がふたり、こちらに歩いてくる。
「秦王殿下、星卿」
兄・仲璇とその腹心、太常寺小卿の
ふたりの美男子は芝生を越え、紫水たちの座る絨毯の前にやって来た。
「失礼するよ」
仲璇が絨毯に腰を下ろすと、逢花が恭しく茶を差し出した。
彼はキラキラの笑顔で会釈すると、茶器を片手に持ち、一息にあおった。
「良い薫りだね。女子の楽しみは優雅でいい」
深々と頭を下げる逢花に空の器を渡すと、仲璇は紫水に向き直り、これまた優雅な笑顔を作った。
「九揺、ちょっと頼みがある」
「はい」
拒否する権利なんてハナから無い。素直に頷く。
「明後日、正午前に秦王府に来てもらえないか」
「―」
マズイ…。
その日は朝から年初一発目の、一番大事な会議だ。
仮病、発熱、物忌、先約…。
頭の中をぐるぐると言い訳が巡るが、口から出たのは無難な回答。
「はい…。午後から予定がありますが、伺いますわ」
「すまんな。見てもらいたいものがあるんだ」
「何ですの?」
わざわざ兄が職場まで来いと言うからには、よほどのものだろう。それか宮中に持ち込めない程の大きな工作物か、はたまた持ち出し厳禁の貴重な書か…?
「いらしてからの、お楽しみで」
後ろに控えていた星卿が顔を出し、次を取った。
天文に通じ、星を読むことから星卿と呼ばれるこの男は、秦王府の二大巨頭と呼ばれる公私共に兄を支える参謀のひとり。妓女もびっくりの天女のような容貌で、かつ頭脳明晰。上流階級出身らしく柔らかな物腰で、宮女人気も高い。だが、影の如く常に兄の後ろに侍る彼を、紫水はなんとなく、好きになれない。
「あぁ、楽しみはとっておくといい。きっと九瑶は喜ぶから」
「そう、ですか…」
自信満々の兄に、紫水は戸惑う素振りをした。なんだか知らんが、最優先事項は仕事。そこんとこ、一省の長なんだから分かって欲しいな。まぁ言えないけど。
「お時間は、かかりそうです?」
「ご心配なさらず、すぐに終わりますので」
またしても星卿が横から取って言う。
花もほころぶ華麗な笑顔を見せつける彼に、紫水は「そうですか…」と、そっと目をそらした。
正直、この仮面みたいな笑顔、胡散臭くて好きじゃない。
「では、頼んだよ」
秦王は軽やかに裾を払って立ち上がると「また」とひとつ微笑んで、星卿を従え元来た道へ帰っていった。
「…なんだかね」
清々しい背中を見送って、紫水は逢花と顔を見合わせ、はぁ~と大きなため息をついた。
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