五 詐術
今日は朝から大理寺職員総出の、『実務担当者会議』。
刑部と御史台から関係者を招き、律令の改正内容と運用手順の確認などを一日がかりで行う、年に一度の大事な日。
「…ごめん、後で見せて」
広い大講堂の最後尾。紫水がこそっと隣の夏逸に耳打ちした。
「あ、もう時間か。いってらっしゃい」
「ありがと。恩に着る」
紫水は両手を合わせると、スススッと後ろ向きに下がって、廊下に出た。
「肝心な日に、まったく…」
廊下を歩きながら、紫水はボヤく。
秦王府に正午前。―今日が、その約束の日。それが年一の会議と被るとは…、ツイてない。
メモ魔の夏逸が同僚なことが唯一の救い。優秀な彼には、国士学時代から助けられてばっかだ。
今度、噂の飯店で彼の好きな麺でも御馳走しないと―。
「―紫水」
「ん?」
小声で呼ばれ、後ろを振り返る。すると半分開いた扉の隙間から、紅い袖が手招きをしている。
紫水は誘われるまま、部屋に滑り込んだ。
「御用ですか?小卿さま―」
暗がりに潜んでいたのは、怪しいモノじゃない。
三角のあご髭を撫でるのは、大理寺のナンバー2こと、燕小卿。
「こんな大事な日に、今から外出かい?」
「はい。秦王府に呼び出されてまして」
彼は現帝の従兄弟・燕王の長男。本来なら朝廷勤めをせずとも自領で悠々自適に過ごせる身分だが、その有能さから中央に召喚され、官僚をしている変わり者だ。
去年大理寺に着任し、同年入庁の紫水と夏逸を殊更に目をかけていた。
「秦王府か…。陸家には伝えた?」
実は燕王一家と陸家は、代々家族ぐるみの付き合いをする間柄。
聡明な彼は九瑶公主が初めて宮中祭祀に現れた際に、それが紫水だとひと目で見抜いた。以来、折に触れて公主を励まし、陰から支えた人でもある。
そして昨年、大理寺で再会し、紫水はまた、あれこれとお世話になっている。
「秦王直々のお声がかりなので、大丈夫かと」
「なら、よいが…。最近、ちょっときな臭い話が多くてね。今は自重かなと」
「はい。ご配慮ありがとうございます」
「いいんだよ。って、そうそう。先日の温泉宮の宴席、紫水はと~っても退屈そうだったねぇ」
予想外の台詞に、紫水は目を見張った。
「いらしてたんです?お声かけて下さればいいのに。ほんと、ヒマ過ぎて死ぬかと」
「死んだ魚の目だったもんねぇ。とはいえ、公主の婿探しの席に、こんなオッサンがしゃしゃり出るわけにはいかんからね。なにぶん、あの装いだし」
小卿が唇に人差し指をあてる仕草をした。仮面は意外と、素性を隠すらしい。
「全く気づきませんでした…」
「一応、身バレ防止で髭剃ってたの。で、今日は短め」
「あぁ、それで三角が小さい…」
実は童顔の小卿。髭が無い方が紫水の好みだが、彼の立場上、ハクを出すために生やしてるらしい。
「あなたも気づかれてなかったよ、他の者にはね。…ほんと、実によく化けて」
くっくっくっと思い出し笑いをする彼に、紫水は「もうっ!」と顔を赤くしながら、ポコポコと彼の腕を叩いた。
「いや…、『繊月公主』とはよく言ったものだよ。はかなげなお姿は男の目を
「今のところ、特に」
「そう。まだ、動くには早いか…。いやね、このところ、『兄弟ゲンカ』が激しくて。我々下々の者は多分に気を揉んでるんだよ…。特にあの宴席で、事実上の九瑶公主のお披露目があってから、若手が騒々しくてね」
「…婿選びとか、本気にするヤツ、いるんですか?」
「水面下で動いてるって話は、よく耳にするよ。この手の話に皆、今の時期は過敏でね」
保身のため、どちらにいい顔をするか。宮中の奴らは皆、そんなのばっかだ。
「ほんと、勝手ですよね。人のこと、なんだと思ってるんだか」
「気持ちは分かる。私にはどうにもできないのが、もどかしいがね」
小卿は眉を寄せ、小さくため息を落とす。皇族かつ中立を貫く、一見すると派閥争いから遠い彼も、それなりに苦労は多いらしい。
「いいんです。いすれにせよ、私は今まで通り、仕事に励むだけですから」
「頼もしい部下だ。それでこそ陸 紫水だ」
よしよしと、犬にするように紫水の頭を撫でる。これは昔から変わらない。
「そう、あと一つ」
「なんです?」
「次の吏部試、大理寺からはあなたを推薦したから」
「え。あれって、四年目とかで受ける進級試験ですよね?私、まだ…」
「薛寺正の遺言でね。一年で三年分の仕事を教えたから、受けさせてくれって。私も彼には借りが沢山あってさ」
目を見開いた紫水に、小卿は片目をつむっておどけてみせた。こういうお茶目なところ、紫水は好きだったりする。
「今年、あなたが受けて、来年は夏逸―。大理寺の最年少コンビは既に貴重な戦力だからね。結果も出てるし、我ら上層部も育成に前向きなんだ。試験まであと三か月。頑張って」
「…はい」
深く頷いた紫水に、「じゃあね」と手を振って、燕小卿は部屋を出て行った。
秦王府は西市の北、豊泉坊の東にあった。
皇城から少し離れたこの場所に敢えて拠点を構えた兄の思惑を、紫水は知る由もない。
「一応、剣は持っていくか…」
紫水は大理寺を出る前に、飾り気のない上衣に着替えた。
宮中じゃないのだから、普段着で問題無かろう。官人の正式装束は官袍に冠と笏。普段の仕事着は軽装の略式官服だが、それを公主が着てるのも妙だし、突っ込まれてもこちらが困る。
二重生活は紫水最大の秘密。バレる訳にいかない。
ちなみに病弱な九揺公主は普段、都に近い温泉地で静養していることになっている。宮中行事の時だけ都城に戻って来て、養育元の陸家に滞在する、という設定だ。
その陸家と秦王府はひとつ
多くの人で賑わう王府は、秦王人気の高さを表している。その中を紫水は脇目も振らず、奥殿へと向かう。
ここへは何度か来た事がある。だからあの男の居場所は、おおよそ見当がついた。
「ご機嫌よう」
奥殿の西端、庭に面した部屋の戸が放たれていたので、紫水は一声かけて入った。書棚の前に立っていた男が振り向き、茶色の瞳を大きくした。
「あら、軽装で―。雰囲気が違うので、一瞬わかりませんでした」
「この後、用事があるので」
短く答えた紫水に「そうでしたね」と星卿は愛想程度に口角を上げた。彼は手にした巻物を書架に戻すと、紫水の前にやって来て
「公主、ご足労頂き恐縮です。…申し訳ありませんが、秦王殿下から『芙蓉別邸にお越し頂く様に』と、お言伝を承っております」
「…」
聞いてないぞ。
頬がピクッとひきつるのを押さえて、紫水は重い声で返す。
「…わかりました。では」
腹立たしいが、早く済ませて仕事に戻りたい。紫水はくるっと踵を返して、戸へ向かった。
「公主、お待ち下さい。臣がご同行いたします」
「一人で参ります。どうぞお気遣いなく」
こんな奴と一緒なんて、冗談じゃない。
駆け寄って行く手を遮った彼に、紫水は右手を上げて拒否の意を示しだが、彼は声を強めた。
「いえ。馬車をご用意しております、こちらへ」
彼はさっと紫水の横にまわり込み、廊下へと誘導の手をのばした。
怪訝な顔で見上げる紫水に対し、有無を言わせぬ星卿の、笑顔の圧の強いこと。しかもよく見ると、入口の左右に控える府士たちは文官のはずなのに、妙にガタイがいい。
この男、ハナから逃がす気はないらしい。
「…わかりました」
仕方ない。紫水は小さく肩を上げると、先導されるまま彼の背に従った。
二人が乗った馬車は秦王府を出て、真っ直ぐ東に向かった。別邸は都城の中心を南北に走る朱雀
秦王の私的な宴席の場となることの多いこの屋敷は、広い蓮池や梨や牡丹と四季折々の花が咲く庭が自慢。珍しい酔芙蓉も咲くことから、芙蓉別邸と呼ばれている。
折にふれて呼ばれるので、紫水も馴染みのある場所だ。
「どうぞこちらへ」
馬車を下りた紫水は、いつもと違う様子に周囲を見回した。
普段、別邸には最低限の家人しかいないのに、今日は大門から出迎えの人数が多い。しかも初めて見る顔ばかり並んでいる。
後で宴席でもあるのか…?紫水は不思議に思ったが、星卿に促されるまま、奥の母屋に向かった。
歩いているうちに、前に来た時と邸内の雰囲気が変わっている事に気づいた。
中庭に花が増えている。回廊に並ぶのは、芍薬だろうか。
華美だった装飾も少し抑えられ、瀟洒な印象に変わった。所々補修もされて、以前よりも小綺麗になった気がする。
前を歩く星卿が母屋に来たところで不意に足を止め、紫水に振り返った。
「少々、
「そうですね、前よりは」
「それはよろしいことで」
素直な感想に満足そうに微笑むと、彼は段を上がり、観音開きの扉に手をかけた。
「どうぞ、お入りください」
コツコツと段を上がり、部屋に入る。
広い居間の真ん中には大きな漆塗りの
ここの内装も、かなり手を加えたらしい。
目新しい調度品に、目新しい窓飾り。隅々に飾られた花木。淡色で揃えられた室内。整えられた空間はまるで他人の屋敷のようだ。
「失礼します」
中央まで足を進め、紫水はあたりを見回したが、広い室内には誰の姿も無い。
「…」
おかしい―。
紫水は振り返り、戸の脇に佇む男をジッと見据えた。
笑顔の仮面は刃の如き視線にも、動じる様子はない。それどころか紫水を横目に隣の部屋に歩を進めると、その奥に向かって声を張った。
「待たせてすみません、成景殿」
すると、さらっという衣擦れの音と共に、ひとりの男が姿を現した。
「いいえ、とんでもない事でございます―」
兄ではない、見知らぬ男の登場に面食らう紫水の前に、本人が進み出る。
明るい陽の元で見るその正体に、紫水は目を見張った。
「これは、どういう―」
言っているうちから全身から血の気が引いて、唇が震える。
端正な顔に、すらりとした身のこなし。
涼し気な切れ長の瞳に、精悍な眼差し。
紅い官服を纏った男は、間違いない、あの夜の人物―。
「ご降嫁のお相手、成景殿です」
「―」
「彼の喪が明けるまでの半年間は
ようやく謀られたことに気づき、紫水はがく然とした。
してやられた―。
あの日、兄が明言を避けたのは、事実を知ったら反抗しかねないこと予期したからか。
いくつもの違和感が符号のようにぴったりと重なっていく。それと同時に、全身の毛が逆立った。
「そなた、初めからそのつもりで―」
この計画を立てたのも、きっとこの男。
だからあの時、兄ではなくコイツが答えたんだ。ボロを出さないように―。
違和感を拾えなかった自分のぬるさに、紫水は奥歯をぐっと噛みしめた。
「主上のご裁可も頂きました。祝言の日取りは易断にて、改めてのお沙汰となります」
稀代の策士は顔色一つ変えることなく、嫌味な程に恭しく頭を下げた。
「外堀は埋めた、と言うことか」
刺すような口調に動じることもなく、仮面の男はまたあの嫌な笑顔を作る。
「急なことでさぞ驚かれたでしょう。どうぞ、ごゆるりとお休みくださいませ。臣はこれにて、失礼仕ります」
深々と礼をすると、さっと袖をひるがえして彼は部屋を出ていった。
残された紫水は靴音高く遠ざかっていく男の背を、ただ見送るしかなかった。
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