六 悪夢の続き
どうにかして、この状況を打開しなければ…。
陸家に手助けを頼んで、太公母の元に駆け込むか。
必死に考えを巡らす紫水の後ろで、カツンと靴音が鳴った。
「驚かせてすみません」
振り返ると、いつか見た顔が穏やかに微笑んでいる。
「本当に。こんな卑怯な手を使うなんて、信じられません」
今すぐにでも襟元掴んで、ぶん投げてやりたい。
「人を、何だと思ってるんです」
怒りに震える声が不貞腐れた子供みたいで、悔しさに拍車がかかる。
そんな紫水に、彼は申し訳ないと言わんばかりの顔で、胸に手を当てた。
「お伝えしたら、きっとお断りされてしまうと思いまして。すこし強硬な手段を取ってしまいました。申し訳ございません」
そう言って紫水の前に跪き、頭をさげた。
「…止めてください。今更そんな」
フンッとそっぽを向いた紫水に、彼は困った顔をしてみせる。
「お嫌いですか、
「大っ嫌いです」
「左様ですか。でしたら」
悠々とした仕草で立ち上がると、成景は紫水の手を取った。
「混乱されるのも当然です。まずは、こちらでお茶でも」
「何をのんきに。莫迦なの?貴方という人は!」
カッと頭に血がのぼり、鬼の形相で睨みつける。元来、短気な性分。これは絶対、父親の血。認めたくないけど。
対する彼はこれといって慌てる様子もなく、握った手を指で撫でながら、にこやかに続ける。
「ご機嫌を、損ねてしまったようですね」
「当然でしょ」
「やっと貴女に逢えて、舞い上がっているのです。お許しください」
「なんと図々しい」
「そんな顔も可愛いですよ」
流れるように揶揄われ、紫水の顔が真っ赤になる。
「そ、その口は、浮かれた言葉しか吐けないの?」
「想い人を前に、平常心ではおれませんから。…あの夜から毎晩夢に見ていました。宵に下りた天女を、この腕に抱いて眠る日を」
「…!」
歯の浮くような台詞を爽やかに語る男を、紫水はありったけの敵意を込めて睨みつけた。
春の日が射し込む部屋の中。
選ばれし者が纏う紅の官服に身を包む男は、悔しいかな、誰が見ても絵になる。
あの時は気づかなかったが、落ち着いた声の割には肌ツヤもよい。話しぶりからある程度場数を踏んだ年増かと思ったが、案外、兄と大差無いのかもしれない。
「私の顔に、何か?」
「…意外と若いのか、と」
素直な感想に、今度は成景が目を丸くした。少しの間の後、ハハッと声を上げて笑った彼は、少年のように無邪気な表情をみせた。
「兄君と同じくらいですよ」
「
「それは…」と呟くと、彼は唇をくっと引き締め真顔で紫水を見つめた。
「公主は、年上はお嫌いですか?」
「そんなこと聞いて何になる?」
今更なんの意味があると。
紫水の趣味嗜好を考慮するには、遅すぎるだろう。
「
悪戯っぽく笑ったその顔があまりにもまばゆくて、不覚にも、紫水の心臓がトンと跳ねた。
駄目だ。顔がいい。良すぎる。
陽の光の下で見る彼はあまりにも眉目秀麗で、紫水は思わず見惚れてしまう。
「他の男に気を移すなんて、許せませんから…。そんな素振りを見たら、嫉妬に狂って自分でも何をするか分かりませんしね」
「よく言うわ。婚姻なんて、男にとってはただの出世の道具でしかないのに。取り繕わなくて結構です」
「取り繕う?天女は全てお見通しでしょう?我の心に、一点の曇り無きことを」
「あなたは口が上手くて、ほんとに嫌になる」
「嘘だと思いますか。私は、ずっと―」
月の様な静けさを湛えた彼の瞳に、紫水の顔が揺れた。静寂の世界に鈴の音がひとつ落ちて、紫水は成景の腕に囚われた。
「こうしたかった―」
紅い衣に包まれて、紫水の身体は涼やかな香の立つ胸に沈んだ。
「ずっと、考えていました。愛しい人に触れる瞬間を」
きつく絡んだ逞しい腕と、トクトクと鳴る心臓の音。
頬から伝わる彼の鼓動に、紫水の身体が熱くなる。
「今日、やっと、叶った―」
紫水の髪に、彼の頬が重なる。
大きな彼の手が、紫水の肩から腕を往復する。
すっぽりと腕に収まる華奢な身体に目を細める。
「腕の中に貴女を眺めて」
背中に回った腕がゆるみ、二人の間に隙間が出来た。身体を反らし顔を上げた紫水を影が覆い、あっという間に視界は墨で塗りつぶされた。
「―」
重なった柔らかな温度。
慈しむようについばむ唇。
前とは異なる、初々しい恋人同士の様な甘い接吻に、紫水の胸が大きく上下する。
触れあう唇が小さく震え、紅い衣を握る紫水の手にギュッと力がこもる。
「公主…」
ようやく顔を離した成景の親指が、紫水の唇をなぞった。
ぼんやりした目で見上げると、視線が重なった。
滔々と湧く森の奥の泉のように、奥深い眼差し。その静かで強い瞳に否応なく惹きつけられ、紫水の胸が大きく波を打つ。
「委ねて、私に…」
彼の左手がゆっくりと背中をなぞる。這うような手のひらに、動物の直感が、夢見心地の紫水の背中を一気に駆け抜けた。
駄目だ。逃げなきゃ―。
甘い声に流されていた自分にはたと気づき、紫水はグッと肚に力を入れる。
「
紫水は彼の右脇に左手を伸ばし、腰剣を一気に引き抜くと、切っ先を喉元に向け突き上げた。
「この私が、流されるとでも?」
喉を低く鳴らして、相手を睨みつける。
「この縁談、辞退して下さい―。私は降嫁なんてまっぴら御免です」
きらめく剣先に彼を見据え、紫水は努めて冷静に言う。
「それに、使い古しの手練手管に転がされるほど、子供じゃありません」
「…そう、それは申し訳ない。大人の女性に、失礼でしたね―」
この緊迫した場面でも彼は微動だにせず、涼しげな眼を細め、口元に笑みを留めている。
気圧されたら負け。ここで尻込みなんて出来ない。
不気味なほど落ち着き払った男に怯む気持ちを押さえて、紫水は負けじと睨み返す。
「えぇ。舐められては困ります」
若かろうと未熟だろうと下級だろうと、一人の官吏とて奉職している身。軽んじられるのは不本意極まりない。
「では、私も本気を出しましょう―」
声色が変わったと思うと、彼はサッと身をそらし、剣を持った紫水の右手に袖を伸ばした。だがそれを、紫水は咄嗟に振り払った。
伊達に陸家で育ってない。この程度の動き、見極められないハズがない。
「手ぬるいか」
あざ笑うような呟きと共に、紅い袖が目の前を舞うと、ガキンッと耳につく金属音が部屋に響いた。
「―え」
我が身に起きたことを、紫水はすぐには飲み込めなかった。
背中から男の左腕に身体を拘束され、握っていたはずの剣は遠く、視界の端の壁に刺さっていた。
「十五から
滔々と耳元で囁く声はどこか仄暗く、紫水は頭から冷や水を浴びせられた心地がした。
「…はな、して」
掠れた声が少し震えると、彼が喉の奥で笑いを転がした。
「公主は過激なのが、お好きなようで」
「…っ」
動けない悔しさと屈辱に、全身が燃えるように熱くなっていく。
「では、遠慮なく―」
それは勝利を確信した上の、宣戦布告。
身構えた紫水の頭上で、笑いを噛んだ気配がしたと思うと、彼の右手が紫水の左胸をぎゅっと掴んた。
「な、にっ!」
「着痩せするのですね。手からこぼれそうですよ」
そう言うと指を折り、感触を確かめるように強弱をつけて何度も動かした。
「ひゃぁっ」
彼の手の中で自由に形を変える胸。紫水は目の前の光景に後退ったが、背中には彼の身体が隙間なく貼りついて、少しの身動きも出来ない。
「やっ、めっ!」
「柔らかい…。ふんわりとしていて、ずっと触っていられる」
いちいち言葉にされ、恥ずかしさに全身がわななく。それでも紫水は、一抹の
「ふざけないで―」
見上げた顔は信じられないほど、穏やかな笑みを湛えて紫水を見つめていた。こんな状況なのに、至って平穏と云わんばかりの
「…綺麗な瞳だ。その名の通り、深く澄んで」
左胸を弄んでいた右手が、そのまま紫水の左の頬に添えられた。
「私を映して」
饒舌な唇が紫水に覆いかぶさる。
ぷちゅっと音を立てて、生き物のように蠢く温度に、紫水は背筋を凍らせた。
重なった部分から出る微かな水音が、静かな部屋に響く。
圧倒的な絶望が、締め付けられた身体を染めていく。
成景は手を緩めることなく、接吻の雨を降らせる。
か細い身体を抱き留める腕にさらに力を込めると、成景は目線だけを上げ、格子戸の奥から覗く視線に焦点を合わせた。
「―」
目だけで射殺せる自信はある。
炯々と蒼い炎を燃やす視線とぶつかった小さな目が、瞬きをして、足音を忍ばせ廊下を戻っていった。
気配が去ったのを見届けた成景は、紫水の頬に添えていた右手を耳の後ろに滑らせ、ぐっと自分に引き寄せた。
「…うっ…く…っ」
くぐもった声を飲み込んで、更に深く長く、喰らうような
気を散らすものが無くなった今、この時とばかりに果実を貪る。小さな唇を吸いながら、成景は縦横無尽に舌を這わせる。粘膜の重なりあう感触が理性を蹴散らし、ただの本能だけの生き物に塗り替わる。
抱きしめた身体が徐々に熱を持ち、甘い香りが匂い立つ。胸の下に回した腕を掴む彼女の手に、ぎゅっと力がこもる。そんな小さな抵抗も、成景にとっては最早刺激にしかならない。
頭を押さえていた右手に力を込め、口づけを更に深くする。舌を捕らえ、絡め合わせては己の熱を華奢な身体に注ぎ込む。
「はぁっ…」
長い接吻を解くと、紫水の身体は糸が切れた人形のように力を失っていた。
紅く腫れた彼女の唇の端から、どちらのものか分からない透明な糸が垂れた。
「…もっと、欲しくなりました―」
「なっ…」
息も絶え絶えな紫水を軽々と抱え上げると、成景はそのまま奥の部屋へと向かった。
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