七 閨の賭け
成景は片手で透ける絹の幕を払うと、華々しい刺繍が施された紅色の寝台に紫水を組み敷いて、王者の如く見下ろした。
繊月と謳われる横顔は、まさに天の至宝。
上気した頬が絹の紅によく映えて、その美貌に輪をかけていた。
「ずっと、この時を夢見ていました」
「は…、なに、を…」
宝石をはめこんだ瞳を揺らして自分を見上げるひとに、口角も緩む。
「決まってるでしょう。男女が閨ですることなんて」
「ー!」
『房中術』なるものを指導されたのは、あの忌々しい花嫁教育の時。
そんなもの、自分には関係ないと思っていたのに。
けれど、現実、目の前の男は獲物を見つけた猛禽類の瞳をして、自分を見据えている。
これは間違いなく、貞操の、いや、人生の危機。
「―いや、無理。むり、ムリだから。ほんとに」
自分に覆いかぶさる男の胸を、紫水は両手で押し返すが、まったくもってビクともしない。
「何を今更…」
「い、今更って!」
「嫌でもいずれは降嫁するのです。秦王の人選なら、貴女も安心でしょう?」
「何言ってんの!秦王だろうがなんだろうが、私のことは私が決める。余計なお世話よ!」
「…ほんと、強情ですよねぇ」
こんな状況下でも余裕なのか、クスクスと笑う男に、紫水の怒りは天を衝き抜ける。
こんな腹黒に一瞬でもときめいた自分を、殴ってやりたい。
「こんなこと、絶対に認めないからっ!」
「この期に及んで、諦めの悪い…」
「アンタこそ、力づくでどうにかなるとでも?」
「そんな不粋なことは」
「じゃあ、今すぐどきなさいよ!」
「…公主は、そんなに私のことが、お嫌いですか?」
「えっ…」
悲しげな声で言うと、整った顔が眉をひそめた。
憂いをたたえた表情がなんとも蠱惑的で、つい言葉に詰まってしまった。
「…す、好きも嫌いも、知らない男に押し倒されて喜ぶ奴なんて、いるわけないでしょ!」
「それもそうですね」
ふふっと目尻を下げて笑うその顔が、無邪気な少年そのもので、また心臓がドキンと音を立てた。
「では、好きな男なら、良いのですね?」
「え、あ、まぁ…」
「ならば、賭けましょう―。半年後、貴女は私を好きになる」
「は…」
突飛な発言に、紫水は驚きのあまり目を見開いたまま、その顔を見つめた。
何言ってんだ、コイツ。
誰が、誰を好きになるって?
ポカンと口を開けた紫水にお構いなく、彼は紫水の頬に手のひらを寄せて、ニコリと微笑む。
「貴女が私を、好きになればいいのです」
「…ばっ、莫迦じゃないのっ!」
「大丈夫。自信はあります」
「どうして私が、アンタなんか!」
「だから半年で、じっくりと教えて差し上げます」
「何言ってんのっ!」
「一度冷静になって考えて下さい。貴女に兄君の意思に逆らう術も無いでしょう?既にご裁可も下りている。ここは素直に、状況を受け入れてみては?」
「だからって簡単に『はい』なんてと言うヤツいるか!」
「意地を張りたい気持ちは分かります。しかし、そろそろ諦めましょう。いずれはこうなる運命ですし」
「だから勝手に決めるな!」
「怒った顔もそそりますね。可愛い」
わめく紫水を、彼は眩しいほどの笑顔でなだめる。
大人の余裕か無神経か。こんな状況でもさわやかな風を吹かせる彼に、紫水は混乱してしまう。
「―あのね、私、結婚とかしてる暇ないの。忙しいの、マジで」
「あぁ、仕事ですか」
「あ」
「叫んでましたもんね、頑張ってるんだって」
一番忘れてほしい話を蒸し返され、恥ずかしさのあまり、全身の毛穴から蒸気が吹き出した。
「あれは…、誰も居ないと…」
「公主ともあろうお方が不用心ですよ。宮中は『壁に耳あり』、と言うではありませんか」
爽やかに笑われ、紫水は恥ずかしさに身悶える。ツラい。
「…なんで、よりによって、アンタが…」
「出会ってしまった、それが全て」
先ほどとはうって変わって、柔らかな接吻が落とされた。重ねた手のひらに指を絡め、まるで本当の恋人の交わりのように、甘く刻んでいく。
心臓が強く胸を叩いて、鼓動が耳の奥で響き渡る。
熱の重なるところから、融けてしまいそうで。
どうして、この男のすることは、こんなに心地よいのか―。
甘美な誘惑に流されそうになりながらも、紫水の小さな理性は快感をぐっと押し返して、拒絶の意思を両手に込めた。
「止めて。私は、こんなことで流されない―。地位が欲しいなら、他をあたって」
「…そんなことばかり気にして」
「気にするわ。絶対に嫌」
頑なに拒み続ける紫水に、成景の目の色がふっと深くなった。
「―そこまで嫌がる理由が、あるのですか?」
「…」
「心に決めた男がいる、とでも?」
「…いないよ、そんなの」
「なら、よいでしょう?他国に嫁ぐ事に比べたら、貴女の負担は軽い」
成景は顔を反らした紫水の頬に指を寄せ、その瞳を間近に見つめた。
「不自由はさせませんよ」
「婚姻なんかで縛られるのは、まっぴら御免よ」
「束縛されるのはお嫌いですか?女性はみな、自分ひとりを愛して欲しいと言うのに」
「何処ぞの女と一緒にしないで。私は人に頼らずとも、生きていけるので」
「頼ってくださればよいのに」
「人を選ぶんで」
「見る目が無いですね」
「自分で言うヤツ、信用できないし」
「それもそうですね」
成景は涼しげな眼差しを緩め、くすっと笑った。少年のような無邪気な笑顔に、紫水は否応にも視線を奪われてしまう。
ズルい。この顔は反則だって。
「それか何か、『したくない事情』をお持ちなので?」
唐突に核心を突かれ、紫水の頬が強張った。
事情なんて、そんなの口が裂けても言えない。
「…アンタには、関係ない」
「夫となる男に隠し事は良くないですよ」
「誰が夫よ」
「では、今ここで、身体を繋げたら、認めてくれますか?」
「なにい…、ひゃっ!」
閉じていた脚を膝で割られ、驚いた紫水が小さな悲鳴を上げた。閉じようとしても、太腿を深く押し込まれ叶わない。重なった下半身の質量に彼を意識させられて、紫水の全身が一気に強張った。
「すぐにでも、夫婦の契りを交わしましょうか」
「ふざけないで!」
「既定路線ですが」
「どいて!今すぐどいてっ」
「では、答えて下さい。貴女は身分を偽ってまで、何故官吏をしている?陸家は何故匿うのです?そして、何故、兄君に監視をつけられている?」
「えっ…、監、視…?」
予想外の単語に、紫水は目を見開いた。
監視って、どういうこと…?
揺れる瞳に動揺を察したらしい。成景の声が低くなった。
「―展開が早すぎるでしょう。お披露目の宴席からわずか数日で降嫁先が内定し、屋敷も用意され、引き合わせの段取りまで―。あまりにも出来過ぎている。初めから用意されていたとしか思えない」
「…」
言われてみれば、確かにそうだ。そもそも降嫁の話自体、この二年「こ」の字も出てなかった。
「何者かが貴女を、宮廷から追い払おうとしているのでは?」
「誰、かが、私を―?」
言葉は途切れ、目線が宙を泳いだ。
…もしや、気づかれた―?
あれほど慎重に足が付かないように、細心の注意を払っていたはずなのに?
唇を噛む紫水を、成景が真っ直ぐに見おろす。
「何を、隠しているんです?」
「―」
だんまりを決め込む紫水に、成景はわざとらしくため息をつく。
「私は、公主をあの地獄からお救いしたい。私との婚姻はその為には最良の手段でしょう?どうか素直に、聞き入れて下さい」
「口先だけの綺麗事は聞き飽きてる。人を権力の道具としか見ない人間を、誰が信じるか」
利己主義はびこる宮中にいて、甘い言葉にのせられるほど愚かじゃない。
「なるほど。それは正しい判断ですね」
キッと睨みつける紫水に、成景がいかにも楽しいという風情で笑った。それが余計に腹立たしくて、紫水は更に眼差しを強くする。
「いいでしょう―。では視点を変えます。私を選べば、貴女に利益がある」
「は?」
「私が留守の間は、行動の自由を保証します。今まで通り、仕事を続けてもいい」
「…」
不覚にも、内心揺らいでしまった。
出仕さえ続けられれば、どうにでもなる。大事なのは行動出来る事だ。
「一種の契約だと思って下さい。二人の時は、夫婦を演じ切る。それ以外は貴女の好きなようしていい」
「…本当に?」
「えぇ。ただし条件があります。貴女が隠している事を教えて下さい。共有できたなら、自由は保証します。事によっては手助けも出来る」
「…」
確かに、この話にのる
「今は、話せない―。絶対に」
覚悟を宿した紫紺の瞳に映った顔がゆがんで、小さくため息をついた。
「話してくださらないのなら、仕方ない…。では、今から抱きます」
「なっ―」
言い終わらないうちに、成景は紫水の両手の手首を頭上に抑え込み、抵抗の術を封じた。
そのまま唇を塞ぎ、言葉を奪い、右手で胸の下の帯を引き抜いて、衣を乱した。
抵抗しようにも、組み敷かれたこの状態では微動だに出来ない。手首を押さえつける力は、おふざけの範疇を越えている。
この男、本気だ―。
紫水は途端に怖くなり、両足をジタバタさせた。が、どうにもそれ以上動かない。
彼の手は遠慮なく衣の袷を割り、人目につくことのなかった紫水の肌を露わにした。
「衣の下も、絹のように艶やかですね」
ほうっと感心したように息をついた成景は、開いた袷に手を入れると鎖骨から肩、胸から脇へと輪郭をなぞるように、何度も手のひらを滑らせた。
「まこと美しい身体だ」
「やめっ!!」
上半身を撫で下ろした手が腰を滑り、臍の上でくるくると円を描く。
たったそれだけの行為なのに、紫水の全身が震えあがる。
「なめらかで心地の良い肌だ。ずっと触っていられる」
「ひゃあっ…」
かたい手のひらが紫水の身体を縦横無尽に這い回る。
ゆく先々で紫水の反応する場所を見つけては、意地悪く何度も責め立てる。
初めて浴びる快楽に、紫水のつま先は宙に線を描き、ぷっとりと腫れた唇から艶息が漏れる。肩を揺らした紫水に、成景が白い歯をこぼす。
「存分に、悦くなって下さい」
紫水の耳に響くのは、脳を溶かすほどの甘い囁き。注がれる快感に気がふれそうになるのを堪えながら、どうにか唇を動かす。
「おねが、いだから、ま、待っ、て…」
「いいえ。待ちません」
散々もて遊ばれ、羞恥で瞳を濡らす紫水を静かな青瞳が見下ろす。
自分の輪郭をくっきりと映す彼の奥深い瞳。このままどこまでも沈んでしまいそうな感覚が恐ろしくて、ついに紫水は白旗を揚げた。
「言うか、ら…、おね、がい、終わりに、し、て…」
「欲しくないのですか?ここはこんなに可愛くなっているのに」
刺すような瞳とぶつかって、全身が燃えるように熱くなる。
耐えられなくて視線を逸らすと、今度は首筋を甘く咬まれ喉を震わせた。
「んっ…」
もう限界だった。初めて知る快楽は、抗えるものでは無かった。
「み、みつけっ、るの…っ」
混乱と快感で使い物にならない身体は息さえもうまく出来なくて、声は途切れて、上手く言えない。
「なんの?言ってごらん」
責めは決して緩めること無く、幼子に語りかけるような優しい声色で、成景が問う。
「か、華雲、外宮、のっ、真犯人を…っ!」
「よく言えました―」
また唇を塞がれ、言葉は音になる前に、すべて彼に飲み込まれる。
もうダメ、来る―。
あっと目を見開くと、底知れない波が身体の奥から湧き上がって弾け散った。
「悦かったでしょう」
衝撃的な経験に、紫水はもはや何も考えられなかった。
横たわる四肢は糸が切れたように放り出され、唇は
「は…ぁ…」
脱力した身体も、沸騰した脳も、何ひとつ動かない。
ただ呆然とする紫水の唇を啄みながら、成景は満足そうに汗ばんだ身体を抱き寄せた。
「溶けてしまいましたね。可愛い―」
褥を覆う黒髪を指で梳きながら囁く彼は、今日一番に美しい顔をしていた。
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七惺国恋綺譚 〜仮病の公主と密計の許婚〜 西野 すい @15daifu9
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