八 再会

 

「はぁ…」


 筆を持つ手が止まること、数回目。ため息が止まらない。

 昨日の今日で、スッパリ切り替えるなんて、出来っこない。

 朝目が覚めたら、夢でした―。

 なんてオチ、期待しても無駄。今朝はちゃんと誰かの腕の中で、目が覚めた。

 青白い部屋の中で見る静かな横顔は、とても綺麗で、それが余計に腹立たしくて。

 タヌキに化かされるほうが、まだマシだった。

 なのに、いつもどおりに出仕して、いつもどおり法廷に出て、今日という一日が粛々と過ぎていく―。

 なんて巫山戯ふざけた世界なんだ。この世は悩む若者を置き去りにして、気にも留めてくれない。


「陸ちゃんっ!何呆けてんの」

「ん?」


 いつもなら即刻反撃対象の台詞にも、今日は反応が鈍い。


「行くよ!新年会っ」

「あ…、そうだった」


 呼びに来たらしい王信に、今日の予定をようやく思い出す。


「早く〜。紫水たち〜っ!」


 遠くで叫ぶ夏逸に、立ち上がって手を振る。 


「今行く〜!」


 考えてても、何も変わらない。

 今夜は待ちに待ったご馳走の日。楽しまなくちゃ。

 


 都城を東西に隔てる朱雀大路の東側、通称『左街』は、官公庁の出先機関や高級店が多く並ぶ繁華街。その左街の中でも平康は日没とともに坊門を閉ざす合図である暮鼓ぼごが鳴り終わった後も、人の話し声が絶えることなく、灯篭の明かりが煌煌と夜を照らす、大人の遊び場。

 その中でも別格の荘厳な外観を誇る店の中に、紫水たちはいた。

 都城屈指の高級酒店、『湖碧楼』。

 玻璃ガラスの酒器には香り高い酒が満ち、各地から取り寄せた名産品を用いた料理が皿を彩り、選りすぐりの美女たちが宴席に花を添える、まさにこの世の極楽。何を間違ったのか、その一部屋に足を踏み入れた大理寺の面々は辺りを見回して、感嘆の声をあげた。


「小卿さまっ!いいんですか?こんなスゴイところ、みんなで来ちゃって…」


 興奮気味の紫水は本日の主催者、燕小卿に駆け寄り、袖をクイクイとひっぱった。


「ふふ…。実は、去年の個別予算が余っててね。一年間仕事に追われっぱなしで、手つかず状態で。折しも程寺正が着任したことだし、今日くらいはパーっと、ね?」


 目を輝かせる紫水に、小卿は悪戯ぽく片目をつむってみせた。


「もう、小卿さまってば、気前良すぎですから〜。いい上司にもほどがありますって」

「でしょー。もっと褒めてー」


 キャッキャとじゃれ合うその隣で、予算担当の夏逸が顔を曇らせる。


「それって、裏経費じゃ…」

「逸くん。おだまり」


 シッと人差し指を立てた燕小卿に、夏逸が肩をすくめた。


「えっつー、今日くらい帳簿を忘れて楽しもうよ。こんなの、ウチらが気安く遊べる席じゃないよ」


 何といっても、下級役人が自腹で来ることなんて、まずありえない超がつく高級店。遊ぶ阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら遊ばにゃ損損だ―。


「ま、そうだね」


 夏逸は眉を寄せつつも小さく笑って、ストンと腰を下ろした。


「皆、杯の準備はよろしいか~?」


 ガヤガヤした部屋に響く乾杯の音頭は、もちろん燕小卿。


「…今年も一年つつがなく任務を遂行すべく、皆々一致団結し、律令の守り人として責務を全うすることをこの盃に誓おう。―また、新たに着任された程寺正のご活躍を祈念して、乾杯!」

「カンパーイ!!」


 高々と杯を天井に掲げ、宴が始まった。

 大理寺の人間は、よく飲みよく喋る。天井まで響く笑い声に、隣の声が聞き取れないほど。


「いやぁ、さすが中央。宴席ひとつとっても豪華ですなぁ」


 酔いもひと通りまわって、席次もくずれた頃、末席に座る紫水と夏逸の間に、程寺正が割って入ってきた。


「お顔真っ赤ですよ、飲まされましたね」


 サッと果実汁の器を差し出した夏逸に、程寺正は「すまないねぇ」と受け取ると、一気に飲み干した。


「―ほんと、みんな酒に強いよねぇ。びっくりだよ」

「ウチは笑い上戸が多いんで、さぞ驚かれたでしょう」


 お代わりを注ぎつつ、夏逸が労をねぎらう。


「いやぁ、活力みなぎる人ばっかで、圧倒されっぱなしよ」

「寺正は同調なさらなくてよいので。どうぞ、ご自分のペースで飲んで下さい」

「助かるよ~。流石に飲まされ過ぎて、記憶飛びそうだよ。で、陸ちゃんは、飲んでも変わらないんだね」


不意に話を振られ、紫水は軽く杯を上げて答える。


「そうですかね。あの人達みたいに、莫迦飲みしないだけかもしれませんが」


 顔に出ないだけで、ホントは結構酔ってる。あんなことがあったおかげで、今日はヤケ酒である。

 保身の為、幼少期から様々なモノを飲まされ育ったせいもあって、酒にも酔いづらいのは確かだ。


「女の子だもんね―。大事大事。お父さんも安心だ」


ヘロヘロと手で波を作る。こっちも結構酔ってる。


「あ、踊り子が来ましたよ」


 夏逸が指さす方に視線を向けると、きらびやかな金糸の装飾が施された衣を着た娘が楽士を引き連れ、部屋に入って来た。


「みな、注目~っ。俺からの景気づけだ。そら、手拍子ーっ」


 どうやら陶寺正がポケットマネーで呼んだらしい。あの人も、飲むと財布のひもが緩くなる人種だ。

 賑やかな席が、輪をかけて騒がしくなる。

 踊り子の鳴らす鈴と、横笛と、太鼓のリズム。月琴が旋律を奏で、鈴が歌を歌う。

 踊り子は異国の鳥のように絹の翼を広げ、透ける袖がひらひらと雲のようにたなびく。

 宙を舞う裾がめくるめく光をまき散らし、回り回り見せる袖が弧を描いては鈴の音を降らす。

 飛び散る金色の光と、重なるリズム。手拍子と掛け声。

 誰しもが歓喜の渦に巻き込まれ、部屋の熱気が最高潮に達する。

 ――ダダダンッ

 弾けるような爆音が腹に響いて、皆が一斉に動きを止めた。そして割れんばかりの拍手が、踊り子たちに惜しみなく注がれた。


「すごかったね~」


 興奮して手を叩く紫水が横に座る夏逸に声をかけると、彼はまばたきもせず、彼女たちを凝視してる。


「なに、あまりのことに、見惚れちゃった?」

「…ちがう」


 ゆっくり紫水に視線を移し、夏逸が震える声でつぶやく。


「あの月琴の子、オレの幼馴染だ…」 

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