九 恋の病
賢くて、誠実で、細かいことにもよく気がついて、愛想もいい―。そんな絵に描いたような優等生、夏逸。
隣で黙々と文机に向かう同期をチラチラ眺め、紫水は考える。
えっつーの欠点って、なんだろう?
圧倒されるような迫力とか、統率力なんか確かに持ち合せてない。そして筋肉もない。(国子学時代、剣の手合わせは自分が勝った。気まずかった。)
だがそんなこと、筆が武器の文官にとって大した問題じゃない。
じゃあ、一体、なにがある?
それをこの後、紫水は嫌という程知ることとなる―。
左街、平康坊。紅花飯店―。
「おいしいぃ~っ」
「それはなにより」
コクのある鳥白湯は塩気が強めで、食べ盛りの若者の胃袋を存分に満たしてくれる。
「で、例の彼女、見つかった?」
レンゲで汁を味わっていた夏逸はチラッと店の奥に目線を流し、残念そうに首を振った。
「ここで働いてるって、嘘だったのかなぁ…」
先日の大理寺の歓迎会で見かけた月琴の娘が、夏逸の初恋の少女に瓜二つだったらしい。その日以来、まじめな彼にしては珍しく、仕事中もどこか心ここにあらずな顔をしていた。
「あの陶寺正が、そんな嘘つくかねぇ」
あの日、興奮する夏逸の話を聞いた陶寺正が、踊り子をお酌に呼び、あれこれと聞き出した。その話の真偽を確かめるべく、ふたりは今日この店に来ている。
「陶様、実はオレをからかってるとか…。もしくは、彼女がワザと避けてるとか…?」
「あの御仁はそんなことしないよぉ。それに、彼女はまだ、なんにも知らないはずだし」
ふざけてるように見えて、陶寺正は漢気ある人。部下の恋路を茶化したりしないはず。ちなみに、踊り子を引き留める為に廊下で結構な額を渡していた。…まぁ、その後、ふたりが何処に消えたのかは、敢えて触れないでおく。
「うん…。そだね」
「…恋する乙女、みたいな顔しちゃって」
憂い顔の夏逸に、紫水は苦笑い。
「ねぇ、えっつー。そんなに気になるの?昔に遊んだ女の子のことが」
「そりゃね。告白なんて出来なかったけど、ずっと好きだったし。その子が、突然目の前に現れたらさ…。しかも、ずいぶんと綺麗になって…。あー。分かんないかなぁ~、この心臓がキュッと縮こまるような、ムズムズした、じっとしてらんない感覚」
「ちょっと難しいわ…」
本当に分からん。紫水は頬杖ついて、視線を遠くに投げた。
広い店内には、紫水とそんなに違わないだろう年頃の娘が盆を手に、忙しそうに客席の間を行き来している。賑やかな店内は若い男も多く、気に入った娘に声をかける者もチラホラ。みんな、青春を謳歌している。
「あ、あれ、見て」
「なになに?」
紫水が指差す先、ひとりの娘が四人組の客にからまれていた。傍観していると、娘が腕を掴まれて、「ひっ」と声を上げた。
「待って、あれはダメでしょ!」
男が肩を抱き寄せると、今度は娘がキャッと悲鳴を上げた。度を越した行動に、店内がざわつき始める。
四人組は娘に絡む上等な衣を着たいかにもなボンボン風の男と、見るからにガラの悪い男三人。どうみてもタチが悪いヤツだ。
「止めて下さいっ!」
ついに娘が叫んだが、周囲の人間は誰一人として助け舟を出さない。店の他の娘たちも、怯えた様子で遠くから眺めているだけだ。
咎める者がいない気配に調子に乗って、男が席を立つと、一緒に来ていた男たちも立ち上がり、彼女の肩を抱いたまま出口に向かって歩き始めた。
もう、見てられない。
「―どこ行くの」
娘の腕を後ろから掴んだのは、紫水だった。
「仕事を途中で放りだすのは、良くないだろう?」
両腕をそれぞれに掴まれ涙をためる娘に、紫水は冷たく言い放つと、その手で彼女をぐっと引き寄せた。
「なんだお前―」
娘の手首を握る男が、肩を左右に揺らして紫水の顔を覗き込んだ。
ガタイのいい取り巻き達が四方を囲い、外の視線から紫水たちの姿を隠す。
まったく、身の程をわきまえない莫迦どもが―。
ヒヒっと下品な顔で距離を詰める男たちを、伏し目がちに右から左に流し見しながら、紫水は娘の手に自分の手を重ねた。
「嫌いなんだよ。仕事サボる奴」
無言でギュッと手を握り返した娘に、紫水はその手を握り返した。
今更だが、官服じゃなくて良かった、と心底思う。替えの少ない仕事着を、こんな事で汚したくない。
「…でも、それ以上に嫌いなんだよ。
言い終わるより早く、紫水は娘を自分の背後にまわし、彼女の腕を掴むボンボンの肩に手刀を落とした。
「痛っ!なにしやがるっ」
立ち上がり拳を振り上げた男の懐にスッと潜り込み、袖を掴む。肩を差し込むようにして背中を丸め、紫水は握った腕を真下に思いっきり振り下ろした。
「あっ、あぁぁ〜っ」
間の抜けな声と共に、男の両足が弧を描き、ドサッと大きな音を立てて床に沈み込んだ。
華麗に決まった、背負い投げ。
周囲は水を打ったように静まり返ると、やがて「オォ〜」という歓声が湧き起こった。
「早く起きな。仕事の邪魔だよ」
そう言って覗き込む相手を、男は呆然と見上げた。
見目麗しい少年は、恐ろしいほど冴えた笑みをうかべていた。
◇
夏逸が呼んできた店の男と用心棒に、ボンボンたちは連行されていった。たんと灸を据えてもらいたい。
後からやって来た店主らしい男に、礼がしたいと案内されたのは、なんと店から歩いて数分の湖碧楼。
「ありがとうございました。最近、ずっと目をつけられてて…」
「店だと逃げられないから、怖かっただろうに」
庭の見える個室で、紫水と夏逸は見事な料理を前に、娘の酌を受けていた。麺屋はここの賄いに出した味が好評だったので、片手間で始めたらしい。
そう教えてくれた彼女は
「でも、驚いちゃいました。まさか陸さまが、女の子だったなんて」
「職場でも時々、間違われてるよね。オレも入学式で見た時、すんごい美少年がいるなぁって思った」
「美少年って」
微妙な顔をした紫水に、明依がカラカラと笑った。
「あんな強いんだもん。そこら辺の男子よりモテるはずですよ」
「武芸の心得がちょっとあるだけだよ。これでもれっきとした文官だし」
「もったいないー。他の子たちも、お名前知りたがってましたよ」
「夢は夢のままにしておいて」
苦笑いしつつ、紫水は杯を口元に運んだ。
「陸さまと夏さまは、ご友人ですか?」
「職場の同僚だよ。大理寺の」
「お役人さまなんだ。すごい」
「だから今日の事は、他言無用ね。色々と仕事に支障が出ると困るんだ」
「もちろんです」
紫水の口止めに、明依はニッコリ頷く。素直な子だ。
「それにしても、大変な仕事だね。昼は麺店で夜は踊り子とは」
「まだ見習いなんで。宴席に呼んでもらえない時は大広間で給仕してるんです。お客さんは麺屋と違って気前良くて、こっちの仕事の方が好きで」
「そりゃね、ここは金のある奴しか来れないし」
お酌されながら夏逸がうんうんと頷く。
「ここは長いの?」
「はい、前に出るようになってから、もう七年になります」
その言葉に、紫水がチラリと夏逸を窺った。彼の顔が紅潮していくのが、横目でも分かった。
「…ねぇ、月琴の女の子、知り合いだったりする?」
声を落とした夏逸に、明依があごに手を添え、「ん~」と唸った。
「先日、初めて上階の席に行って。その時にいた子なんだけど…」
「楽団ですよね。どんな子です?」
「小柄で
「よく見てるねぇ」
感心する紫水に、夏逸は照れくさそうに肩をすぼめた。
「…あの子、かな?」
「知ってるのっ?!」
ガタンと立ちあがったふたりに、さすがの明依ものけぞった。
「たぶん、ですけど…」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます