二 大理寺の初嵐

 大理寺だいりじ――。

 皇城官庁街の西端に位置するこの役所は、 立法の刑部法務省、検察の御史台と共に『三法司』の一翼を担う、国の最高司法機関最高裁判所である。

 大理寺の職員は国家運営の要諦『律令』の守り人として、法書と筆を武器に、日々全国から届く大量の訴状と戦っていた。


「おはようございま―っす」


 墨痕淋漓とした扁額を掲げる門をくぐり、すぐ横の庶務棟の階段を駆け上がる。番役に声をかけて荷物と外套コートを預け、役人の制服・官袍を受け取る。

 ドタバタの新年の連休も過ぎ、今日は仕事始めの日。 

 シワひとつない碧色の官服に袖を通すと、絹糸のつめたさが心地よくて、なんだか自然と晴れやかな気分になる。


紫水しすい、おはよー」

「あ、えっつー、おはよ~」


 後ろから現れたのは、同僚の夏逸かえつ

 官僚養成学校・国士学で机を並べ、ともに官位八品の評事ひょうじとしてここ大理寺に配属された、唯一の同期かつ良き友人だ。


「お互い、生きて春を迎えられたねぇ」

「ほんと…。感慨深いわ…」


 ふたりは顔を見合わせて、安堵の息をもらした。


『知力、体力、胆力、腕力』

 およそ文官に似つかわしくない標語が正殿の大広間に掲げられる、この職場。

 武官もあきれる『根性第一主義』の文官が集い、終わりの見えない仕事に忙殺されつつも、明るく元気に、時に実力行使で任務を全うする―。

 そんな大理寺の新人教育方針は、『習うより慣れよ』。

 その言葉通り、たいした説明もないまま、紫水たちは配属初日から荒れ狂う現場に放り込まれた。

 他部門の同期はこれから研修だというのに、紫水たちは登朝三日目にして、法廷に立っていた。

 頭上を飛び交う、理解不能な専門用語。新人にも一切容赦のない、鬼のような上司。右も左も分からないまま、必死に駆け回り、定時を告げる正午の鼓が鳴る頃にはヘトヘトになる日々が半年ほど続いた。


「あっという間の一年だったね…。振り返る時間もなかったよ」

「ほんとそう。我ながら、よく頑張ったと思う。この一年は試験前より睡眠時間削ったわ」


 人手不足のしわ寄せは、末端に来るのが世の常。

 新人であっても、課される仕事量はベテランと変わらない。出来ませんと泣き言を言ったところで、書簡の山が減るわけもなく。

 時間の限り、仕事をこなすこと。乗り切る術は、他にない。そんなことを身を持って学んだ一年だった。

 同じく新品の官服に着替えながら、夏逸が言う。


「オレ、正直言うと、最初は紫水のこと、心配してたんだよね。けど、この一年で考えを改めた。さすが陸将軍の直系、女子とはいえ根性が違うわ」

「うむ。筋肉を侮るなかれ」


 紫水の実家、陸家は古来より名だたる武将を輩出する、国内有数の武官の名門。

 家長であり父の陸将軍は今、兵部の尚書長官としてこの国の軍事トップの座に就いている。


「そういえば、給金、ちょっと増えてたね」

「見てなかった。え、評価上げてくれたってこと?」

「生き残ったご褒美、かな」


 大理寺が『新人殺し』の異名を持つ職場だと知ったのは、配属から数か月経った頃。「後の祭りだね…」と呟いた夏逸の、かすれた笑みがまだ記憶に新しい。

 どうりで配属希望の面談時に吏部人事の担当役人が「体力に自信はあるか?」と聞いてきたワケだ。


「そうそう、新任の寺正のこと聞いた?」


 正殿に向かい並んで歩く道すがら、夏逸が聞く。

 大理寺の長官は『寺卿』といい、位人臣の極み。下っ端役人からすれば、雲の上の人。それに続く副官にあたるのが『小卿』、その次が『寺正』で、ここが実務の責任者となる。

 そして、新人にとって何よりもハードな仕事が、大理寺正の『随身』役。

 随身といえば聞こえはいいが、その実は小間使い。寺正がその日使う資料の用意や、文章の作成、出席する会議の手配、決裁書の準備と管理、他部門との調整―などなどを一手に引き受ける。

 まぁ、簡単に言えば、雑用係だ。


「うん。穏やかな人らしいよ。前任者曰く」


 残念ながら、今年は新人の配属がない大理寺。

 2名定員の寺正の随身は、紫水たちが引き続き受け持つこととなっている。


薛規せつき様が言ってたの?」

「うん。『オレと違って、人格者だから安心しろ』だって」


『大理寺の鬼神』こと薛寺正は、泣く子も黙る凄腕官僚。

 人間離れした業務量をこなし、前任者が積み残した百件を超える重刑の決裁を三ヶ月足らずで片付けた、驚異のやり手。

 ちなみに重刑審査には前例の確認など手間がかかるので、通常は一件あたり2、3日を要する。

 まさに神の御業。いや、鬼の所業。どちらにしろ、ただの人間ではない。


「その言葉、オレは信じたいよ」

「私も」


 目を合わせ小さく笑い合ったふたりは、仲良く肩を並べて正殿の階段を登った。


「花が咲いてる―。春だね」


 白い花びらが風に舞いあがり、紫水の足元に落ちた。

 鼻で空気を吸い込むと、柔らかな花の薫りが鼻腔に満ちた。狂気的なこの役所にも、もれなく春はやって来るらしい。


「今年は穏やかに暮らしたいなぁ」


 夏逸のつぶやきに紫水もうなずいた、その時。


「陸評事」

「はい―。…ゲッ」


 声に振り返ると、そこには紫水が最も避けたい生物の姿が。


「…なんだ『ゲッ』て。新年早々、失礼極まりない奴だな」

「あぁ、視界にでっかいゴミが入って、つい」

「あ?ゴミだと?」

「あ、趙岐ちょうぎじゃん。久しぶり―。元気してた?」


 火花散る間にサッとすべり込んだ夏逸が、ニコニコの笑顔を振りまく。


「なんだ夏逸か。お前ら二人そろって続投か。陸なんて、てっきり逃げ出すと思ってたのに」


 嫌味を絵に描いたような顔の趙岐に、紫水はフッと薄暗い笑みを浮かべた。


「…無駄口ばかり叩いて。よっぽど暇なんだな、門下もんか省って」


 生まれながらの負けず嫌いは、黙っちゃいない。夏逸がツンと袖を引くが、一度点いた火は簡単には消えない。


「この仕事出来過ぎクンの俺様が、クビになるとでも?」

「あーあ。今日も自己肯定感が致死量越えてるな―。めんどくさいな―。で、新年から絡み酒ですか?門下のかまってちゃん」

「誰がかまってちゃんだ」

「ん?誰もが知る、門下省の趙岐殿のニつ名ですけど?」


 まーた、始まったよ…。

 夏逸は言い争いする二人の間で、「はあっ」とため息をついた。

 このふたり、本当に本当に、相性が悪い。

 何のコンプレックスの裏返しか、ことごとく突っかかってくる趙岐。

 武官の家で男兄弟の中で育ったせいか、繊細そうな見た目とは裏腹に、すこぶる口が悪く、負けず嫌いな紫水。

 普段はだいぶ抑えてるせいか、この男を前にすると紫水の口からは悪態が流れる川の如く、あふれて止まらない。

 わかってる。彼女に悪気はない。心の底から思ってる事を、彼女は口にしてるだけだから。


「おいっ、夏逸っ!」


 やっぱり飛び火したよ…。

 巻き込まれるのは御免だけど、『大理寺の育ての母』としては、逃げるわけにもいかない。


「どーしたの、趙岐」

「どーしたもこーしたも、お前コイツの世話係だろ。教育なってないじゃないか」

「ごめんごめん。紫水に他意はないから、気にしないで」

「いや、これ絶対悪口だろ」

「すまんな、元来の正直者で」


 とぼけた顔する紫水を、趙岐はギロッと睨みつける。

 それを鼻先で笑うようにして、(いや、たぶん嗤ってる)紫水が唇に指を当てた。


「…あれ?まさか、国士学で万年三位だったこと、未だに根に持ってる―?」


 国士学は成績順で座席が決まる仕組み。

 首席卒業の紫水と二番手の夏逸は、常に隣同士。それから何かと目立つ紫水とその面倒を見る夏逸、という構図が出来上がった。

 きっかけはあったものの、長男と末っ子、自然と打ち解けるのも早かった。ふたりが同じ配属先なのも、吏部の配慮だろうと夏逸は思っている。


「はぁ?俺のほうが官位上だそ?分かってんのか?」

「半級の差で何言ってんだか。相変わらずケツの穴の小さい男だな」

「紫水!おくち!」

「あぁ。口が勝手に」


 紫水はシラを切ったが、夏逸に『めっ』と睨まれた。大理寺の母は今日も躾にキビシイ。


「おいっ、今のわざとだろ!」

「なんだ図星か。ちっちぇー男だなぁ」

「なんだとっ!調子にのりやがってーっ」

「趙岐、乗せられないで。紫水も煽らないの」

「事実しか言ってないし。大理寺官吏は嘘つかないし」

「コラ!」

「夏逸っ!こいつの上司誰だよっ。文句言ってやる。うちの父上にも報告して、謝罪させてやるっ」

「あ。クレームはすべて、指導担当だった薛寺正にお願いします」

「薛寺正…?―あっ!」


 夏逸の言葉に、趙岐が目を見開いた。何かを察したらしい。


「さすが鬼神。他部門にも知名度高いとみえる」

「有名人ですから」

「きっと次の職場でも、その名を轟かせるんだろうねぇ」

「目に浮かぶねぇ」


 息の合ったふたりのやり取りに、趙岐が苦々しい顔をした。

 もう、大丈夫だ。


「で、趙岐殿。『うちの同期がご提言に伺いたいと申してます』って、お伝えしておこっか?」


 潮目を読んだ夏逸が、今がチャンスとばかりに収束に動く。彼も忙しいことには変わらない。


「ちなみに鬼神、今季から門下省だから。はい、お出口はアチラ」


 サラッと手を伸ばした紫水に、趙岐は振り返ってキッと睨みつける。


「まだ俺の話は終わってないぞ」

生憎あいにくウチは忙しいんでね。おたくさまと違って」


 シッシッと手で払う紫水に、趙岐の顔が赤く染まる。


「お、お前、上位を莫迦にするのも大概にしろっ」

五月蝿うるさいなぁ。こっちは新年から暇人に構ってるほど暇じゃないんだよ」

「なになに~?深刻そうな顔して、どうしたの~?」


 またしても背後から飛んできた声に、三人同時に振り返る。その姿に「うわぁ…」とつぶやいて、紫水は苦虫を噛み潰した顔をした。


「あ、王先輩」


 夏逸が呼ぶのは自称「大理寺の情報通」こと、四年目の評事、王信おうしん。噂好きのおしゃべりだが、意外にも数少ない新卒配属の生き残りで、紫水と夏逸にとっては一番齢の近い先輩となる。

 たいして仕事もしないのに、何故か誰からも嫌われない奇矯な人種で、あの鬼神さえも「アイツは手に負えない」と匙を投げた、クセ強の多い大理寺職員の中でも名を馳せる珍種だ。


「ちょっと皆さーん、何の話?」

「…まーた面倒なのが…」


 煩いやつに限って、地獄耳なのは何故。紫水の片方の眉が上がった。


「陸ちゃん。いつものことだけど、曲がりなりにも先輩に、その物言いどうなのよ?」

「今日も今日とて、王先輩は暇そうだなって」

「だからさ、もちっと尊敬して?貴重な生え抜きの先輩よ」

「そーですよね、オレ達の評価が良いのは、王先輩のおかげですよね。ホント、あざます」

「あざます」


 おどけて礼を組んだ夏逸にあわせて、紫水も同じく礼を組む。


「うわぁ~。嫌な子たち~」


 舐め切った後輩たちはクルッと先輩に背を向けて、コソコソと会話する。


「…とりあえず、この人お願い」

「え~。オレだってやだよ」

「今度、行きたいって言ってた果実酒の店、おごるから」

「…手を打とう」

「ちょっと君たち、先輩を無視しないの!」

「てか、俺を忘れるなっ!!」


 騒がしい二人に背中を向ける紫水の前に立ち、夏逸が両手で押し止めるようにして二人を諭す。


「まぁまぁ、落ち着いて。ほら、趙岐もそろそろ行ったほうがいいんじゃない?おたくの新しい司郎中、キビシイ方らしいよ」

「マジか」

「輝かしいご経歴にキズをつけたら、お父上が嘆かれるよ。ささ、急ぎな」

「そうだな。―おい陸、しっかり仕事しろよ。同期の足引っ張るんじゃねーぞ!」

「うるせー、ボケ」

「紫水っ」


 小声のはずなのに、夏逸に肘でこづかれた。なんと地獄耳か。


「…ほんと、勘弁してほしいわ。早く地方に転勤しないかな、アイツ」


 走りゆく背中に、紫水がボヤく。


「家柄的に無さそうだね…」

「ヘッ。これだからボンボンは嫌いだよ」

「今年も面倒なのは変わらんね…。先が思いやられるわ」

「まったく。今年も新年から不穏だわ…」


 紫水はやれやれと両手を伸ばし、大きなため息をついた。

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