第16話

 

 麗らかな午後、時間にして一時頃だろうか。

 ちくちくと刺繍を楽しむリンドブルム子爵夫人の元へ、本日はお休みなキャロルがやって来た。


「なーなー、おかーん」

「どうしたのキャロルちゃん」


 いつもの、なんも考えてない呑気な調子でぽてぽてと歩いて母へと声を掛ける。そして母はと言えばちくちくと糸を刺しながら、キャロルの方を見ずに答えた。


「あんねー、課題で刺繍して来いって出たんやけどもさー」

「あら、そうなの」


 そこまで言われてようやく顔を上げる母に、キャロルは首を傾げ、不思議そうに問いかける。


「ワシ刺繍出来るっけ?」


 いや、なんでそれを本人が知らないの。というツッコミは無理矢理に飲み込んで、母は微笑んだ。


「あらあら、忘れちゃったの? 基礎は教えてあったはずだけれど」

「きそ? 誰? よしなか?」

「うん、それはわたくしのセリフですわね。それ、どちらさま?」

「しらん」


 知らんのかい、とは思ったが口に出さず、母は微笑む。


「まったくもう。ほら、もう一度教えてあげますから、課題持ってらっしゃい」

「へーい!」


 明るく答えたキャロルが、ぽってこぽってこ歩いて課題を取りに向かったのを見て、母は仕方ない子ね、とひとつだけため息を吐いた。


 少しして、課題用の布と、キャロルにと用意されていた刺繍セットを片手にぽってこぽってこと戻って来る。

 そのまま母の隣を陣取ったキャロルは、満足気に頷いてから刺繍セットを広げた。


「それで、何を刺繍するの?」

「鷹!」

「待ちなさい。なんでそんな難易度が高いものを……。秋の国のキンモクセイにしなさい」

「えぇー、花とかチマチマしてて好きくないんじゃが」


 ぷぅー、と頬を膨らませるキャロルは母にとってはとてつもなく可愛らしいが、しかし、まずはそれよりも色々と問題があるのだと理解させなければならない。母は普段通りに微笑みながら、口を開いた。


「病弱な令嬢がそんな雄々しいもの刺繍したら変でしょう」

「なるほどそりゃそうか。ほんじゃキンモクセイにしよ」


 簡単な子で良かった。母はそんな風に思いながら、微笑み続けたのだった。


 そして、母に確認してもらいつつの刺繍が始まった。


「ほらキャロルちゃん、そこ歪んでますわよ」

「アイエエエなんでえええ?」


 母に指摘され、90°に首を傾げながら、不思議そうにそんな声を出すキャロル。

 基礎自体は授業でも出来ていたらしく問題はなさそうだったので、あとは応用力というか、まあそんなアレである。


「糸を引っ張るからです。もう少しふんわりさせるのよ」

「ほんわり……!」


 ぷるぷると手を震わせながら、それでも母に言われた通りに糸を緩ませるキャロルの目は、とても真剣だ。


「そうそう、あぁ、待って、そこはもう少し力を入れ、待ちなさいそれは入れすぎ」

「うえぇ? どんくらい?」


 頭の上に『?』が三つくらい出てそうな顔で刺繍糸を刺して引っ張ったら、なんか知らんけど止められてしまったキャロルは、またしても首を傾げることしか出来ないようだった。


「もう少しって言ったでしょうに」

「分からんて……こう?」

「そう、そのくらい。ほら、次の段に進みましょう」

「うぐぎぎぎぎ」


 分からんままに針を刺し、そしてちっくちっくと刺繍して行く。奇声まで発しながらも、それでも少しずつ針を進めていくキャロルは、それなりに貴族令嬢らしく刺繍が出来ているようだった。

 これなら大丈夫だろうと安心した母は、少しの間だけキャロルから目を離し、自分の刺繍を進め始めた。


 そして、ふと気付く。

 さっきまでキャロルの手で可憐なキンモクセイの刺繍が出来上がっていたはずなのに、なぜか白い糸で大きく何かが描かれ始めていることに。


「キャロルちゃん、それなに?」

「ちょーちょ!」

「キンモクセイは?」

「これの下!」


 なんでや。


「……そう。それでそこそんなにモゴモゴしてるのね」

「うん!」

「じゃあそれ一回解きましょうか」

「なんで!?」


 いや、なんでじゃないのよキャロルちゃん。と思いながらも、あらあらうふふ、と微笑みを絶やさない母。


「蝶を飛ばすなら空白の中にしなさいな。汚くなっちゃうわ」

「きちゃないのか……」


 しょんぼりするキャロルの可愛らしさに、自然とにこにこしてしまう母。そんな母子おやこの様子を眺める使用人達は微笑ましくてついほんわかしてしまうのだった。


 そして、ちまちまちくちく針を進め、夕方の四時頃になったくらいで、ようやくキャロルの課題は完成した。

 出来上がった刺繍をバッと掲げ、キャロルは叫ぶ。


「出来ちゃー!!」

「はいお疲れさま。少し汚いけど、及第点ね」

「ばっちくない! がんばった!」

「うんうん、そうね。よくがんばったわね」

「んぇへへー」


 褒められて嬉しいのか、照れくさそうに微笑むキャロルが可愛くて、母はキャロルの頭をよしよしと撫でたのだった。


 やだ、なにこの素敵な家族。


 ……そんな微笑ましい二人の様子をご覧いただけたところで、ものすごく今更だが、この世界の説明というか、すっかり抜けていたこの春の国の説明を、ちょっとくらいはしておこうと思う。


 春の国ア・レルピア。

 何度も言うが、草木の花々が年中咲き誇る植物の楽園である。つまり、杉花粉もヒノキ花粉も、ハンノキ花粉もそこらじゅうに飛び回っている、花粉症には地獄でしかない国である。

 香水や染物、それに伴って刺繍や織物などの、被服やファッション産業が発展している。

 作物は秋の国からの輸入に頼り切りだが、春の国で芽吹かせてから花を咲かせ、秋の国に持って行き育ててから収穫、という手法で作物の栽培が行われていることから、輸入というよりも共同事業というのが一番相応しい言葉かもしれない。


 余談だが秋の国と春の国とでは医療に明らかな差がある。

 それは秋の国が林業で成り立っている事が原因だ。林業とは常に物理的な危険と隣り合わせであり、森の恵にはベニテングタケなどの毒キノコも含まれているがゆえに、医療に関しては必然的に発展せざるを得なかったのである。

 そりゃまあ、木を切ってたらそれに押し潰されたり、熊のような獰猛な生き物と遭遇したり、土産と思って持って帰ったキノコが毒物で地獄絵図が発生したり、というのが日常茶飯事な秋の国の医療が発展しないわけがないのだが、今は関係ないので置いておこう。


 ともかく、春の国の医療はキャロルの知識が入らなければ世界最下位のままだったはずだ。

 薬師が医者と連携してようやく、平均的なレベルにまで持ち直したのである。

 そして、キャロルとセレスタイン殿下との婚約が決定した辺りから、二国の医療は良い感じに情報交換というか、まあ、なんかそんな感じで、上がって来ているところである。秋の国は高かった医療水準が更に高くなったので、一応はwin-winなのだろう。


 さてさて、ここで気になるのは『転生者』というものがこの世界ではどういう立ち位置に居るのか、だろうか。

 実を言うとこの世界、『転移者』の方が優遇されている。

 むしろ『転生者』の方は色んなことをやらかす奴が多かったせいで、様々な貴族たちや裏社会の人間たちに利用されてしまうことが多く、少々肩身の狭い思いをしてしまうことが多い。

 早い話が、『え、転生したの……へぇ……(ドン引き)』と邪険にされているのである。

 転移者は主に神から、世界の安定のためなどの救済措置として送られてくる者が多く、そのため、人々には好意的に見られているのである。

 早い話が『キャー! 勇者さまー!(大歓喜)』ってなっちゃうのである。


 そう、この世界は普通に『転移者』も『転生者』も存在している。とはいえそれはそんなに多い数ではなく、ひと世代に一人か二人、いるか居ないか、といったところだろうか。


 では、そんな世界でキャロルが家族や家族同然の使用人たちからどう見られているのかというと。

 簡単に言うならば『神より世界の医療発展のために異世界の知識を持って生まれた天の遣いであり、そのために現世の空気が合わず病弱となってしまった少女』である。なんてこった。

 あながち間違ってないのでこれもなんとも言えない。


 まぁ、キャロル自身に転生した自覚はあっても、前世を覚えていないのでこの世界で言う『転生者』の枠からは外れているのが、良かったのかもしれない。

 なんか中身おっさんみたいな子になってしまったが、それは神にもなんでか分からんのである。ごめんね。

 前世はもうちょっと普通の、ある程度落ち着いた人間だったのに、どうしてああなってしまったんだろう。解せぬ。


 キャロルの「うっせーよ知るかバカ花粉症無くせクソが」という言葉が聞こえそうだが、置いておこう。

 ともかく、今後のキャロルの未来は明るいので、どうか大目に見て貰いたいものである。



 

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