第7話
「…………マチルダ、これは流石に看過できない」
「秋の殿下……! どうして……!」
ふと、誰かに支えられた。不思議と少しだけ目のかゆみが治まり、鼻水も少し、マシになった。なにこれ、奇跡?
「キャロル・リンドブルム子爵令嬢、これを」
「え、あ……、どこ……? だれ……?」
なにがなんだか分からないけど、手に何かを持たされた。この手に慣れ親しんだ感触。目薬だ!!!!
「間に合ってくれ……!」
「あ……あぁ……」
ぶるぶる震える手で必死に目薬を差す。何滴か外したけど、ぴちゃんと一滴ずつ目に入り、じわりと痒みが引いていく。ハーブの有効成分がスーッとして、めちゃくちゃ気持ちいい。
ふわああああ……、目薬気持ちええ……。
「大丈夫か? 指は何本に見える?」
「あ、えっと……さん、ほん?」
そうやって指を見せられたんだけど、そんだけ近きゃ全然普通に見えるんですよね。なにこの金髪碧眼の無駄に顔面が良い人!? だれ!?
「良かった……」
ホッとした様子で破顔する顔面が良過ぎる人。
いやなにが!? まって全然わからん!! なにが起きたの!? なんかめっちゃいい匂いする気がする! 鼻水で全然分からんけど!!
「……あぁ、やはりこの香りは……」
「……はぇ?」
なんて?
「いや、なんでもない」
そう言って、すっと立ち上がった顔面の良い人だが、おかげでその良過ぎる顔面はよく見えなくなった。あー、あんまり目ぇ開けてたらまた痒くなるし、閉じとこ。
「……マチルダ、この件は生徒会役員としての責任を問わせてもらう」
「そんな……!」
なんか言ってるけど、ワシそろそろ帰ってええかな? めっちゃ鼻かみたい。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その令嬢を見付けることが出来たのは、本当に偶然だった。
ただ廊下ですれ違っただけ。
ふわりと、嗅いだことのないほどの心地いい香りを感じて、思わず振り返った。
「今のは……?」
「殿下、どうされたんです?」
側近のカインが不思議そうに問いかけて来たが、それどころじゃない。
「今、すれ違ったのは……」
「今ですか? ……あぁ、鈴蘭の君ですね」
「鈴蘭の君……?」
とことこ、と小さな影が歩いて行くのを視線で追う。すると、カインはなんでもない事のように説明してくれた。
「ご存知無いです? 有名ですよ? キャロル・リンドブルム子爵令嬢です」
「有名、なのか?」
学園の生徒の名前ならば完璧に覚えている。が、彼女が有名だということは知らなかった。彼女とはクラスも違う事もあり、殆ど見かけないからこそ仕方ないといえた。
「はい。病弱で、小さくて儚げで、騎士科の生徒から『守ってあげたい』と絶大な人気を誇ってますね」
「ふむ……、誰かと婚約などは……」
「それはしてないみたいですね。病弱だから、ってのが理由みたいです」
「……そうか……しかし、鈴蘭とは……」
思案する俺を他所に、カインはしみじみと頷く。
「そう、その鈴蘭ってのが儚げで、ほんと彼女にピッタリですよねぇ〜」
「……そう、だな」
……鈴蘭の根には毒がある。それはつまり、彼女には病弱という欠点があるという示唆なのだろう。皮肉なのだろうが、それ以上にその呼び名は彼女の香りに似合っていた。
薔薇のような華やか過ぎる香りでもなく、百合のように甘ったるくもない、爽やかで清涼感のある、なんとも言い難い、なぜだかとてもちょうどいいと感じる甘さの香りだった。
「殿下、本当にどうされたんです?」
「あぁ、気にするな。俺の運命を見付けただけだ」
誰にも感じたことの無い、甘やかで涼し気な、いつまでも嗅いでいたいと思ってしまうほどの香り。彼女はきっと、俺にとっての運命なのだろう。
「いやいやいや気にしますよ! 運命って、次期王妃じゃないですか!」
「……そのつもりはない」
「はあ!?」
「……彼女はそれに耐えられないだろうからな……」
「……殿下……」
だからこそ、潔く諦めよう。それで、彼女が少しでも健やかに生きられるのだから。
そう考えた俺は、彼女を陰ながら支えた。
頭の悪いナンパ男が彼女に近寄ればすかさず撃退し、彼女が転倒しそうになればすぐさま手を貸して姿を消した。
病弱な彼女の負担にならないように、学園の行事は彼女でも楽しめるようなものになるようにと心を砕いた。
この学園には、春、夏、秋、冬の国の王子がそれぞれ入学し、生徒会役員として日々を送っている。
そして秋の国ルピフィーン、秋の王子こと、セレスタイン・ポラ・ルピフィーン。それが俺だ。だからこそ、彼女には少しの迷惑すらもかけたくなかった。
何があったのか、鼻をすすって泣く彼女を遠目から見たりもしていた。
風に乗って聞こえた声は小さく、そして儚かったが、その時確かにそれは俺の耳へ届いた。
『セレスタ…ン様、恋しい』と。
彼女も、俺が運命だとどこかで知ってしまったのだろう。そして、己の病弱さに、身を引く覚悟決めたのだ。
すぐに駆け寄って抱き締めたかった。だが、それは出来なかった。彼女の決意を無駄にしてしまう行為はしたくなかったからだ。
なんという悲劇だろう。こんな脚本、演劇ではありきたり過ぎてすぐにボツにされてしまいそうだ。
そんなふうに日々を鬱々と過ごしていたとある日、元平民の少女が貴族の養子、男爵令嬢として編入してくることになった。
春の国にある学園だからか、春の国の王子がサポートとして常にその少女と行動を共にしているようだった。
それもあってか、その少女と各国の王子達の交流は自然と多くなった。俺を除く三人の王子達はその少女が気に入ったらしく、あっという間に親しくなり、その男爵令嬢は生徒会役員となった。
……職権乱用としか言いようがなかった。
それでも俺は、話したこともない、すれ違っただけの彼女のことをずっと気にかけていた。しかし、それがこんな大事件を巻き起こすなどと、一体誰が予想出来ただろうか。
こともあろうにあの男爵令嬢は、言い掛かりをつけ、彼女の必需品である目薬を強奪したのだ。
余程恐ろしく感じたのか、彼女は小さく震えながら大粒の涙を零していた。
何も見えなくなってしまう恐怖と戦い、それでも理不尽に奪われた目薬を手探りで探す彼女の姿は痛々しくて。
この所業はいくらこの国の王子に目を掛けられているからといっても容認出来るようなものでは無く、怒りで頭の中が真っ白になった。
本来であれば、俺は彼女に触れてはいけない。だがしかし、気付いた時には王子達の間から飛び出て、そのままマチルダから目薬を奪い、彼女へ駆け寄っていた。
想像していたよりも小さな体躯を支えながら目薬を手渡す。その時、彼女と、交わってはいけないはずの俺の視線が、ばちりと合ってしまった。
ふわりと香る彼女の甘やかな香りに、彼女以外何も見えなくなってしまう。
「……あぁ、やはりこの香りは……」
閉じ込めて、誰にも触らせたくない。自分だけのものにしたい。
大事に大事に、奥深くに。
その衝動を表に出さないように、必死に止めた。
「……はぇ?」
「いや、なんでもない」
俺を見て、頬を赤らめながらもどこか不思議そうに微笑んだ愛しい彼女を見て、あぁ、もう無理だ。そう思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その後、なんでか知らんが秋の国の王子からキャロルへの婚約打診が届いたリンドブルム子爵家は大騒ぎになった。
お前一体何したん!? と父や兄に聞かれたキャロルさえも意味不明過ぎて、首を90°に傾けてしまうほどであった。
「王子からいい匂いはしたの?」
「めっちゃいい匂いはしてたと思うよ! 知らんけど!」
「知らんのか」
兄の問いに、キャロルはそんな感じで答えていた。
そしてこれは、誰も知らないこの世界の秘密。
“伴侶”とは魂レベルで引き合うもの。
つまり、花粉症だろうと関係なく『いい匂い』だと感じればもうそれはその相手が運命なのだ。
なお、その運命の相手と一緒であれば、花粉症の症状は出なくなったりもするのだが、それは神くらいしか知り得ない事象だった。
ちなみに余談だが、元平民のあの少女も現代日本の転生者である。が、何を勘違いしたのか、自分がどこかのゲームか小説のヒロインだと思い込み、色々とやらかしてしまったので、自宅謹慎、後に修道院送りが決定してしまっている。お疲れ様でした。
そんなことなど露知らず、キャロルはズビズビと鼻をすすりながら首を傾げる。
首を傾げ過ぎて腰まで横に曲げ始めたキャロルを見て、父も兄も母ですらも苦笑した。
この世界での婚約は、相手を運命だと見定めた時以外はありえない。
家族全員で首を傾げながら、父は、まぁ、いい匂いしてたっぽいんだから大丈夫だろう、と楽観的に考え、了承の返事をしたため始めたのだった。
「あっ! ねぇ、まって、秋の国ってブタクサの花粉まみれじゃね!?」
「……まぁ、そうだろうなぁ」
「ええええええ!!! やだあああああああああ!!」
「頑張れキャロル。王族からの婚約なんてうちみたいな子爵家じゃ断れん……」
「やだああああああああああああ!!なんとかしてよおとうさまぁあああああ!!」
「すまん無理。それより花嫁修業しなきゃだなぁ」
「やだああああああああああああ花粉やだああああああ!!!!」
もの寂しげながらも呑気に笑う父の前で、キャロルは遠慮なくジタバタした。花粉も埃も舞い散る中、ただキャロルは嘆いていた。
がんばれ、花粉症令嬢。君の未来は明るいぞ!
「うわあああああああん!! 神てめぇこのやろうぜってぇおまえワシのこと嫌いだろクソがよおおおおおお!!!!」
大音量で叫ぶキャロルの声が響き渡る中、ぐっと親指を立てながらドヤ顔をキメる、名も無き神の幻影が見えた気がした兄だった。……いや、こっち見んな。
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