第3話

 


 さて、『香り』というものがこの世界ではとても大切にされているという説明を、前回させて頂いたのだが、皆様はきっとお気付きだろう。


 この世界に産まれた者に存在する、固有の『香り』。

 これが分からないことには、結婚どころか、友人を見つけることすら出来ないということを。


「ぃぐしっ! えぶしゅ! ひっぶし!」


 キャロルとて子爵家の令嬢である。ある程度の社交をしない訳にはいかない時も来るだろう。

 だがしかし、鼻水垂らして目や喉を真っ赤に腫らしたダミ声状態では、社交など夢のまた夢。むしろ表には一歩たりとも出せない状態だった。


 花粉症とは不治の病だ。

 キャロルが両親にそう告げた時、母は泣き、父は昏倒した。普通倒れるの母じゃね? とキャロルは思ったが、口には出さなかった。とっても良い子だからである。

 とはいえ、それでもキャロルは生きなければならない。それは使命感などではなく、花粉症で死にたくなんてなかったからだ。


 だれが花粉なんぞで死ぬかぁぁぁあ!! クソがああああ!! とは、キャロルが死にそうになるたびにキレ散らかしながら思う事だった。


 鼻水で溺れたり、喉の痒みからの呼吸困難でも、結局原因は花粉である。

 そんな無機物だか有機物だか知らんものなどには絶対の絶対の絶対に負けたくなかったのである。


「はっ……ぶちゅん! うぃい……ふっきんいてぇ……」


 本人にとっては笑い事ではないし、両親にとっても笑い事ではなかった。

 なんとかキャロルの症状に合わせて調合された薬を飲んでいるが、あちこちのかゆみだけはまだなんともならない現状である。掻けば掻くほど痒くなるのを知っているキャロルは、いつも必死だ。


 そんな日々を過ごしていたキャロルは、本日めでたく十歳になった。


 本来ならば六歳の時点でお披露目パーティのようなものが開催され、たくさんの貴族たちに顔を知ってもらうべきだったが、当時のキャロルの顔面は花粉によるアレルギー症状によりベッチャベチャのグッチャグチャであった。主に鼻水で。

 そんな訳で、急病ゆえの中止、そして娘は不治の病に罹ったのだと、全く嘘では無い話が周辺貴族たちに周知された。


 薬師たちが泣きながら開発した様々な薬と、キャロルが言うヨーグルトやハーブなどの食べ物による体質改善のおかげで、外には出せないがそれでもある程度見られるような姿になるまで、四年。されど四年である。

 花粉症以外はすこぶる元気な、常に鼻水を垂らし目を充血させた娘の姿にホッとする反面、両親は不安だった。

 こんな状態では、どこかのパーティなどに出せる訳もない。だが、それに関しては病弱という世間的な評価が役に立つ。病欠にしてしまえば良いのである。

 それよりも不安なのは、今から四年後。


 四年すれば、その辺の貴族の子女達同様に、国営のア・レルピアーノ学園へと通わなければならない。

 それは伴侶を見付ける他に、将来へ向けて人脈を築いたりする為でもあるし、貴族としての体裁もある。

 学園に通えない子供がいる貴族は、それだけで何かしらの問題(ネグレクトや虐待、その他色々)があると見なされてしまうのだから、この国の教育機関は優秀だった。

 ゆえにそこで、病弱なのだから通えないのは仕方ない、とはならない。


 花粉症以外はすこぶる元気なキャロルである。どれだけ鼻水を垂らそうとくしゃみを連発して背筋が吊ろうと、すこぶる元気なのである。

 学園で行われる健康診断にかかれば、通学に問題なしと太鼓判を押されること間違いなしな、健康優良児である。

 見た目が儚げで騙されそうだが、木登りしてくしゃみで落下してしまうくらいには元気なキャロルに、学園へ通わないという選択肢は残されていなかった。


 父と母は決断する。


 まずは残りの四年で、令嬢としてある程度の学生生活が送れるようにするために、目や喉のかゆみに対する特効薬と、常時滝のように鼻から流れ出て来る水のような鼻水をなんとかする必要があった。

 それでも、かゆみに関しては、あと四年あればなんとかなりそうな目処はついている。残る問題は鼻水と、キャロル自身。


 学園生活を送る上で必要不可欠なもの。それは淑女教育である。


「おかーん、あのさぁー、ワシのハンケチ知らんー?」

「…………キャロルちゃん、その喋り方、誰に教わったの?」

「しらん」


 発症から四年経った現在、キャロルの口調は何故かオッサンのようになっていた。

 外見はプラチナブロンドの超絶可愛い美少女なのにも関わらず、口から出る言葉は全て粗野で乱暴なオッサン口調なのである。どうして。

 だがしかし、その原因はハッキリしていた。あまりにもつらい花粉症のアレルギー症状に対して、心の中でどちゃくそにキレ散らかし、悪態を吐き続けたせい。つまり全ては、花粉症のせいである。


「まったくもう、こんなんで淑女教育なんてやって行けるのかしら……」

「ご安心くださいなお母様、人前ならクソデカな猫くらいかぶれますわ」


 それは、とても美少女らしい姿だった。きらめくプラチナブロンドをふわりとなびかせながら、キャロルは柔らかく微笑み、淑女の礼カーテシーをする。


 いきなりとはいえ、貴族令嬢の片鱗を母は見た。

 教えてもいないカーテシーを拙いながらもして見せた娘に、目を見張るしかなかった。


「……背筋が伸びてません。それに、仕草が乱暴だわ」

「うーん、やっぱむずかしーね、しゅくじょって」

「当たり前です。これも貴族として必要なことなんだから、ちゃんと学ぶのよ」

「へぇい、っぶしん!」


 そうして、母はかつて社交界を騒がせた一人の令嬢、レディ・ロクサーヌとして、己の娘に自分が持つ、淑女として受けた教育の全てを叩き込むことにしたのであった。


 なお、この時のキャロルは特に何も考えていなかった。なんか出来そうだからなんとなくそれっぽい動きをやってみただけである。

 キャロルには地球で日本人として生きていた記憶は無い。だがしかし、日本人として生きていた経験は感覚として残っている。

 本音と建前、己を偽り過ごすことがそれなりに必要なスキルとして常態化した日本人の前世があるからこそ、猫をかぶって振る舞うなど朝飯前なのだった。

 そしてその、知らんけど知ってる、というアドバンテージが、キャロルを限界まで図太くしているのだった。


 だからこそ、母がめちゃくちゃ乗り気で淑女教育を自分に施し始めたのは、キャロルにとっては予想外でしかなかった。


「ほら、背筋伸ばして!」

「ひぃぃん」


 まず始まったのは姿勢の矯正である。くしゃみの際は仕方ないが、なるべく令嬢らしく、おしとやかに、静やかに、可憐に、そして優雅に。

 そんな姿勢を叩き込む。

 くしゃみで鍛えられた背筋と腹筋を使い、キャロルは数日であっという間にマスターしてみせた。

 元々木に登れるくらいには運動神経が良いキャロルだが、物覚えも良かったのである。


「キャロルちゃん、この時は指先まで真っ直ぐ伸ばすのよ」

「吊るってこれ」


 その次に始まったのは、仕草の矯正だった。

 気を抜けばすぐ粗野で乱暴で適当な振る舞いをしてしまうキャロルだが、ここでようやく令嬢としての基本的な動作を覚えたのである。

 元々の素材は良いのだから、この病弱美少女な外見の令嬢がしてそうな仕草をするように気を付ければいいのだと、キャロルがキュピーンと気付いてからは早かった。 


「うーん、もうちょっとウエスト絞りましょう」

「なして?」


 その次に始まったのは、スキンケアやスタイルの見直しである。

 キャロルの知識や兄が持って帰った本のおかげで、ハーブを使った美容系のスキンケア用品はたくさん開発されていた。

 鼻水と花粉で顔面が荒れやすいキャロルのために、本当に色々開発されていたのである。

 (なお、マスクは開発されたものの、キャロルの鼻水を止めてくれないので論外だった。ただ鼻水でぐちゃぐちゃな布を顔面に貼り付けた令嬢になった。)


 キャロルの為の薬と併用して開発されていたスキンケア用品は、今や子爵家の大事な主力商品として、王家にも卸しているくらいの大規模な収入源となっているのだが、キャロルは知らない。


 しかし、姿勢や仕草、外見それぞれが何とかなるまでにはさすがに二年かかった。

 キャロルが十二歳になってしばらく経つ頃まで、目のかゆみに対する特効薬、『目薬』の開発が完了していなかったからである。


「表情は柔らかく、目を細めるのよ」

「うぎぎぎぎ」


 目薬で目の充血がおさまり、色んな余裕が出来たキャロルには、表情の矯正が始まった。

 ようやくくしゃみの回数も減ってきたからか、キャロルの表情は明るかった。が、しかし。


 柔らかい表情ってなんじゃい! である。


 現代日本で生きていた感覚で作り笑いをすれば「固い」と言われ、アイドルみたいな顔をしてみれば「くどい!」と窘められた。

 さすがのキャロルもお手上げである。めちゃくちゃ苦戦した。

 あまりにも苦戦するので、なんでだろうと思っていたら、色素が薄すぎる瞳の色のせいで紫外線に負けたり、花粉が目に入ってゴロゴロしたりと、目を長く開けられないことが原因だと分かった時には、母と二人で脱力した。

 仕方がないので、父と同じように常に薄目で表情を作るようにしたらすぐに上手くいった。

 

「それじゃあ復唱して。ごきげんよう、本日も馨しい花の香をお纏いですね」

「ごきげんよう、ほんじつもかぐわしいはなのかをおまといですね」

「もっと柔らかく言わなきゃダメよ」

「だめかぁ」


 ここまで来たらあとは口調だけである。

 とはいえ、生粋の令嬢である母の言葉をここ数年ちゃんと聞けているので、大体の表現は頭に入っていた。

 だから重要なのは、喋る時のタイミングや、抑揚、声色である。


 そうして、母とキャロルの涙ぐましい努力により、可憐で儚げな、老若男女から守ってあげたくなるとの感想が出そうなほどの、小動物系美少女、の巨大すぎる猫をかぶることに成功した、『病弱なキャロル・リンドブルム子爵令嬢』が爆誕したのであった。



 

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