第1章

第1話 静かで騒がしい放課後

 雨ヶ谷あまがいこうは、誰もいない放課後の美術室の隅で、一人キャンパスに向かって筆をとっていた。

 筆を動かす度に、癖のないつややかな黒髪がさらりと揺れる。

 切れ長の瞳をときおりすがめながら、細かい部分を慎重に描いていく。 


 光は一人でいることが好きだ。

 小学生の頃は何をするにしても親や友達と過ごすことが普通だった。逆に一人でいると友達がいないだの、かわいそうだのと言われ、一人でいることが許されなかった。


 でも、中学生になった今、光が一人でいることをとやかく言う存在はほとんどいなくなった。唯一、母親だけはいまだに光を心配して友達を作りなさいとか言ってくるが、それでも小学生の頃に比べればうるさくなくなったほうだ。


 そういった意味で、光にとって、中学生という身分は特別だった。

 友達と無理矢理遊ばなくてもいいという自由と一人でいていいよと言ってくれているような静けさで、光の心は明るく晴れやかだった。


 しかし、その幸せも長くは続かなかった――。

 静かな空間に、突然、耳をつんざくような声が響き渡る。


「うわあああん! 相棒! 助けてくれー!」 

 いつものように大きな声で泣きながら美術室に駆け込んできた幼馴染・相楽さがら涼太りょうたの姿に見向きもせず、光は黙々と絵を描き続ける。


「新聞部が廃部になるかもしれないんだ! ああ、俺はどうすればいいんだ!」

「……」

「頼れるのはお前だけだ、雨ヶ谷。頼む! 力を貸してくれ!」

「……」

「なあ、雨ヶ谷。お願いだよ~。ねぇ、頼むよ~。あーまーがーい~~~」

「やかましい!!」


 何度目かの呼びかけで、やっと筆を置く光。その額には、うっすらと青い筋が浮かんでいた。

「お前の新聞部がどうなろうと、俺には関係ないことだ。他をあたれ」

「幼馴染で親友でもあるこの俺に、そんな冷たいこと言うのか? ひどい、ひどすぎる! ふん! そんなこと言ってると、友達一人もいなくなっちゃうぞ?」

「フッ、残念だったな。俺に友達はいない」

「それ、自信満々に言うことか? じゃなくて!」


 涼太は光の筆を力ずくで取り上げ、遠くへ投げる。

「おい! 貴様、何をする!」

「……頼むよ、雨ヶ谷。この通りだ! 新聞部を助けたいんだ……」

 涼太は自分の頭を勢いよく地面に向けて下げる。


 光は涼太の癖のある色の明るい髪をしばらく見つめた後、めんどくさそうにはぁ~と息をついた。

「仕方ない。特別につきあってやろう」

「やったぁぁぁ!!!」

 涼太は光の両手を掴み踊り出す。


「お、おい! 離せ!」

「わーい! わーい! るんるんるん♪」

 涼太はさっきの態度とは打って変わって幸せそうな笑顔を浮かべながらしばらくその場でるんるんらんらん踊った後、光に向き直る。


「じゃあさっそくだが……演劇部の取材、手伝ってくれ!」

「演劇部の取材? なんだそれは?」

 幼馴染の切り替えの早さにあきれつつも、光は涼太の言葉に首をかしげる。


「うちの演劇部、いろんなコンクールで表彰されるほど有名なの、お前も知ってるだろ? 今度の文化祭でも公演があるらしい。それを記事にする。そして新聞部の廃部を回避する」

「どういうことだ? どうして演劇部の公演を記事にするだけで、新聞部を廃部から救うことができるんだ?」


「演劇部の威光を借りるんだ。校内外に人気のある演劇部の情報は価値がものすごく高い。そして文化祭の公演ともなれば、価値はさらに上がる。新聞部としては文化祭特大号と称して、演劇部の華々しい活躍から裏話までをスクープとして取り上げて、名声を取り戻したいんだ。そのためには取材とかで情報収集が必要で、そのための人員が足りないんだ。今新聞部は一年部長の俺だけだからな。そういうことで、お前に助けを頼んだんだ。さあ、雨ヶ谷。新聞部を救うために、一緒に立ち上がろうじゃないか!」


 光は涼太の早口を頭の中でスロー再生していた。

 たぶんこいつが言いたいのは、有名で人気のある演劇部を取材することで、新聞部の人気を高め廃部の危機から救いたいということ。そしてそれには人が必要で、この俺が選ばれてしまった。


 しかし取材となると、いろんな人から話を聞いたりして回らないといけないことが考えられる。しかも常にこのうるさい相良の隣に立って歩き回らなければならない。つまり、俺の一人の時間がなくなるということだ。そんなこと俺には耐えられない。


 答えを出した光は、涼太から差し出された手をはたき落とす。

「やっぱり断る」

「どうしてだよ!」

 涼太は悲しそうな顔を光に突きつける。


「俺は誰かとずっと一緒にことはできない。一人が好きなんだ。諦めてくれ」

「嫌だ! 俺は雨ヶ谷と一緒がいいんだ!」

「わがままも大概にしろ!」

「わがままなのはお前の方だろ? どうせ暇なのに、ちょっとぐらい手伝ってくれてもいいじゃんか!」

「何? 暇だと? 見てわからないのか? 俺も文化祭に向けて作品を製作中なんだ。手伝っている暇などない!」


 涼太はゆっくりと光の前にある絵に目を向ける。

 筆が動かされていたはずのキャンパスは真っ白いままだった。


「……まだ何も描かれていないように見えるんだが」

「今心の中で描いている」

「……」

(あと3日で文化祭だぞ!? ……ん? 待てよ)


 口から出そうになったツッコミをなんとか飲み込んだ涼太は、ふいにあることに思い至り手をあごに当てる。

(今、雨ヶ谷は「心の中で描いている」といった。ということは、紙がなくても心さえあれば絵は描けるってことだ。ということは……)


「ちなみに今やってるのって、美術室じゃなくてもできるものなのか?」

「まあ、そうだな」

「歩きながらだったりしゃべりながらでもできるものか?」

「まあ、そうだな」

「もしかして一人じゃなくても出来ないことでもないよな?」

「まあ、そうだな」

「よし! じゃあ取材行くぞ!」

 涼太は光の制服の袖をずいと掴むと、そのまま美術室の扉に向かおうとする。


「おい! ちょ、ちょっと待て! まだ頭の中の絵が完成していないだ!」

「早速今日演劇部に取材しに行く予定でな。そろそろ待ち合わせの時間なんだ。さあ、行こう! 頼りにしてるぜ、相棒!」

「な、何!? お、おい! ちょっと、待て! 俺は絵を描くんだ! 絵を描くんだ~~~!!」


 涼太は叫び続ける光の身体を引きずりながら、美術室を後にした。

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