二章 アースィル神団(4)
とにかくディノンたちには時間がなかった。旅支度もせぬまま馬車に乗り、一行は城塞都市ソルリアムを発った。街道を南へ向かい、日が沈むころに近くの街に入り、そこであらためて旅支度をすることにした。
旅支度を終え、小さな宿屋の食堂で遅めの夕食を取った。
時刻は二十一時過ぎ。ディノンは例の〈老衰の呪い〉の影響で六十過ぎの姿になり、メイアは逆に十六歳ほどの娘に若返っていた。
「正直、気味が悪いな」
無精ひげが生え、しわが深く入った頬をなでながら、ディノンは渋面を作った。
「一番の問題は、このあとだな。昼に調べた病――〈終生回帰症〉だったか? あれが本当なら、俺は明日の夜明けごろに、また赤ん坊に戻る。今朝は寝てたから分からなかったが、いったいどんな感じで戻るのか……。ちょっとおっかねぇな」
「怖いなら寝ていればいいではないか」
微笑を浮かべたメイアに、ディノンはさらに渋い顔をする。
「気になって寝られるか」
「見かけによらず、繊細なのだな」
「ほっとけ」
そんなことを言っていたディノンだが、夕食が済んで部屋に戻り、ベッドに入った瞬間、墜落するように意識を失った。そして前の晩のように夢を見ない眠りに落ちていった。
翌朝。ディノンは人の気配を間近で感じて目を覚ました。
「――ああ、なんと……」
やわらかく透明な声が耳をくすぐった。どこか嬉しそうなその声は、しかし、ディノンには狂気に感じて、はっと目を開けた。朝の光を受けて輝く金の髪を肩からたらしながら、リーヌが寝ているディノンに覆いかぶさっていた。
「あら、目覚めてしまいましたか」
残念そうに言いながらも、彼女は笑みを浮かべ、青い瞳は、うっとりとした様子でこちらを凝視していた。
「おい……!」
なにをやっている、と言いかけて、ディノンは自分の声が高くなっていることに気づいた。やはり〈終生回帰症〉のせいで幼児に戻ったようだ。
しかし、ディノンはそれ以上の戦慄を覚えた。喉をおさえようとした両手が動かない。――リーヌがディノンの両手をベッドに押さえつけていたのだ。
「その困惑した表情……とても可愛らしいですわ」
「お、おまえ……」
ディノンが鋭く睨むと、彼女はさらに嬉しそうにする。
「ああっ。その射抜くような視線も、いい!」
ぞわ、と久しく感じていなかった恐怖が全身を駆け抜けた。戦闘などで感じる死の恐怖ではない。正体不明の恐怖感――いや、嫌悪感。それを言葉にするなら……。
「き、きもい!」
ディノンは激しく暴れた。リーヌはか弱い。しかし、いまのディノンの力では、彼女の手から逃れることができなかった。その必死な姿が愛おしかったのか、リーヌはさらに笑みを深くする。
「くっそ! はなせ! へんたい!」
「ああっ……! わたくし、もう、辛抱、たまりませんわ!」
狂気に満ちた声で言って、リーヌはディノンの両腕を枕の上に移動して片手で押さえた。もう片手で神官衣を脱ぎはじめる。
「おいおいおい! まじか!」
「お覚悟を……!」
リーヌの豊満な胸を抑えていた下着が、衣の隙間からちらっと見えた瞬間、リーヌは目をむいてディノンに倒れ込んだ。そのまま、ピクリとも動かなくなった。
「――まったく……」
落ち着いた女の声が扉のほうから響いた。覆いかぶさるリーヌの身体から顔を出してそちらを見てみると、手刀を構えたタルラと、呆れた様子でこちらを眺めていた大人の姿のメイアがいた。
「君を起こしに行ったリーヌがなかなか戻ってこないから、なにかあったのかと思って来てみれば……」
メイアは腕を組んで、ディノンが眠るベッドに近づいた。タルラが気絶しているリーヌの首根っこを掴んでその場からどかし、メイアがディノンの身体を起こした。
「大丈夫だったか?」
「く……」
「く?」
首をかしげるメイア。彼女の腕の中でディノンは震える自身を抱きしめた。
「くわれるかと、おもった」
それからしばらくして、乱れた神官衣をそのままに縄で拘束されたリーヌは、ベッドに座ったディノンの目の前でぬかずいていた。
「まことに、申し訳ありませんでした」
「りゆうを、きいてやる」
やや舌足らずな、しかし、鋭い声にリーヌは身をかすかに震わせた。――これは畏怖ではなく快楽によるものだとは、ディノンは知らない。
リーヌは床にぬかずいたまま、たどたどしく答えた。
「実は、わたくし、お、幼い、子に、過剰なまでの、感情を、その、抱いて、おりまして、それで……」
「幼児性愛者か」
鋭く口をはさんだメイアに、リーヌはさらに身を震わせる。――今度は畏怖によって。
現在の時刻は七時半。ディノンは髪の毛だけ真っ白いまま、五、六歳ほどの幼い姿になっていた。就寝前に着ていた服はほとんど脱げ、だぶだぶになったシャツだけを上に着ていた。リーヌはそんなディノンの寝姿を見て欲情してしまったらしい。
「昨夜。床に就く前だったか、私にも妙な態度を取っていたな」
その時刻のメイアは、十三、四歳ほどの少女の姿だったという。ディノンは呆れたように深いため息をついた。
「あんた、でぃるめなの、しんじゃだろ? なんで、そんな……」
ディノンの言葉に、リーヌはさっと顔を上げた。その目には強い光が宿っていた。
「お言葉ですが、豊穣を司る女神を信仰しているからこそ、この感情をなによりも大切にしているのです。女神ディルメナの肖像には、彼女を象徴する三つの木の実がございます。それぞれ、穀物の実り、春季、そして性愛を象徴しております。わたくしの性愛の対象は幼子にございます。ゆえに、わたくしは真にディルメナの教えに従っていると言えるのです」
メイアは複雑な笑みを浮かべた。
「極論過ぎて、逆に感心してしまうな」
「なんと言われようと、わたくしの考えは揺らぎません」
ディノンは引きつった顔でメイアを見た。
「こいつ、ここでおいていこう」
「私は面白いと思うが」
「おもしろいわけあるか! こんなへんしつしゃと、いっしょにたびができるか!」
「しかし、エルフの里に行くには、彼女の知識が必要だ」
ちぃ、と大きく舌打ちして、ディノンはリーヌを睨んだ。
「えるふのさとについて、しってることぜんぶはなせ」
「い、嫌です」
「おまえな!」
「わたくしもお供させてください! もう、先ほどのようなことはいたしません!」
「しんじられるか!」
そうディノンは断じたが、メイアは笑い含みに頷いた。
「いいだろう」
「おいおいおいおい⁉」
メイアはリーヌのそばに寄った。
「その代わり、君に呪いをかける」
「の、呪い、ですか?」
「案ずるな。死に至るようなものではない。幼児に対して過剰な反応を示さなければ、呪いが発動することはない。ただ、感情に任せてその者を襲おうとしたとき、死ぬほど辛い頭痛に襲われる。それでもいいならば、私たちとともに来るがいい」
リーヌは迷うことなく頷いた。
「分かりました。その呪い、受けましょう」
頷いたメイアはタルラから小刀を受け取り、それで親指を小さく切った。わずかに流れでてきた鮮血を人差し指に付け、その血でリーヌの額の左から右へバツ印を書き連ねていった。ぶつぶつと口の中で呪文を唱えると、バツ印が赤く光り、額に吸い込まれるように消えていった。
メイアが振り向いて頷くと、タルラは小刀でリーヌを拘束していた縄を断った。
「では、試しに先ほどと同じように、ディノンに襲いかかってみてくれ」
「いや、なんでだよ!」
ディノンの制止も聞かず、リーヌは身構えた。
「では、遠慮なく、行かせていただきます」
「くんな、ばかやろう!」
「いざ!」
と、飛びかかろうとした瞬間、ズンッ、と脳に太い釘でも打たれたかのような衝撃が走り、リーヌは頭を押さえてその場に倒れた。声にならない悲鳴が口から漏れた。
「こ、これは……」
しばらくして痛みが治まり、激しく息を切らせたリーヌがメイアを見上げた。
「うまく呪いが発動したようだな。この旅が終わったら、呪いは解いてやる」
そう言ってメイアは薄く笑みを浮かべた。いまだ警戒しているディノンを振り返った。
「これでどうだ?」
ディノンは深くため息をついて頭をかいた。エルフの里に行くには、盗まれた本の内容を知るリーヌの知識が必要だった。しかし、彼女は頑として語らぬと言う。
「あーくそ。しかたねぇな。つれていってやるか」
「あ、ありがとうござ……」
います、と続こうとした彼女の声が、突如として苦しそうに途絶えた。呪いが発動したようだ。
ディノンは引きつった顔でメイアを見た。メイアは肩をすくめて首を振った。
「それより、ディノン……」
メイアは幼くなったディノンの姿をあらためて見た。
「思った通り、幼児に戻ったな」
「あんたもな」
ディノンもメイアを見返した。ディノンとは逆に、彼女は二十七、八歳ほどの大人の姿だった。ディノンはベッドの上であぐらをかき、腕を組んだ。
「おれと、にたげんしょうが、あんたにも、おこってるってことか?」
「だろうね。ただ、私の場合はもとの姿に戻る」
「なんか、ずるいな」
ぶすっとするディノンを見て、メイアは微笑んだ。
「その姿の間はなにかと不便だろう。老人になったときも。タルラ、今後は私だけではなく、ディノンも主として仕えよ」
タルラは頷き、ディノンにむかってスカートの裾を持ち上げてお辞儀をした。
「よろしくお願いいたします。ご主人様」
ディノンは顔をしかめた。
「ごしゅじんさまは、かんべんしてくれ」
「では、ディノン様?」
と、首をかしげるタルラに、ディノンは軽くため息をついた。
「まぁ、いいか、それで……」
「はい」
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