第2話 遠足
優の発言で教室が凍りついてから一日が経ち、聡太、颯斗、優、里香たちはまた机を並んで給食を食べていた。里香が怒っているのは明白で、優の一挙手一投足に目を光らせて反撃の隙を窺っていることは聡太でも見て取れた。
例えばこの日、隣のクラスのやっさんと呼ばれている大柄な男子がガラスにもたれかかったところ、そのガラスが豆腐のように簡単に割れてしまったという事件が学年中を駆け巡った。それについて里香が、颯斗も試しにもたれてみたら割れるんじゃないとからかうように言った時に、優が少し相好を崩すやいなや、
「優ちゃんには関係ないよ」
と、こういう具合である。
こうなってしまってはもはや颯斗もお手上げなようで、里香の話に適当に相槌を打ちながらさつまいもパンのさつまいもを一つ一つぽっこりつまみ取っては口に運んでいる。その様子が少しおかしかったので、つい聡太の鼻からふっと息が漏れてしまった。
それに気付いた颯斗がさつまいもパンの歴史から語りだすと聡太は再びその知識に目を見張ったが、班内の空気があまりに重いものだったのでとうとうその話は盛り上がることなく終わってしまった。
盛り上げられなかったことに人気者の矜持が傷ついたのか、心なしか颯斗もしょんぼりとしてしまって、さらにとどめのように里香がさも退屈そうに溜息までついたので、聡太の班はクラス内で一組だけ荒れた無人島に漂着してしまったかのように暗い雰囲気を帯びていた。
長い給食を終えると、給食当番の聡太は牛乳瓶などを給食棟に戻し終え、4年生になって喋るようになった友達と昼休みを過ごそうと自分のクラスへ戻った。しかし教室の扉を開けると、いつもなら一足先に給食棟から戻って他クラスへ直行している颯斗がまだ教室にいることに気が付いた。そして、颯斗の方も聡太が戻ってきた事に気がつくと立ち上がってまっすぐ聡太の方へ向かってきた。教室前方の扉から最も離れた班が聡太たちの席だったので、颯斗が扉のすぐ前にいる聡太のところまで来るまでに少し時間がかかった。聡太は颯斗がこちらに向かってくる間、5月の陽光が教室中に充満しているような暖かな空気と、その空気に混じる微かな給食の残り香が胸中に膨らんでくるような感触を味わいながら、同時に颯斗は自分に何を言いにきたのだろうという期待感に胸をつかれていた。
颯斗、給食、里香と優のギクシャク、これらがさまざまに聡太の胸に浮かんできた。そうして浮かんできた言葉たちがどうも颯斗の言いたいことに関係してそうな気がするのだがはっきりとはわからない。聡太はただ教室の扉の前で颯斗を待っていた。
颯斗も聡太が自分のことを待っているとわかっているからだろうか、頬を少し上気させたようなどこか興奮した面持ちだった。もっとも、聡太の目にはいつも通りの颯斗に見えていたのだが。
「あのさ、」
「うん。」
「里香のやつ、ああなったらもう手がつけられないよ」
「うん、僕もどうしていいかわからない。」
「だよな。給食に例えるなら、俺がご飯をカレーに全部入れたいと思ってるけど、班のみんなは別々で食べてる時と同じくらい困る。マジで。」
なんだそれ、と聡太も笑いながら二人で話していると、他クラスの颯斗の友達がこの5年3組までやってきた。それまでの聡太との話とは完全に切り離された会話を彼らと交わし始める颯斗を見ると、さっきとは違う人になったような感じがして聡太は少し寂しくなった。すぐにその場を去るのも不自然なので、聡太は会話に半分足を突っ込むように相槌だけはしていた。そんな場面はこれまでの学校生活で何度かあったはずなのに、この時聡太は5月の心地よい陽気に時折訪れる寂しく冷たい風が自分にだけ吹き込んでいるような感覚を抱いた。誰かと話している間に、そんなふうに風やその音にハッとさせられたのは初めてのことだった。
「聡太も来る?」出し抜けに颯斗が訊ねた。
なんのことか分からず「え?」とついそのまま聞き返してしまった聡太の様が面白かったのか、颯斗は軽く笑って
「グラウンドだよ。ボール無くなるから先行っとくな!あとで来いよー!」
と言って他の友達と足早に行ってしまった。
聡太は学年の中でも体が大きめな颯斗と、颯斗のせいで少し小さく見える男子たちの背中を見送っていた。そしてその昼休み、聡太は颯斗を追いかけなかった。教室には暖かな陽光が満ちていたが、外に見える桜の木の葉や躑躅はあの寂しい風に吹かれ、揺れていた。
昼休みの終わり5分前を告げるチャイムが鳴っても颯斗は戻ってこなかった。今颯斗は友達と何をしてどんな話をしているのだろうという考えが教室の喧騒と一緒に聡太の頭を巡っていた。
着席が遅いことを先生に軽く叱られながら楽しそうに教室に入ってきた颯斗は、何事もなかったように自分の席についた。遊ばなかった自分の方がむしろ疲れているのではないかと思うほど、聡太は授業中ずっとぼうっとしていた。
授業も終わり、いつも通り帰りの会が進んでいったが、いつもなら軽く終わる担任の話が今日は違っていた。
「遠足に行きます」担任がこう言った時、教室内の温度が一気に上がったような気が聡太にはした。その温度に追いつくように徐々にざわざわとした話し声が大きくなっていき、最後にはあのベテランの担任も静かにするのに少し苦労するほど教室中がおしゃべりで渦巻いていた。
聡太の班でも反応は様々で、里香は少し離れた席の友達と体を乗り出しながら話している。里香は聡太のすぐ後ろの席だったが、その楽しそうな声といつもより近いところで発せられる声を聞くと、見なくてもその様子は分かる。聡太の左隣に座る優はいつも通り静かだったが、呼吸するたび肩がやや少し上がっているのを見ると、興奮しているか緊張しているか、またはその両方のように聡太には見えた。
聡太の右斜め後ろの颯斗の様子を少し伺うと、遠足の話題で盛り上がることのできる友達がいなく少し寂しそうだったが、振り向いた聡太と目が合った時大きな口でニッと笑い、楽しみだな、と言った。
良かった、昼休みの誘いに行かなかったこと怒ってないみたいだ、と聡太も胸を撫で下ろすと、颯斗に向かって確かめるようにうなづいた。すると、颯斗は聡太の方に顔を寄せてこう言った。
「今日の16時30分に北千咲公園来れるか」
これに対して聡太がうんというまで、ほとんど間はなかった。まるでその言葉を待っていたかのような応答だったが、当の聡太にとって、この颯斗の誘いは驚きと興奮を十分過ぎるほど与えるものだった。もっと言うと、聡太は遠足なんかよりこの言葉の方がよほど嬉しかった。颯斗たちのグループとは遊んだことがなく少し緊張するが、颯斗と仲良くなれると考えたらそんな不安もうずらたまごのように小さく、それでいてワクワクするもののように思えてきた。
本当はというと颯斗と一緒に帰ってそのまま遊びたかったが、颯斗とは家の方向が違うから門も違うのだ。颯斗が指定した公園はやや颯斗の家よりに位置するので、聡太は帰宅するや否や遊ぶ準備を整えて家を飛び出した。
公園へ急ぐ道中、颯斗と何をして遊ぶか考えながら5月の汗ばむような陽気をかき混ぜるように大きく腕を振って聡太は走った。この辺りの公園では一番大きい北千咲公園の角がようやく見える位置まで来ると、公園の入り口にはもう颯斗が待っているのが見えた。
「ごめん、お待たせ。」聡太は息を弾ませながら言った。
「お前の走り方、変だなー。まあ、早く俺の家行こうぜ。」と軽く笑いながら颯斗はもうすでに颯斗やその友達の家が集まっている地区へと歩き出していた。
聡太はというと、1対1で遊ぶとはあまり考えていなかったのでかなり驚いていた。人気者の颯斗のことだから、今日も遊びに誘われているはずなのに周りには他の友達の姿も見えなかった。少し引っかかるところはあったがやはりここでも楽しみの方が勝ったので、聡太は特に何も聞くことなく颯斗についていった。
颯斗の家は大きかった。それに、周りの家と表札や門扉のデザインが統一されているのがあまりに聡太の住む地区と違っていて、今いる地区全体が一つのおままごとの町のような、現実味がない空間のように聡太は感じた。大小様々な家々の植物は皆微妙に違った緑の葉をつけ、太陽の光を受けながら外壁に寄りかかるようにして道路にそのあふれんばかりの新緑をこぼしていた。
とは言っても、住み慣れた颯斗はもちろん聡太にもそんな春の美しさは今自分を待ち受けている颯斗との遊びに比べると全く重要でなく、ただぼうっと目に入る程度だった。
颯斗はさっさと玄関まで行き、手慣れた様子で玄関の扉の鍵を開けた。するとすぐ家の奥から「おかえりい。」と颯斗のお母さんの声がした。
聡太は授業参観の時、この颯斗のお母さんを見たことがある。小学3年生の時、友達との会話を終え、どこか恥ずかしそうにお母さんと一緒に帰っていく颯斗の後ろ姿をなぜだか今でも聡太は覚えている。
ふと我に帰ると、前に見た時と同じく聡太の母より一回り若そうな颯斗のお母さんが聡太たちを玄関まで出迎えていた。
「初めましてー。初めて見る子だね、後でお菓子持っていくから先に手を洗っておいで」と、少し間延びした声で颯斗のお母さんは言った。
颯斗に似た切れ長の目ゆえにクールな印象を聡太は抱いていたが、声からはおっとりとした優しいお母さんという雰囲気がした。
学校ではそんなことないのに、いざ二人きりの時に真面目に手を洗うのもなんだか恥ずかしく、聡太はさりげなく手を軽く洗う程度で済ませた。颯斗はそんなことお構いなしに、手からシャボン玉が飛び出してくるほど手を洗っていた。
そして手を洗い終えて2階の颯人の部屋に着くや否や、颯斗はお待ちかねといったふうに
「作戦会議をしよう」と言ったのだった。
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