かちこち凍って

「だめだよ」


 帰り道、羽海野が私の裾を引っ張った。もうすぐ御茶ノ水駅の改札で、私と羽海野は家が逆方向だから、ここが分かれ道になる。


 空はもう真っ暗で、ぼんやりとした街明かりが星を隠していた。夜なのに、その始まりも終わりも感じさせない、迷い人を絡めとるような薄ら闇。焦点の合わない黄昏時を、私はあんまり好きじゃない。


「何が?」

「あの態度。茅っち、引き摺るよ」


 羽海野はいつになく真剣に私を見据えている。


「だって、なんのことか知らないし」

「嘘」

「羽海野に何がわかるの?」


 自分から出た声が信じられないほど冷たくて驚いた。慌てて取り繕うと思ったけど、羽海野はやっぱり真剣な顔つきで、私は何もできなくなる。


「わかるよ」


 目の前の道路を、ヘッドライトを焚いた車が通り過ぎていく。学生が私たちを追い越して、改札へ吸い込まれる。走り去る中央線を、目の端で追いかける。あの車輌にはたくさんの人が乗っていて、千葉のほうへ帰っていくんだなと、どうでもいいことばかり頭をよぎる。


「わかんないよ」


 だって、羽海野は結婚したじゃん。


「わかるよ、七花がなに考えてるか」羽海野が笑った。いつもの抑揚のない表情とは違う、まっさらに乾いた、全部諦めたような顔だった。「わかるから……全部、わかるよ」


 線路の向こうはまだ橙色に明るかった。電車を動かす何本もの線が影になって、空を横切っている。薄闇に目が慣れない。誰も彼もがダブって見えるなかで、羽海野だけが、悲しそうに佇んでいる。街並みは切り絵のようだ。一番前のレイヤーに羽海野がいる。


 これ以上は、壊れてしまう。


「そっか、わかっちゃうか」


 そう直感した。羽海野の目は、優しかった。


「茅場君はさ、楽しそうだったね」

「そうだね」

「友達と一緒にお店やってるんでしょ。男の子って、いいよね。そういうの、普通にあるじゃん。最高の友達ってやつ? 簡単に、ずっと一緒にいてさ」

「私さ」羽海野の声が、夜に溶けていく。本人は、そうしたくないのだろうけど。「謝ろうって、ずっと」


「なんのこと?」

「あのとき、詩音を遠ざけなかったらって」


 あのとき、がなにを指しているのか。言わなくてもわかってしまった。


「そうしたら、なんか変わってたかもって。ずっと、ずっとね」

「なんも変わんなかったよ」


 泣きそうな声を遮る。薄闇で、顔はよく見えない。見えなくてよかったと思った。見えてたら、気づいてたら、私たちはきっと、終わりのない道を進みだしてしまう。


「どう足掻いたって、ここにいたんだよ、たぶんね」

「でも」

「絶対」


 がたんごとん、と足元を電車が通り抜けていく。たかが人間1人、足踏みしたところで社会はいつも通り時を刻む。


 だから私は、世界を止めるのだ。


「ありがとう……は変、か。がんばろう。うん、がんばろ。せっかくの最後なんだから、びっくりするくらいがんばっちゃお」


 私の裾を掴む羽海野の手をゆっくり外し、彼女の手を握る。


 一瞬置いて、手に力が込められる。夕闇を背景に、羽海野が何かを言った気がした。暗くて見えないし、雑踏で聞こえなかった、ことにした。

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