しんしん積って
それ以上、踏み込んではいけないラインというのがある。私にも、羽海野にも、詩音にも。
若さだけを推進力に、誰かを傷つけることさえ厭わず入り込んだ日々とはとうに訣別した。
感情の奔流をすべて飲み込んで、いつか訪れる決壊に怯えながら、見て見ぬ振りで日々をやり過ごす。絶対に戻れないことを知っているから、憧憬だけを抱えて生きている。
それが大人になるということ。子供じゃなくなるということ。そう思って、割り切っていた。後悔は先に立たないし、今さら何も私には残っていないのだと。
悲観的でなくなったのも、成長した証かもしれない。
羽海野と別れた夜、帰りの電車で2人にメッセージを送った。やりたい曲がある、とだけ。すぐに既読が1つついて、15分くらい待ってると2個目がついた。
「いいね!」と詩音が先に。
「リベンジ」と羽海野が続く。
すべてを見透かされている気がして、思わず笑みがこぼれる。
そう、リベンジ。あの時した後悔をやり直せる、突然訪れたチャンス。もう子どもじゃない。諦めてきたことが多すぎて、慣れてしまった。そのなかで一番光っている道を選ぶ術も知っている。
ないならないで、また後悔しないようにできることをやろう。あの時なくしかけたものを、もう一度作り直しにいこう。
友達と一緒に。相棒と一緒に。
■
と、大見得は切ったものの6年のブランクはやはり大きいもので。
指は痛いし運指は一向にスムーズにならない。仕事と家事と練習。大人の1日は、24時間だと実は足りない。だんだん家事が疎かになり、次第に睡眠も削り始めた。延長線上で、仕事がボロボロになるのも必然である。
にもかかわらず、普段より幾分も気分が明るかった。街を見る余裕があって、月日の細やかな移り変わりにもやけに気がつく。緑が鮮やかで、空は抜けるようで、私の体は重いけど、座り込みたくなるほどじゃない。
「でも1人じゃどうにもならんので、助けてください」
珈琲がなみなみ注がれたグラスをズズっと、詩音に押し出す。
「なにそれ、賄賂?」
詩音がけたけた笑う。
「昔っからこのフレーズが苦手なの、お願い!」
「練習不足」
「わかってるよ! わかってるけど、もう2週間後じゃん!」
ポテトを頬張りながら私を揶揄する羽海野に、スマホのカレンダーを見せつけた。
「社会人の2週間って、可処分時間にしたら2日くらいだからね!?」
「まぁまぁ。で、何を教えてほしい?」
詩音が隣の席に写ってきた。薄い、ラベンダーの香りが風に漂ってくる。
「曲はブロックと流れで覚えているんだけど、どうにも構成がわかんなくて」
ふと、昔を思い出していた。空き教室で初めて3人で集まって、曲選びをしていたあの日。
私と羽海野は高校からの知り合いで、そこに詩音がやってきた。詩音はサークルでも引っ張りだこだった、私たちに声をかけてきたのは驚いた。
2人の雰囲気が、なんかいいなって思って。
その言葉を、声色を、私ははっきり覚えている。夕日差す春の教室で、これからのことを大袈裟に、でも真剣に、考えた。楽しくなるねって言い合って、実際そうなった。曲をやるたびに、詩音と会うたびに、私のなかに甘い甘い雪が降り積もって、一面を愛しい風景に染め上げた。
その風景のなかに、いつも詩音がいた。
隣に羽海野がいて、3人が宇宙のすべてに思えた。
「ここはね、ここと次の5小節が対比になってて」「なにその中途半端」
「区切りで合図する?」
「結構です。あれ、もしかして私、小馬鹿にされてる?」
「大丈夫」詩音が微笑んだ。私は目を開けたまま、心のなかを思い浮かべる。雪は降ってなかった。「今日で完成するって」
積もった雪の上で3人、同じ卓を囲んでいる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます