第2話 それぞれの使命


 七月十九日、午前九時。落合寛治公安一課巡査部長は、立浜市内の喫茶店でモーニングコーヒーと洒落込んでいた。一人で優雅に朝食を摂っているわけではない。彼は人を待っているのだ。

 待ち人は、落合がコーヒーを頼んでから五分後に姿を見せた。淡いクリーム色のシャツワンピースを身に着けた女性が、向かいのソファ席に腰かける。緩くウェーブがかった髪をハーフアップでまとめ、清楚な令嬢然とした雰囲気を醸し出していた。

「お忙しいところ、時間を取っていただきありがとうございます」

 言葉遣いは丁寧だが、どこか棘がある声色だ。丸く愛嬌のある瞳が落合をじとりと睨む。

「何度もお伝えしていますがね、三輪さん。貴女の要求にはお応えできかねます」

 開口一番に告げると、女性はテーブルから僅かに身を乗り出した。

「何故ですか。私はただ、古川さんと会ってお話ししたいだけなんです。それのどこが無茶な要求なんですか」

「古川夏生は極めて悪質な犯罪に手を染めました。我々は、彼を厳しく追及して法の下で裁きを受けさせなければならない。貴女と面会すれば、古川がこれまでの供述を覆す虞があると判断したのです」

「どうしてですか。彼は素直に罪を認めているのでしょ?」

「今のところは。ですが、貴女は彼にとって起爆剤のような存在です。今は必死に感情を抑え込んでいるだけで、貴女に会ってしまうとそのストッパーが外れるかもしれない。古川は今、大事な裁判の只中にいます。ここで彼に妙な気を起こしてもらっては困るのです」

 ワンピースの女性――三輪佑美子は物怖じする様子もなく、落合を真っすぐ見据える。

「刑事さんは、古川さんをまるで信用していないんですね。彼は自身の罪を改めて、更生しようとしているのでは?」

「信用していないわけではありません。我々だって、被疑者の更生を心から願っています。ですが、彼は大規模な組織犯罪に関与した犯人。とりわけ慎重な対応が求められるんですよ。万一こちら側の不手際で証拠を隠滅されたり、面会者と口裏を合わせて証言を覆されたりしては困りますから」

 通常、逮捕から七十二時間が経過すれば一定の条件のもとで被疑者との面会が許される。だが、逃亡の恐れや証拠隠滅など、捜査や裁判に支障をきたす可能性がある場合は裁判所から接見禁止命令が下されるのだ。古川夏生は逮捕直前、三輪佑美子と国外逃亡を図ろうとしていた。地位や名誉を投げ打っても、犯罪者の十字架を背負いながらも、生涯を通して守り抜こうとした愛しいひと。その女との面会ともなれば、古川の感情を大いに掻き乱す虞がある。

「私は、古川さんと共謀して証拠隠滅なんてしません。彼の更生を誰よりも願っているんです。そんなことをすれば古川さんの立場が不利になるだけじゃありませんか」

「貴女の気持ちは、古川夏生にも充分伝わっているでしょう。厳しいことを言うようですが今は耐えてください。それが彼のためでもあります」

 佑美子は唇を噛みしめると、不愉快そうに眉根を寄せる。

「刑事さん、事務所に来たときとはまるで別人ですね。可笑しな冗談で私を口説こうとしていた人と同じとは思えない」

「それはまあ、仕事だからな。あんたが思っているほど、俺もお人好しじゃない」

 天然パーマの頭を掻きながら、わざと砕けた口調で返す。だが、佑美子は無言のまま敵意に満ちた瞳を落合に向け、ウエイトレスの女性が「ご注文はお決まりでしょうか」と声をかけても口を開こうとしない。仕方なく落合がコーヒーを頼むと、張りつめた空気を察したのか女性は逃げるようにして店の奥へ姿を消した。

「そうやって、相手に応じて人柄を変えて手玉に取るんですね。それが警察なんでしょう」

 吐き捨てるように言われ、落合はただ肩を竦めるだけ。爽やかな朝に似つかわしくない、重苦しい沈黙が二人の間に立ち込める。

「私は、古川さんを信じています。たとえ世界中のみんなが彼の敵になろうとも」

 可憐な見た目の女性は、宣言するようにきっぱりと言い切る。パーマ男は冷めたコーヒーを一口啜ると、

「誰を信じようがあんたの勝手さ。だが、古川が大きな罪を犯した事実は変わらない。あんたがその十字架を共に背負う覚悟があるのなら、いつまでも彼の帰りを待てばいい。それができないのなら」

 佑美子の分のコーヒーが運ばれた。ウエイトレスが去ったのを見送ってから、伝票を手に席を立つ。

「古川のことは忘れるんだな」

 受付嬢を残し、手早く会計を終えて店を出た。扉が閉まる音を背に長い吐息を漏らしていると、頃合いを見計らったかのように尻ポケットのスマートフォンが震えた。

「はい、落合です……ああ、会議が終わりましたか。はい、今すぐ向かいます。建物の中で待っていていください。くれぐれも一人で外へ出ないように」

 通話終了のボタンを押し、ポケットに仕舞い込む。頭上から容赦なく照りつける陽射しに目を眇めながら、大通りを目指して歩き出した。



 落合が喫茶店で三輪佑美子と対峙している頃、内海明日夏警備部公安一課巡査部長はS県沼間市を訪れていた。この日は非番であったが、濃紺の落ち着いたサマースーツ姿で手には花束を抱えている。

 S県と言えば日本一標高が高い山で有名だが、内海は世界遺産の見物に来たわけでも登山に訪れたわけでもない。目指しているのは、沼間市内にある〈行蓮寺墓地〉。K県新立浜駅から新幹線とレンタカーを使って一時間ほどの、周囲を茶畑に囲まれた静かな場所にあった。

 石畳の階段を上り、砂利道をゆっくりと歩く。やがてその足は〈森野家之墓〉の文字が刻まれた墓石の前で止まった。既に墓参りを済ませた者がいるらしく、花立には真新しいユリやリンドウの花が生けられている。香炉に寝かした線香からは、まだ微かに煙が立ち上っていた。竿石はピカピカに磨き上げられ、丁寧に管理している様が伺える。

 スターチスの花束から数本を抜き取って、花立に加える。二つに折った線香にマッチで火をつけ、香炉に供えた。両手を合わせて静かに目を閉じる。夏特有の熱を含んだ風が内海の頬を撫でた。

 ゾディアック団事件で三人目の被害者となった森野一裕は、組織の一員であり内海の行確対象だった。だが、二人目の被害者である矢崎茂夫が森野のマンション付近で爆弾自殺を図り、その混乱に乗じて逃亡。後に廃病院で他殺体となって発見された。内海たちは、組織による粛清の可能性が高いと見て一味を追い続けている。

 森野一裕はかつて交通事故で亡くなった弟の仇を討つためゾディアック団に入団した、と公安一課は筋読みしている。だが、目的達成のためなら殺人さえ厭わない組織の方向性に疑問を抱いたのだろう。新宮時也巡査部長と内海が事情聴取のため森野のマンションを訪れたとき、彼は組織の存在を二人に仄めかした。その際の森野の行動がきっかけで内海らはゾディアック団の存在に辿り着いたのだが、森野自身は組織の手にかかり命を落としてしまった。

 森野一裕、そして五年前に死亡した弟の浩二が眠る墓を前に、内海は一分以上もの間手を合わせ続ける。

「ゾディアック団は必ずこの手で捕まえる。そして、法の下で必ず裁きを受けさせる。だから……待っていてください」

 墓石に向かって囁く。残ったスターチスの花束を抱え直し、内海は墓地を後にした。

 森野一裕の命日に、内海はもうひとつ必ず訪れる場所がある。ところ変わってK県。森野の他殺体が発見された美濃病院跡地だ。

 かつて美濃総合病院を経営していた院長の美濃佐吉は、ゾディアック団の幹部である大村泰明の実父だった。だが、十五年前の闇献金事件で自殺に追い込まれ、病院も間も無くして経営破綻。大村は亡き父の仇を討つためにゾディアック団へ入団し、最後には父との思い出が残る病院を爆破した。廃墟同然だった建物はほぼ全焼し、今では焼けた跡地だけが取り残されている。

 三ヶ月前の四月十九日。森野一裕は廃病院内の一室で刺殺体として見つかった。遺体はタロットカードの「吊るされた男」を模したかのように逆さ吊りにされていて、不気味かつ象徴的な様相を呈していた。「吊るされた男」はイエス・キリストを裏切ったユダではないか、という一説がある。森野はタロットカードに見立てて殺害されたのでは、と主張した内海を刑事部の捜査員は鼻で笑っていたが――。

 周囲を森に囲まれた跡地は、真昼でも薄気味悪い空気が漂っていた。建物の骨格はかろうじて残されているが、強風でも吹けば瞬く間に崩れ去ってしまいそうだ。廃墟としてまだ形を成していた頃は名の知られた心霊スポットであったが、今では興味本位で寄りつく物好きもいなくなってしまった。火災後に内海が現場を訪れるのは今回が三度目だが、人影どころか猫一匹さえ未だに見かけていない。

 ゾディアック団は美濃病院を一時的なアジトに使っていた、と公安は睨んでいる。だが、それを示す証拠も炎に飲み込まれ消滅してしまった。森野一裕の遺体発見現場も、もちろん火災で跡形もなく消えた。今更訪れたところで、事件に繋がる手がかりなど何も残っていない。それでも、内海は足を運ばずにはいられなかった。警察官としての使命が、彼女の足を否が応でも現場に向けさせるのだ。

 焼け付くような夏の陽射しが火災現場を照らしている。風が凪いで一気に気温が上昇したようだ。内海はサマージャケットを片手に引っ掛け、汗ばむ首筋にハンカチを当てながら廃墟跡地をぐるぐると歩き回続ける。

 やがて西日が木々の合間から差し込む時刻になり、女捜査官はため息とともに爆破現場を後にした。青紫に彩られた弔いの花束を残して。

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