第1話 失踪事件


 K県警察本部の大規模捜査によって〈ゾディアック団〉の幹部を含む五名が逮捕された事件からおよそ二ヶ月後。長い梅雨がようやく明け、K県に本格的な夏が到来した七月十九日の土曜日。K県警察警備部公安第一課に所属する新宮時也は、県警本部庁舎内の小会議室に呼び出されていた。相手は直属の上司である東海林基春警部だ。

「市議会議員の警護、ですか」

 手渡されたタブレットの画面に目を落とす。文書ソフトでまとめた十ページ分に相当する内容を、ものの数分で通覧した。もちろん、資料の内容はすべて頭に叩き込んでいる。

「金澤幸男、四十七歳。立浜市K区の市議会議員で現在の議員活動は五期目だ。公式サイトを見てもわかるように、なかなか精力的に活動していて市民からの人望も厚い」

 ホームページのリンクをタップする。〈花とまちづくりの会〉の刺繍入りジャンパーを着た金澤氏と、一般市民らしき人々の集合写真がトップに掲載されていた。町のボランティア団体だろうか。小さな鉢植えを胸に掲げた金澤氏は溌剌とした笑顔を浮かべている。

「サイトの立ち上げから日々の更新まで金澤氏自ら行っているらしい。年齢の割にITリテラシーも高く、SNSの運営なんかもやっているみたいだな」

「なかなか立派な公式サイトですね……それで、どうして県警の公安課が市議会議員のボディガードを?」

 この問いには二つの意味が含まれている。第一に、「いくら現職の市議会議員とはいえ、なぜ所轄の警察署を飛び越えて県警本部に直々の要請が来るのか」。第二に、「そもそも警護業務は公安課ではなく警備課の管轄ではないのか」。東海林警部は時也の心の裡を見透かしたかのように頷くと、

「色々と疑問はあるだろうが、まずはタブレットの資料を見てくれ。後ろのページに〈Sharing〉というSNSに関する概要がまとめている。それが事の発端だ」

 五年前にアメリカの大手通信社が開発したSharingは、世界ユーザーが二十億人を超えるソーシャルメディアである。簡単な文章を作成して画像を選ぶだけで記事仕様の投稿ができ、スタンプ機能で記事に反応したりスプレッド機能を使って特定のユーザーと記事を共有したりすることも可能だ。情報の発信や収集ツールとして、個人のみならず企業や公的機関などにも利用されている。

 時也は、画面に現れたあるアカウントページに眉を顰めた。アイコンに使われているのは、尖った耳に緑色の肌を持った不気味な生き物のイラスト。両手にハンマーを握りしめ、相手を挑発するかのように舌を突き出している。

「〈ゴブリンお掃除隊〉……これ、アカウント名ですか」

 ゴブリンは西洋の伝承に登場する架空の生き物だが、時也は民俗学に疎く「小柄な見た目で悪戯好きな妖精」といった程度の知識しか持ち合わせていない。

「そのアカウントが本件の火種だ。政治家をターゲットに過激な発言や誹謗中傷を繰り返している。運営会社がアクセス禁止にしても、新しいアカウントを作って執拗に攻撃を続けているらしい。それだけならよくあるSNSトラブルの一環だが、事はそう簡単じゃない」

 東海林警部は苦々しい口調で事情を説明する。ゴブリンお掃除隊から標的にされていた三人の政治家がこの数週間で謎の失踪を遂げたのだ。三人はそれぞれSharingの中で個人アカウントを有しているが、失踪後は更新が止まって家族との連絡も途絶えているという。

「三人はいずれも保守寄りの大会派に所属している。ゴブリンお掃除隊が対象を保守系に絞っているのか定かではないが、現状では彼らの数少ない共通項だ」

「上層部は、ゴブリンお掃除隊が左翼組織かその一員ではないかと睨んでいるのですか」

 時也の質疑に、敏腕警部はイエスともノーとも返さない。だが、沈黙は肯定と同義だとも言う。

「であるならば、これは三課の事案ですよ。いや、それ以前に行方不明者対応は生安部、警護は警備課の管轄です。それなのに両者を公安一課が担当するのですか」

 時也が籍を置くK県警警備部は、警備課と公安課に分かれていてそれぞれ役割が異なる。公安課は、テロリズムや暴力犯罪の取り締まり、及びそうした活動を行う恐れがある組織の情報収集や監視が主要任務だ。文字通りの治を維持するために日々奮闘している。

 一方で、警備課は政府関係者や要人などの警護、イベント等における雑踏警備などに従事する。警視庁では、警備部警護課が要人警護のスペシャリストである「SP」を取りまとめているが、都道府県警察においても同様の部門がそれぞれ存在しているのだ。もちろん、K県警察本部にも警備課が配置されている。にもかかわらず、彼らを差し置いて公安課が指名されるとはどういう風の吹き回しだろう。

「実は、最初に失踪した市議会議員の父親が現職の衆議院議員で、K県警うちの本部長と昵懇の仲だそうだ」

「なるほど。現役議員が三人も消息不明であるにも関わらず報道がほとんどなされていないのは、関係者の根回しもあった訳ですね」

 さらに言えば、現本部長は公安畑の出身だ。そこに三人の失踪者が保守系の議員であることも手伝って、公安向けの案件だと判断されたのだろう。

「だとしても、なぜ一課に話が回ってくるのですか。もしかして〈新組織〉の関与が疑われているとか」

 新組織——右翼や左翼、カルトや新興宗教のいずれにも該当しない未知数の犯罪組織。その思想や教義は一切不明で、どんな団体が含まれるのかすら具体的に判っていない。国内で新組織による最も大きな犯罪は、五年前に発生した現役首相の暗殺事件。そして、そこからさらに十四年前に新都とK県で起きたテロ事件だ。いずれも主犯は逃亡中で未解決事案となっており、公安部隊が血眼になって犯人の尻尾を捉えようとしている。K県警の公安課は五つの部署に分かれているが、そのうち新組織に関する捜査全般を扱っているのが公安一課——時也の所属先なのである。

「ゴブリンお掃除隊が左翼なのか新組織なのか。三人の議員の失踪に関わっているのか。いずれもはっきりしていないが、一課向けの事案だろうと上が判断した。その決定事項を突っぱねる権利は俺たちにはない」

「一課はただでさえゾディアック団の件で手一杯です。殺人事件の主犯である男女のみならず、組織のメンバーで素性が判明していない者も含めて足取りを追っている最中です。過去の事件との関連性も調べなければならないし、他部署に任せられる事案は素直に頼むべきでは」

 二ヶ月前に時也が捜査に関わった〈ゾディアック団事件〉は、端緒が公安一課のスジ殺しであった点も考慮されて上層部による審議の末に一課が捜査を継続する方向で話がまとまった。一方で、ゾディアック団が新組織なのか否かは一課の中でも意見が割れていて、「右左翼や外事以外の面倒な事案は全部一課に押し付けているのではないか」「ゾディアック団が極左組織でない証拠はない」と主張する捜査員もいる。

「新宮の意見は尤もだし、俺もできるならそうしたいと思っている。だが、複数の案件を抱えているのは俺たちだけじゃない。ハムは今、どこもギリギリの状態で稼働している。新組織の捜査が難しいことは上も重々承知だ。だからこそ、可能な限り自由に動けるよう交渉している。警護の件も新宮一人に任せるわけじゃない。数名でチームを組んでローテーション形式で任務に当たってもらう。ゾディアック団に充てる時間も必要だからな」

 極めて冷静な口調で諭されると反論の余地がない。それに、権力者の声にはノーと言えないところが宮仕えの宿命だと、警察官になってからの十年間で嫌というほど解っていた。

「ひとつ確認ですが、期間は決まっているのでしょうか。終わりの見えない任務では捜査員たちも気が緩んでしまうかもしれません」

「警護期間の設定については俺も上に掛け合ったが、『事が落ち着くまで当面の間』と曖昧な返事でな」

 難しい顔で腕を組む東海林警部。現場の捜査員に丸投げする無責任さに苛立ちを覚えながらも、平静を保つために深呼吸をする。

「たしか、市議会の定例議会は直近だと九月からでしたよね」

「九月四日から十月十六日までだ」

「では、一旦は会期が終了する十月十六日までとしませんか。以降はそのときの状況を見て上に判断してもらいましょう」

「そうだな。ダラダラと任務を続けても双方にとってメリットがない……会期の間は普段以上に外出する機会も増えるし、もし犯人がいるとすれば恰好の的だ。ひとつの区切りとしては良いだろう。上には俺が話しておく」

 公安一課の総指揮者である速水久士課長の渋い顔が脳裏に浮かぶ。先のゾディアック団事件では、組織のメンバーを既の所で取り逃したためにたっぷりと嫌味を浴びせられた。だが、むしろよくその程度で済んだものだと思う。おそらく東海林警部が速水一課長を上手く丸め込んだのだろう。ボスの対人調整力と人望の賜物だ。

「金澤氏の警護チームを早速選抜しよう。手筈が整い次第、任務についてくれ。一発目は新宮に任せる」

 了解、と告げて踵を返す。会議室のドアノブに手をかけたところで、くるりと回れ右をした。

「ところで、ゴブリンお掃除隊のアカウント所有者は特定されているのですか」

「サイバーセキュリティ対策本部と生安部のサイバー犯罪捜査課に任せているところだ。Sharingを運営するアメリカの会社はプライバシーに関して相当厳しく、余程の重大事案でない限り利用者の情報開示にもあまり協力的ではないらしい。しばらく時間がかかるだろうな」

「例えアカウントの所有者が判明したとしても、任意の聴取さえ難しいでしょうね。三人の議員の失踪は、まだ事件性があると決まったわけじゃない。自らの意志で姿を消した可能性もゼロではありませんし、誹謗中傷だけでは引っ張りきれないのでは」

「そうだな。相手の出方を慎重に見極めながらの進行になるだろう」

 奥歯にものが挟まったような言い方は、場合によっては長丁場になるかもしれない——と暗に仄めかしているようだ。時也も予感はあったものの、言葉にするよりも先に会議室を後にした。



「市議会議員の警護、か」

 東海林警部と別れた時也は、十四階フロアの廊下をゆっくりと歩きながら頭の中を整理していた。

 時也がK県警の公安課に配属されて今年で三年目だが、実はその前年までの二年間は警備課に籍を置いていた。警備課に配属された二〇二八年の五月には関西で大規模な万博が開催され、世界各国から要人や著名人が来日したことは記憶に新しい。K県警察本部から臨時で関西へ出張警備を命じられたときは、警察人生初の警護任務に緊張したものだ。その経験もあって、ボスは時也に今回の件を託したのかもしれない。実際、今回の警護にあたって詳細な指示は出されなかった。「警備部での経験があればおよその勝手は解っているだろう。あとはお前の実力に任せた」とでもいうように。

「議員の連続失踪事件、か。金目当ての誘拐事件だとすればボスもそう話しているだろう。つまり、犯人からのコンタクトは未だにないのか」

 ボスから事前に得た情報では、現在行方知れずとなっているのは立浜市の市議会議員を務める三人の男女。三人目の失踪からすでに二週間以上が経過している時点で、身代金目的の誘拐である可能性は低い。

「となると、過激派や反社組織による誘拐事案か、あるいは当事者たちが何らかの理由で自作自演の失踪事件を起こしているか」

 ぶつぶつと呟きながら廊下を闊歩していると、数メートル前方の会議室の扉が開き二人の男性が姿を現した。一人は、警備部公安一課の田端光留警部補。東海林班のサブリーダー的存在で、チームのストッパー役でもある。銀縁眼鏡が似合う、知的な雰囲気を漂わせた公安捜査官だ。

 もう一人は、生活安全部保安課風紀第二係の平塚穣警部補。ゾディアック団事件から派生した売春斡旋事件で、指定暴力団の二次団体である青龍会を検挙したのは平塚班だったと聞き及んでいる。五十代半ばの物腰柔らかな刑事だ。

「――では、また何か動きがあればよろしくお願いします」

「わかりました。ではまた」

 短い挨拶を交わし、平塚警部補が廊下の奥に消える。振り返った田端と目が合うと、「おや」と言いたげに眼鏡越しの両目を瞬かせた。

「新宮部長、おはようございます」

「おはようございます。係長、たしか今日は非番では?」

「ええ。所用で少し立ち寄っただけですので、もう帰りますよ。これから海水浴に行ってきます。娘にせがまれましてね」

 田端警部補は東海林班の中で唯一の既婚者だ。妻は元警察事務員で、当時は現役警察職員同士の結婚だったらしい。小学生の愛娘がいて、「こんな仕事ですから、なかなか家族貢献ができなくて」と吐露することもある悩める良き父親だ。

「それはいい。刑事だって人間ですから羽休めも大切です」

「それでも、仕事の電話があれば家庭そっちのけになってしまうのは否定できませんけどね。今日くらいは職務用の電話が鳴らないように願っています。これ以上、娘の機嫌を損ねたくない」

「今日が穏便に過ぎるように私も祈っていますよ……ところで、今しがた生安部の方と話されていたみたいですが」

 さらりと話題を変えると、田端はさほど隠す素振りもなく「ああ」と答える。

「先ほどの刑事……平塚さんというのですが、二ヶ月前の青龍会による事件の後処理をしていましてね。ゾディアック団の新しい情報が入っていないか、それとなく探りを入れていたのです。収穫はゼロでしたが」

 ゾディアック団事件では組織の半数近くのメンバーが逮捕されたものの、殺人の主犯である男女をはじめ過半数は事件から二ヶ月と少しが経過した今でも野放しの状態だ。殺人事件の時効はとうの昔に撤廃されているし、公安警察は刑事部にも劣らない執念深い捜査が取り柄だ。最後の一人に手錠をかけるまで、例え何十年かかっても時也たちの任務は終わらない。

「古川夏生も、組織のメンバーに関する素性は何も知らないの一点張りですからね。裁判の決着がついたとしても我々としては消化不良といったところですか」

「三輪佑美子はどうです。古川から組織に関する情報を何らかの形で受け取っている様子は」

「落合部長が今も接触しているみたいですが、そんな話は聞き及んでいませんね」

 自由公正党議員の秘書を務めていた古川夏生は、ゾディアック団の一員として悪質な詐欺事件を起こした。婚約者である三輪佑美子は、元共産推進党議員の事務所で働いていた受付嬢である。二人は事件の最中にアメリカへ逃亡しようと画策していたが、捜査員の阻止によってあえなくお縄と相成った。その後の調べで、三輪佑美子は一連の事件には関与していないとして釈放されたが、公安による監視は密かに継続している。

「新宮部長のほうはどうですか。逃亡中の三好友希に関する吉報は」

 期待の眼差しを向けられるが、残念ながら自慢できる収穫物は手元にない。

「香賀町署からの続報は未だにありません。美濃病院跡で取り逃して以降、忽然と姿を消してそのままです」

 三好友希——本名、不明。実在の人物の戸籍を借りて赤の他人に成りすまし、ゾディアック団の一味として事件に関与した疑いが持たれている。立浜市内の探偵事務所でアルバイトをしていたが、それも情報収集のために潜入していたのだ。時也は廃病院で三好と取っ組み合いになり、一度はその手に手錠をかけたものの隙を突かれて逃げられてしまった。

「そうですか……まあ、逃走中のメンバーは皆素性が把握できていない。すぐに見つけようなんて期待してはいけませんね。我々の捜査は地道が最短ルートなのですから」

 苦笑し、眼鏡の縁をくいと持ち上げる。

「ゾディアック団に関する一報が入れば、真っ先にお伝えしますね。では」

 少しだけ猫背の特徴的な後ろ姿を見送る。先輩刑事の足音が完全に絶えたところで、時也は顎を撫でながら低く唸った。

「生安部か……だな」

 ここで時也が言う「不得意」とは、生活安全部にという意味だ。「スジ」とは公安部独自の用語で、協力者とも呼ばれる。組織や団体の情報を必要に応じて公安警察に提供する者、それが協力者だ。世俗ではスパイなどと大袈裟に称されるが、敵陣に内通者をつくるため大雑把な意味では間違っていない。

 公安捜査員は時に、警察内部にもスジを持つ。同じ警察組織とはいえ、部署を跨げばどこがどんな捜査をしているのか、どんな情報を握っているのかそうそう簡単に判るものではない。だからこそ、日頃からあらゆる部署の捜査員と一定の関係を積み上げておく。そうして親睦を深めた者から、あるとき棚から牡丹餅で有益な情報を得る機会も無きにしも非ずだ。

「田端係長が平塚刑事と何を話していたか知りたいところだが……まあ、今は目の前の職務に専念しないとな」

 目下の任務は、金澤幸男市議会議員の警護だ。議員の連続失踪事件は警察が方々に働きかけて報道規制を敷いているが、それも長くは続かないだろう。マスコミ連中にしてみれば、美味しい餌を目の前にしながら指を咥えてじっと見ているだけの状態だ。彼らは「待て」をいつまでも忠実に守るほど躾が行き届いたペットとは違う。やがては我慢の限界に達し、我先にと事件を大々的に取り上げるテレビ局や新聞社が出てきても不思議ではない。それまでに何としてでも決着をつけたい——と上層部はあくせくしているはずだ。

「お偉いさんのボディガードか。気が重いな」

 かつての警備課時代を思い返しながら、ぼそりと呟いた。

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