元社畜、相棒に救われる
シンの腹をメルムとかいう魔族の餓鬼が抉った。目では反応できていた。しかし、奴が張った結界は我のような精霊の動きを鈍らせる効果があったようだ。
身体を思うように動かせない一瞬の隙を突かれてしまった。腹部から血を流しながら壁に叩きつけられたシンは動かなかった。
シンの身体から魔力は感じているし、我とシンの繋がりも途絶えていない。まだシンは生きている。
動揺するようなことではない。いつもの我なら何も感じない。たかが人族の小僧の生死にいちいち感情を動かされることなどあり得なかった。
今日までは。
「…おい、貴様。」
ルリの低い声が部屋に響いた。シンが今まで聞いたことのない冷めた声だった。冷房などこの世界にあるはずがないのに部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚えるほど、ルリから冷ややかな殺気が放たれた。
「…っ!、ハハッ!生意気な餓鬼の今度は喋る犬か。全くおかしな奴らだ。お前がどんな魔物か気になるが、念のため殺しておくか。」
メルムはルリの殺気に一瞬怯んだが、すぐに持ち直してルリに向き合った。
「貴様は誰に手を出したか理解しておるのか?この我が認めた唯一の男。我と運命を共にする相棒を貴様は傷つけた…」
「ル、ルリ…!」
シンは辛うじて意識を保っていた。殴り飛ばされたお陰で結界の外に出ることに成功したのだ。幸い、心臓や大事な臓器は無事のようだった。激痛と動揺で薄れゆく意識の中で何とか魔力による止血と応急手当を試みていた。
以前使った治癒はダメージを負ったシンにはできない。血を止めるだけの簡易的な治癒に留め、あとは気を失わないように努めていた。
「…!」
シンが初めて目にするルリの怒り。普段は自尊心が高く、お調子者のルリが相手を射殺すような視線を飛ばしている。
常に完璧に制御されていたルリの魔力は感情の起伏によるものなのか、生き物のようにうねりはじめ、次第に大きく膨れ上がってきた。
ルリの魔力の変化に気付いた老魔導士とメルムは驚いていた。
「バカなっ!ここは結界の内側なんだぞ!魔力を練れるわけがねぇ!」
「羽虫風情が舐めるな。この程度の虫籠で我をどうにかできるわけがないじゃろ。」
ルリの魔力が更に高まる。非常に濃密かつ洗練された魔力はシンの目にはとても
「綺麗だ…」
パリンッ!
やがてルリの魔力に耐えられなくなった結界が砕けて消えた。
「くそっ!だがまだだ!俺がお前を殺すことに変わりはねぇ!」
完全に戦意を喪失してへたり込む老人とは違い、メルムはやる気だった。メルムの魔力が高まるのが見えた。だが、ハッキリ言って今のルリとは桁が違った。
「楽には殺さん。己の愚かさを理解し、誰を敵に回したのか思い知らせてやる!」
ルリが空に向かって咆哮した。
♢
同時刻帝都にて
「な、なんだあれ!?」
一人が驚愕の表情で空を見上げる。なんだなんだと他の人々も釣られて空を見た。
皆一様に口を開けて驚きと恐怖を感じた。
それは生きているようだった。今朝から帝都の空を厚く覆う雲が渦を巻くように一か所に集まってきたのだ。深い闇のように黒い雲はどんどん流れ込み、帝都のシンボルである魔法省の塔の真上で渦巻いていた。
それはまるで誰かの怒りを代弁するかのように空を吞み込んでいった。
♢
「貴様らは知らねばならん。我らに手を出せばどのような末路を辿るのかを。」
「くっ…!」
極限まで練られたルリの魔力はこれから放たれるであろう魔法の強大さを想像させた。そしてその時は来た。
「消えるがいい。」
叫び声をあげながら特攻するメルムに対してルリは魔法を発動させた。
「『
ルリが唱えた瞬間、辺りは眩い光に包まれた。あまりの眩しさにシンは目を閉じた。それから数秒もしくは数十秒後に目を開けるとシンは唖然とした。
先ほどまで薄暗い地下室にいたはずのシンの視界は明るくなっていた。正確には地下室だった場所の天井が吹き飛び、外に出ている状態だった。
「え、え?ど、どういう…」
全く状況が飲み込めないシン。だが、目の前に広がる光景から推理されることは一つだった。
ルリのたった一撃の魔法で魔法省の塔は跡形もなく消し飛んだのだ。メルムや老人の姿はなく、他の魔導士の姿も見えなかった。
この景色を見ればルリの力と怒りがどれほどのものだったのか想像することができた。
シンが無事なのは、ルリが魔力で守ってくれたからだろう。立っているルリがシンの方を振り返った。
「生きておったか。奴らは我が片付けておいた。全くあの程度に負けるとは主もまだまだじゃな」
いつもの調子で話すルリにシンは安心した。
「ありがとう、ルリ。」
ルリに礼を伝えると笑顔で言われた。
「なぁに、弟子の尻拭いも師匠の勤めじゃ!それに我も少々腹が立ったからのぉ、憂さ晴らしも兼ねてやっただけじゃ!」
憂さ晴らしにしては規模が洒落になってないけどシンのために怒ってくれたことは素直に嬉しかった。
「…じゃあ、あと、は、ここから…逃げ、ない、と…」
安心したシンは緊張の糸が切れて何とか保っていた意識を失ってしまった。傷の止血には成功しているが、未だに腹部に穴が空いている。このままでは命に関わる。
「シン!」
ルリが血相を変えてシンの元へ駆け寄った。
「くそっ!我では人の治癒ができんっ…!」
ルリが治せるのは自分と同じ精霊のみである。体の構成が違うシンを治癒することは不可能だった。どうすることもできなかった。ただ弱っていくシンを見ることしかルリにはできなかった。
「何か手はないのか…!」
必死に思考を巡らすルリだったが、良い案は浮かばなかった。
万策尽きたと思われたその時だった。
「こんな所で昼寝か?兄弟。」
一人の男が音もなく現れた。
「貴様は…!」
体からむせ返る程の酒の匂いを放つその男は、横たわるシンの前に立った。そして懐から小瓶を取り出した。
「こいつはとある森に住む奴らからかっぱらってきた秘薬だ。生きているならどんな傷でも治しちまう優れものだとよ。」
小瓶の蓋を開けた男は、シンの口に瓶を近づけ飲ませた。
「ゴホッ…!」
「死にたくなけりゃ飲め。せっかく出会った飲み友に死なれたんじゃ目覚めが悪い。」
無理やり瓶の中身をシンの口に突っ込んだ男は、少し乱暴に嚥下させた。
薬を飲んだシンの体は仄かに発光した。そして、腹に空いた穴がみるみる塞がっていったのだ。傷が完全に塞がると、苦しそうなシンの表情と顔色が正常になり、すやすやと寝息をたてはじめた。
「スゥ…スゥ…」
「貴様はこの前の酒場で…」
ルリがその男のことを思い出した。
「ん?なんだあの時いたのか?喋る狼とはずいぶん珍しいな。」
男は先日帝都の酒場で出会ったリベルだった。なぜこんな場所にリベルがいるのかは不明だ。ただの酔っ払いにしか見えない彼はどこか不思議な雰囲気を纏っていた。
「初めて見た時から感じていたが、やはり貴様は…」
「おっと!余計な詮索は無しにしようぜ狼さんよ。こっちもお前らがここで何をしていたか聞くつもりはない。だから早く行きな。もうすぐ帝国軍が集まってくる。捕まると面倒なんだろ?」
リベルは事情を話すつもりはないらしい。これ以上話しても仕方ないと感じたルリは礼を言った。
「ひとまずは礼を言おう。このルリの名において此度の恩には必ず報いる。助かった…」
「いいってことよ。そいつが起きたら伝えてくれ。今度は朝まで付き合ってもらうぞ、ってな」
「伝えておこう。」
そう短く言うと、ルリはシンを背中に乗せて走り去った。
振り返るとそこにはもうリベルの姿はなかった。
ルリは文字通り風のように、いや、風よりも速く帝都を駆け抜けた。一方でシンはルリの背中で温もりと心地よい風を感じながら深い眠りに就いたのだった。
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