北条君の訪問 その四

 北条君は、ここにいますといって大人しく座った。

 鏡子は興味をひかれた表情で訊ねた。

「それって先生知ってるんですね。」

「ずいぶん、付き合わされましたから。別れた女の人をけなしたり、ほめたり、後悔したり、思い切ると言ってみたり支離滅裂ですよ。

 酒乱の哲学者みたいでしたよ。なまじ弁が立つと始末に終えない」

「で、先生はどうしたんです?」

「基本的には放っておきました。若い男の失恋なんて面倒見るような価値はないですよ。気に入った玩具をとりあげられた子供と変わらない、ただの執着ですから」

 ひどいなぁ、と北条君は横でつぶやいた。

「執着ですか」

「そうですよ、愛してたなんていうんで。だったら良かったんじゃないかって言ってやったんです。

 どれだけ自惚れてるんだとね。愛してたって言うんなら自分と別れたのは相手の幸せだから、喜んでやれと」


 鏡子は、ひどいと言って口元に手をやりながら北条を見た。

「まったく先生はひどいんですよ。口を開けばそういうことしか言わないんです、慰められたことなんてなかったですから、その時も」

「すこしはかわいそうだとは思いましたけどね。もともと勝手に好きになっただけじゃないですか。

 いつまでも夢を見ていてもいいですが、光陰矢の如しですよ。そんなことをしている間に人生は直ぐに終わっちゃいます。だから人間は忘れるようにできてるんですよ。

 それに恋愛なんてうまくやる方法なんて無いんです。始まるのも終わるのも訳なんてないんですよ」

「でも、あの時こうしていたらとか、どうしてこんなこと言っちゃったんだろうって考えてしまうんですよ、もしそうやっていなかったらこんなことにはならなかったんじゃないかって」

「そうですよね。そんなことばっかりですよ人間のやることは。でも、それが原因ではないことは私が保証しますよ。

 人間は好きだったらどんな非道なことでも受け入れる。でも、好きじゃなければ、どんなに大事にされてもなんとも思わないし、余計なお世話にしか感じられない。気分の生き物ですから」

 鏡子はうなずき、そっとお茶のおかわりを入れに立った。

 先生はそのケチのつけようのない様子を見ながら、彼女と別れた男の気持ちがわかるような気がした。

 たぶん気の弱いタイプだったのだろう。


「無理に忘れなくてもいいでしょう。どうせできないのですから。むしろ忘れないようにした方がいい」

 鏡子はそう言われて先生を見た。

「もっと今の自分の感情を味わった方がいい。それが自分を大事にすることなんですよ。ごまかすのが一番良くない。ものを書く人ならなおさらです」

 北条君は何も言わないでお茶をすすっていた。

「文章は本当の事を知りながらそれを嘘で書くことです。だからみんな読むんです。そのためには未経験だったダメな自分を受け入れることですよ。それができないなら、書くのは止めて別の道を考えたほうがいい」

 先生の言葉を聴きながら鏡子は何かジッと考えているようだった。

「私はやめません。こんな状態でも書きたいと思う気持ちは無くなっていませんから」

 鏡子はそう言い切った。


「ところで、先生はどうなんですか」

と、北条君はやっと口を開いた。

「なんのことだ」

「恋愛ですよ、先生の」

 鏡子も聞きたいなぁ、と先生をじっと見た。

 先生は北条君に余計な事をいうなと言い、それはまた今度にしましょう、と先生は言ってガンとして口を割らなかった。

「ずるいですよ、僕の話をしたくせに」

「あれは、付き合わされたんだ。君が悪いんだろう。私は君のダメさ加減など知りたくもなかったんだからな。」

と先生は言った。


 鏡子は北条君に実に威力のあるウィンクをして

「だいじょうぶ、そのうち絶対わたしが先生に話させてみせるから。」

と言った。

 先生はこの人に問い詰められたら黙っている自信はないな、と最初に見たよりはずっと幼く、無邪気で好奇心の強そうな鏡子を見て思った。

「じゃあ、今日は竹田さんのおごりでご馳走を食べに行きましょう」

と北条君は言い出し、鏡子はそれが目的だったんじゃないのと笑った。

 先生と北条君は先に外に出て、鏡子が出てくるのを待っていた。

 北条君はありがとうございました、と先生に頭を下げた。

「本当は私にあの人を自慢したかったんだろう。気持ちはわかるが、ただ、あの人は手ごわいぞ」

と先生にそう言われて、北条君は隠れているところを不意に見つかった子供のようにあたふたした。

 すっかり身支度を整えた鏡子が姿をあらわすと、じゃあ行きましょうか、と言ってすたすた歩き出した先生の後を、北条君は慌てて参ったなあとつぶやいて追いかけた。

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