第2話 北条君の訪問 その一

 このところ台風のせいで天気がすぐれず転倒先生も外出は控えめである。雨の日は仕事でもない限り家にいて、かつ自分の部屋で終日過ごす。

 その日もさて、今日はここのところ忙しくしていたので読みたかった大物を味わおうと楽しみにしていた。

 朝昼兼用の食事を済ませ、コーヒーを片手に自室にこもろうとした時に、廊下の向うで母が北条さんから電話、と大声でのたまったので、コーヒーを片手に電話口に舞い戻った。

 転倒先生は自分の部屋に電話を置かない。理由はいろいろあるが、省略する。


「かわりました」

「先生、今日お時間ありますか」

「あいにく無い」

「そんなぁ。いつも僕のときはないんですから」

「たまたまだ。で、何の用だ、とりあえず聞いておこう。言っておくがアルバイトはしない、それから下らないパーティにも出ない。それにそのもそも私は君の先生ではないんだ」

「また、そういう意地悪な事を。それで、今日はいつもとは違うんですよ。だから謝礼も出ないし、ご馳走もありません」

「けっこう、その方が安心だ」

 

 転倒先生は、運良く雨の上がった空を見上げ、雨にまだ濡れている舗道を駅に向かって歩いていた。

 晩夏か初秋かと先生は考え、この時期にはなんとも名状しがたい感情が忍び込む。それが、北条君の頼みを断れなかった原因である。

 このところしばらく先生の周りでは人間らしい話もなく、なんとなく暖かくなってそのうち暑くなって、気が付くと涼しくなって寒さが感じられるようになる、と繰り返しになっていた。

 季節に色を添えるのは、四季折々の花鳥風月なのだろうが、転倒先生は花見も花火も月見もしない。

 アスファルトとビルと電線と自動車の合間では興ざめなのだ。


 北条君は仕事の関係上、世間が広くことある毎に電話をしてきては、何事かに先生を引っ張り出そうとする。

 たいがいは先生にはありがた迷惑な話だったが、先生の母には北条君は評判がいい。母にしてみれば、いい年の男が家で黴の生えたような本に張り付いているのは、鬱陶しく風通しも悪く、簡単に言えば邪魔なのである。

 だから電話も、他の電話なら伝言を聞いてあとで知らせてくれるのだが、北条君はすぐつなぐ。やっかい払いができると思うのだ。


 転倒先生は駅にたどり着き、各駅停車に乗り込んだ。本をゆっくり読むためである。

 さすがに家で読むほどの大物は持っては来なかったが、つい読み忘れがちで後回しになりそうな本を持って出た。古い時代の随筆だが、これがなかなか難物である。

 しかし、この重宝するのは、今だと大きな全集で読まねばならない本が、手ごろな大きさに収められている点で、またこれは小さいために余計なことは書いていないので、なかなか苦心する。

 関心はあるが一筋縄ではいかない読書は、先生にとって天恵である。その日も電車を降りるまで四苦八苦した。


 駅を降りると、北条君の待つ出口に向かった。幸いまだ待ち合わせに五分ほどあったので、傍らの壁にもたれて先ほど読んでいた本の内容をあれこれと考えていた。

 先生はそこで百年前の駅でも、このような状況で誰かを待っていた人間はいただろうし、おそらく百年後もいるだろうと、わけもなく考えた。

 用事は雨上がりには似つかわしくないものだったが、先生にとっては外出はある意味気晴らしのようなものである。

 北条君にはその先生のそうしたこだわらない感覚が必要だった。正確に言えばその日会いにゆく人物に、だが。


 北条君は、ぼんやりしている先生を見つけると、

「先生!お久しぶりです」

と正面に立ち、最敬礼した。

「この間あったばかりだろう」

 一瞥すると先生は行こう、と北条君をうながした。

 一見すると冷たくしているように見えるが、北条君の敏なところは自分には及ばないと思っていた。

 北条君は今、とある雑誌の編集者をしていた。しかし、それは彼の世を忍ぶ仮の姿だと、転倒先生は思っている。


 いつまで今の職場にいるかわからない。先生が知り合った時には骨董屋の店番をしていた。先生は偶然その店に入り、彼と知り合った。

 そこで彼の該博な知識に感心し、その折ささやかな物を購った。

 その後なぜか北条君は現在の仕事についた。

 訳を先生が聞くと、北条君は別に理由はないんです、ただ一つのところに落ち着けない性格なんですよ、かといってぶらぶらしていれば両親が心配しますから、と答えた。

 先生は北条君のその心根が好きだった。


 北条君は仕事をするが、経済的なことを言えば当座は、その必要がない。しかし、弁が立ち、思うところには勤勉で習熟が早い。

 先生はそれゆえ北条君には厳しくなり勝ちである。あまり物言わず、することが鈍である人は安心である。しかし北条君は機敏な人である。

 世間は明哲保身で行かないと、隣人友人ですら落とし穴を掘る。

 そこで先生は北条君にそれを警告するのである。

 しかし、気をつけろと言ってもそうできないのが人間の常なので、出鼻を挫き、話の腰を折る、スムーズに事を運ばせないようにする。

 北条君はそれを悟り、先生のいうことを是としている。

 先生は調子に乗られると面倒なのでそうしている所もあったのだが。


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