猪飼君の話 その二
それから幾星霜、転倒先生も浮き沈みや寄り道があったが(女性にも懐にも)なんとか学生の頃よりは、本の一冊も購えるようになった。
分が相応になったかは自分でも甚だ疑問だったが、猪飼書房を訪うことができた。
このころには、猪飼君は小さいながらも都下の商店街の一角に店を構えていた。
大学や企業が軒を並べるようなところではなく新興のベッドタウンだったが、人によっては上京したついでといって、わざわざ地方から足を運んで実物を検分に来る人も少なくなかった。
どちらかというと近所の客には縁がないのかもしれない、かえってそのほうが商売はしやすいですよ、と知り合って後に猪飼君は転倒先生に語った。
初めて訪ねた折、転倒先生は時間の経つのを忘れた。
このごろでは滅多にそんな事はなかった。一般の書店は話にならないが、古書店ですらこれといった本がなっていたからである。
転倒先生はだいぶ散財することになったが、いくつか探していた文献を見つけて勘定場にいった。
愛想のないスチールの机に猪飼君は座って、何がしかの本をじっと見つめながら値を考えているようだった。
転倒先生に気が付くといらっしゃいませと微笑して言い、値札をはずしながら価を告げた。その金額を払いながら、転倒先生は他に客もいないことをいい事に、猪飼君に学生の頃の思い出話をした。
猪飼君はそのことを喜んで、
「お急ぎの用がなければゆっくりしていってください」
と転倒先生を引きとめ、いろいろと本についての四方山話をしてくれたのである。
先生の教授との話には猪飼君も笑い、悪女と古書を並べるとはなかなか隅には置けない先生だと名前を聞かれたので教えると、その方はと転倒先生の母校を挙げた。
「何で学校が分かるんです」
「持っていくわけではないですが、配送を頼みますから。先生方も山の神には手を焼くでしょう。自宅には届けさせません」
「でも先生は専門外で注文は少ないでしょう」
「商売人ですから、お客さまはお金のなる木ですよ。お金のなる木の場所を忘れる人はいませんよ」
「沢山なる木とそうでない私のようなたいして実のならない木じゃ違うでしょう」
「いいえ、私は父からこの商売を始める時に、良いお客は他のお客も見るものだから気をつけろと言われました」
転倒先生は今ひとつ合点がいかず、どういうわけでと聞くと
「私も分からないで訊ねました」
と猪飼君はそうでしょうというようにうなずき、話を続けた。
「父は、初めてのお客さんは店の人間が信用できるか見ている。
まして看板がない店ならばなおさらだ。三百円のお客さんでも三万円のお客さんでも同様に大切にしているようであれば、利だけで商売をしているわけではないと思う。
人を大事にする商売人は長くやってゆける。
それと同時にお客は自分が懐で大事にされているわけではなく、人間として尊重されていると思う。
そうするとお金で尊重されようとは思わない。良いお客さんになろうとする。結果として人間としても付き合えるようになる」
「なるほど」
「あと一ついいことがある。と言われました」
「なんです」
「払いに滞るような無理な買い物をしなくなる、と」
「お金で客を見ないからですね」
「それから、たとえ踏み倒されても恨むなと言われました」
「それは難しいでしょう」
「どうせ返ってこないものを考えているくらいなら、そのとき大事なことに精を出す方がいい。
落とした金は返ってきたらもうけものだろう、同じ事だ、と言っていました」
父は一代で店を持った人でしたからね、今じゃ通用しないという人もいるかもしれませんが、私は父が好きですし、商売は違っても父のようにやりたいと思っていますから、と猪飼君は言った。
転倒先生がそろそろお暇しましょうというと、猪飼君はまた来てくださいと名刺をくれた。それ以来、今にいたるまで数年来の付き合いになっている。
転倒先生は、無事本屋にたどり着き、新刊の本を手に入れ、それを少し家に帰る道々どこかで覗こうと、腰を落ち着ける先を探した。
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