第2話 猪飼君の話 その一
この古書店の主である猪飼君は京都の人である。
家の商売よりも本が好きで長じて勉強ができる子になった。
それで、商売は父に良く似た弟に継いでもらい、母親の説得で大学にいった。
しかし、卒業はしたものの商売のみでなく、会社員も勤まらなかった。本人いわく、融通が利かなくて要領が悪いんです、ということだった。
そのことを父親が心配し、本が好きなら本屋にでも勤めたらいいだろうというのを聞くと、それなら古書店にやってくれ、と頼み父の知り合いの古書店に勤める事になり、これが転機になった。
もともと大学にいた頃は、遊ぶようにして本を読み過ごしていた学生であるから、本に関してだけは頭が働いた。
勤めていた間も給料は本の購入に費やし、傍ら休みには本の講評を記し、その内容について要約を付したものをまとめるのを楽しみとしていた。
大学時代に大学院を勧めてくれた恩師に会いに行ったおり、近況報告すると、その才を惜しんだこともあり、またそれは適材だと喜んで、この恩師の購入する古書の注文を一手にした。
恩師はそれまでよりも早く安く本が手に入るようになったので、これを同僚同学に勧めたもので彼の名望はその時になった。
古書店主は、その勤めに報いる給与を払えない事を苦にし、猪飼君を呼び、君は独立してもやってゆける、古書店は店がなくとも成り立つからやってみてはどうかと言った。
店主は君が開拓した顧客はもとからこの店にはなかったものだからその人たちにはこの店ではなくて君が必要なのだからここにいる必要はない。君もこのまま一介の店員で終わってしまう人ではない、と言われた。
猪飼君は店主の言う事を聞き、商売を始めようと考えたが、京都では主人の店の邪魔になると考え、家業を継いだ弟に相談し、出資をしてもらい東京の都下近郊のマンションの一室で商売を始める事になったのである。
弟には路面に店を出してはと言われたが、ものになるかどうかもわからない者に初めからそんなに金をかけるものではない、兄ではなく赤の他人に貸すと思ったらそんなことは言えまいと笑って断った。
転倒先生は、学生だった折に友人を探しに行った研究室で教授に暇つぶしに引き止められて、古書の話になった。
そのころ転倒先生は、若造の癖に古書狂いをしており、親からもらった教科書代もアルバイトなんかをして稼いだお金も随分つぎ込んでいた頃だった。
教授はその話の合間にこの本があの本がといくつかの古書店の目録をみせた。
その中で一際立派な目録があり、転倒先生は
「この目録を揃えたら先々いいものになりますよ」
といいちょっとみせてもらえませんかと言うと、教授は俺の専門からはちょっとはずれているからあんまりたのまないのだが、と言って渡してくれた。
転倒先生は、中を見てこれは凄いと思ったが、いかんせん自分の懐ではどうにもならない本ばかりだった。
「いい値ですね。欲しくなる値段だけど僕には分が過ぎる」
教授は笑って誰でも君くらいの頃はそうさ、女に騙されるのだって年季がかかると言った。
「そりゃ、どういうことですか、若くたって騙されれば結構堪えますよ」
「まあ、そんなものは時間があれば取り返しが利くさ。
しかしいい年の男を騙すのはかなりの手錬れじゃないとな。
それに悪くていい女は、初めから若い男なんて眼中に無い」
「なぜです」
聞き捨てならないと若かった転倒先生は気色ばんだ。
「さっき君が言った通りさ」
「ふところ、ですか」
「その軽重を量ること雲助の如し、だからな。金額の多寡はもちろんだが、その財のの落ち着きも大事だ。今日あって明日なくなるようじゃ却って足が出るからな」
なるほど、と転倒先生は教授もなかなか隅に置けないと思った。
しかし、このとき、その古書店の名前と連絡先は頭に刻み込んだ。
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