柏原君との再会 その二
なぜ、転倒先生がこの柏原君と知り合いなのか、まずは先生が誰にも話さないので、父母友人も知らないことである。
かつて先生は、若かりし頃、知り合いのつてで私塾に勤務し、子供を教授したことがあった。当時転倒先生は、その剛直な性格が今以上でそれが災いして口に糊する手立てが無く、かろうじてその職をして生計を立てていた。
その私塾に先生を呼んだ塾長広瀬氏は志高く、勉強もさることながら子供に対する姿勢が真摯で、先生に教育について語っては倦むところがなかった。
広瀬氏の話すところによると、氏はさる地方の名門高校に在学中、朋友を亡くした。原因は同校のあまりに苛烈な成績競争と厳しい規律だった(その高校を地元の子供たちは、監獄と称したと広瀬氏は言った)。
氏はその死によって学校教育というもの疑問を持ち、子供が勉強を苦にせずできるような環境を作りたいと考え塾を創設したのである。
その塾を訪れた生徒の一人が柏原君だったのである。
柏原君はもともと成績がよく、先生はただその補習をしたに過ぎず、格別その行く道に影響を与えた覚えはない。ただ、授業後よく転倒先生は生徒に放言をし、世間のありように疑問を呈し、たとえ年端の行かない子供であっても、朋輩のように話をした。
その中にあって、柏原君は若干十五歳とは思えない風格があり、その発言は先生をして一目を置かざるを得ないところがあった。
ある日のこと、授業も終わり生徒が三々五々帰ってゆくときに、柏原君が一人何事か考えているので、転倒先生は肩をたたき何か悩んでいることがあるのかを無言で窺った。
すると、柏原君は先生、なぜ、非行に走る子供がいるのかというような事を訊ねた。
転倒先生はそれを聞き、驚いた。
「原因は色々あるだろう。しかし、本当の問題は、そうした行動をどうしてとるのかを疑問にしないでなくそうとするところにある。
問題を解決しようとする人間の気持ちが足らない所がいけない。他人事と思ったらどんなことも解決しない。
本当は、人間は人の嫌がることはしたくないものだ。みんなが幸せになるには、みんながみんなを幸せにしようと思えればいいんだが、なかなかそうならない。
柏原が疑問をもつほど人は疑問を持たない、分かった気になるだけで問題を解決するより、その問題をどうやって閉じ込めて見えないようにすることしか考えないんだ。
それに比べれば柏原は、疑問に思っているのだから中々大したものだ。
疑問を本当に解決できるのはその疑問を持った人間だけだ」
転倒先生はそんなような事を言った。
柏原君は無言でうなずき、さようならと帰っていった。
転倒先生は、柏原君は古にいうところの賢者だと思い尊敬した。そして同時に己の不明を恥じたのは言うまでも無い。
その後、塾は広瀬氏が実家の事情で帰郷を余儀なくされたため、閉められる事になり、転倒先生も他に職を持たざるを得なくなったが、柏原君はそれを知って転倒先生と連絡をとり、私信のやり取りをしていた。
年々互いに多忙(先生の場合は不精)のために少なくなったが、それでも時折いまでも柏原君は、はがきや手紙をくれる。先生が返事を書くのはものぐさが嵩じて一、二ヶ月後になってしまうがそれでも往信は直ぐ返ってくる。
柏原君はそうした人物だった。
カフェで転倒先生が柏原君を避けようとしたのは、柏原君が嫌なわけではないのは当たり前で、むしろ機会があればゆっくり旧交を温めたいと思っているくらいである。
しかし、著名になった柏原君しか知らない人たちの中では少々顔を合わせ辛かった。転倒先生は人目につくことが苦手だった。
なので、隣のゲバラと坊主刈りが騒がないようにと願って、できるだけわからないようにさっさとここを出てしまおうと思ったが、勘定をするところに行くのには柏原君の前を通らねばならなかった。先生はこういうことが苦手だった。こそこそ何かするという事ができない。
ゲバラと坊主刈りは柏原君の様子を見ているようで実物の方がかっこいいとか何とか言っていた。先生はもう少し店が混んでくればドサクサにまぎれて出ようと、席を立つ機会を窺っていた。
ちょうど、その頃からお客がだんだんと増えてきて、うまくしたものでレジと柏原君の間にお客が座った。本を読むような振りで顔を隠しながら、チラッと先生は窓際の柏原君を見るとテーブルにうつむいて何やらノートに書いている。
これは渡りに船と思い、立ち上がったまでは良かったが焦ったせいかひざがテーブルに当たり、コップを倒してしまった。転倒先生の人並みな反射神経のおかげでコップは無事だったが、ホッとしたところで、顔を上げると、そこには柏原君が笑って佇んでいた。
「先生、お久しぶりです」
万事休す、である。転倒先生はあきらめて素直に喜んだ。
「本当に久しぶりだ。君も壮健でなにより」
二人は握手を交わした。柏原君はお急ぎですか、というので転倒先生はいいや、相変わらず時間には不自由してないよ、と言って笑った。
柏原君は、じゃちょっと話しましょう。僕も気分転換に出ただけなんで、もし良かったら家に来ませんか、というので先生は、災い転じて福かなと苦笑いし、
「邪魔するよ、それなら」
と横であっけにとられているゲバラと坊主刈りを尻目に柏原君と店を出た。
転倒先生は「先生」とは呼ばれてもそれは柏原君がそう呼ぶのに慣れているからであって、転倒先生自身はこの青年の先生だとは思っていない。
手紙のやりとりでも、訊ねることの方が多かった。どう考えても柏原君の方が世間も見聞も広かったからである。
柏原君の棲家は、先ほどのカフェから歩いてほんの3分くらいのところにある瀟洒なマンションの一室だった。転倒先生は、これが本当の独身貴族というものだ、と感心した。それをいうと当の柏原君は、
「そうですかねえ」
と苦笑するだけであった。
先生も長く独身だが、このような絵に描いた如きスマートな生活をした経歴はない。いっとき仕事の関係でひとり暮らしはしたが、木造の風呂なしのアパートで、本棚も無かったので、本の隙間に寝床があるような生活だった。
柏原君は、まあのんびりしていってください、僕もちょうどようやく休みがとれて、先生に会えるなんてタイミングがいいです、と言った。
先生は大きな壁一面が本棚になっていたのでソファから立ち上がって、柏原君がコーヒーを入れているあいだ、居並ぶ書籍を眺めていた。
専門の本が多かったが、本棚の一角に子供の頃に読んだらしい本があり、それを見て転倒先生は嬉しそうに一冊取り出して中を見ていた。
「ときどき無性に読みたくなるんですよ」
後ろの方で柏原君がそういうのが聞こえた。
「こういう本はとっておくもんだよ、また買おうと思っても意外に手間がかかる。実際、ずいぶん探したことがある」
「見つかりましたか」
「ないもんだよ、でもそのうち見つかるさ。昔の恋人にたまたま出会うことだってあるんだから、これだけ沢山の人がいる中でも」
「僕も先生に会ったし」
「そういうことだ」
柏原君は笑って、まあ、座ってください、と先生をソファに呼び戻した。先生は本を戻して座った。
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