#99 文化祭 後編







 …沢山の視線が僕の方に集まっている。

 それはクラスメイトからの視線であり、僕はごくりと小さく喉を鳴らす。

 そのまま僕は、手に持っているジュースの缶を手前に持ち上げた。

 同時に、みんなも手に持った缶を前に出し、その瞬間に備え始める。

 そして、みんなの顔を見渡し、時は満ちたと感じた僕は遂にその口を開いた。




「では改めて…、僕たちのクラスがグランプリを獲得しました!」




 僕がそう言うと、クラスからは歓声や拍手が上がり始める。


「ここからまだ片付けなどがありますが、今はグランプリを獲得できた嬉しさを、みんなで共有できたらなと思います!」


 「それじゃあ行くよ!」という僕の言葉を合図に、僕たちはジュースの缶を持ち上げ、声を揃えてこう言った___。




___かんぱーいっ!!










 有志発表の後、体育館で文化祭の閉会式があり、そこで僕たち三年六組の和装カフェはグランプリを獲得した。


 クラスメイトと達成感や満足感、それに喜びを分かち合えたあの瞬間は、きっとこれからも忘れることはないだろう。


 それから教室へと戻り、僕たちはグランプリのお祝いを始めた。

 四宮先生が差し入れとして渡してくれたジュースを乾杯しながら、僕たちは今日の思い出話に花を咲かせる。

 今日は、語り出したらきりがないほどの充実した一日だった。

 そのため、次から次へと話したいことが溢れてきて、逆に困ってしまうという幸せな悩みを抱えてしまう。

 周りで話すみんなもそんな感じで、教室には賑やかな話し声や笑い声が響いていた。


 そんなクラスの雰囲気が嬉しくて口元を緩ませていると、


「何だか嬉しそうだね、川瀬っ♪」


 と愛野さんが声を掛けてきた。


「うん、嬉しいよっ」


 僕は愛野さんからの言葉にそう返事をし、自分の顔に笑みを浮かべる。


「みんなが嬉しそうな顔を浮かべてるのを見て、何だか僕も嬉しくなっちゃって」


「ふふっ、私もそれ分かるかもっ♪」


 そのまま愛野さんも「えへへっ♪」と嬉しそうな笑顔を浮かべ、それを僕に向けてくれた。

 その笑顔を「可愛いなぁ」なんて思いながら、僕は準備期間の時に愛野さんが言ってくれた言葉を思い出す。


『今年はみんなで楽しい文化祭にしようねっ♪』


 僕は、クラスのみんなが楽しいと思えるような文化祭を目指し、代表として出し物の企画・運営に精一杯取り組んだ。

 今、クラスでは僕が「こうなった良いなぁ」と思い描いていた光景が広がっており、少しはこの光景を生み出す役に立てたかな?と僕は思ったりする。

 もしそうだったら良いなぁとも思いながら、


「愛野さん、文化祭楽しかったねっ」


 と僕は愛野さんに伝えた。

 僕のそんな言葉に、愛野さんは笑顔のままこう言葉を返してくれた。


「うんっ、楽しかったねっ♪」


 そして僕は、準備期間から今日までの自分自身に対し、「よくがんばった」という言葉を心の中で送ることにした。


 これは、僕が最近心掛けているおまじないのようなものだ。

 どんなに小さなことでも、それを乗り越えた自分自身を褒めてあげることで、「次もがんばろう」という力が湧いてくる。


 沢山の「がんばり」を積み重ねた先には、一体何が待っているのだろう。


 それは「未来」のことなので誰にも分からないが、きっと「良い未来」であるような、そんな気がしている。


 だって、「がんばり」を積み重ねたことで、こんなにも「良い文化祭」になったのだから___。










***










 クラスで後片付けが始まった頃、僕と愛野さんはある場所に向かっていた。

 というのも、少し前に四宮先生からこんなことを伝えられたからだ。


『文化祭のグランプリを獲得した件で、代表と副代表の二人に会いたいとおっしゃっている方がいるの』


 四宮先生から「その人」の名前を聞いた時、僕と愛野さん、それにクラスのみんなはびっくりとした表情を浮かべた。

 それと同時に、「もしかしてあれか…!?」というような期待に満ちた声も上がり始め、そこからクラスは大盛り上がりとなった。


「何だかドキドキしてきちゃうねっ」


 そうしてさっきの教室でのやり取りを思い返していると、並んで歩いている愛野さんがそう話を振ってきたので、僕は「うん」と頷きを返す。


「僕は今から初めて会うけど、愛野さんも初めてだよね?」


「私も初めてだよっ」


 実は、僕たちに会いたいと言ってくれた人と、僕たちは面識がない。

 何故なら、その人がそれほど簡単に会えるような人ではないからだ。

 そのため、こうして直接会って話せるというのは、本当に貴重な体験であるように僕は思う。


「みんなもさっき言ってたけど、これなら噂も本当かもしれない可能性が高いよねっ」


「そうだねっ」


 どうやら愛野さんもまた、みんなと同じように噂の信憑性がかなり高いのではないかと思っているようで、そこからは二人で簡単に予想をしながら歩みを進めた。


___グランプリを獲得すると、「良いこと」がある。


 どの程度の「良いこと」なのかが分からないので断定をすることはできないが、みんなが期待をしてしまうほどの相手であることは間違いないので、今からそれも楽しみだ。


 でも流石に、「『良いこと』が焼肉の食べ放題だったら良いよなっ!」という悠斗や男子たちの予想が当たることはないと思うけど…。


 そして、僕と愛野さんは目的の場所へとたどり着いた。

 この場所に入るのも高校に入学してから初めてのことであり、僕は緊張感から自然と背筋をピンとさせる。


「それじゃあノックしてみるね」


 そうして僕は、意を決してコンコンとその重厚な扉をノックした。


「どうぞ」


 すると、中からはそう声が返ってきたので、僕はゆっくりとその扉を開け、愛野さんと一緒に中へと入ることにする。


「「失礼します」」


 そのまま部屋の中に入ると、「いらっしゃい」と一人の女性が僕たちのことを出迎えてくれた。


 その瞬間、


「「あっ!」」


 という声を僕と愛野さんは同時に上げる。


 …僕は、前に立っているこの女性に見覚えがあった。


 愛野さんも「あの時のっ!」と何やら思い当たる節がある様子で、僕たちはまさかの出会いに驚きを隠せない。

 そんな僕たち二人のびっくりした顔を見た女性は、「うふふっ」と口に手を当てて上品に微笑む。


「あなたたち二人とはずっとお話ししたいと思っていたの。今日、こうしてその機会に恵まれたこと、私はとても嬉しく思うわ」


 そして、その女性は僕たちの前まで移動し、こう自己紹介をしてくれた。




「星乃海高校の『理事長』を務めている星野よ。二人とも、今日は文化祭お疲れさま」




___そう、僕と愛野さんに会いたいと言ってくれた人というのは、まさかの理事長先生だった。










***










「やっぱり受験の時に校門で会ったのは理事長先生だったんだ…っ」


 お互いに自己紹介を交わし終えた後、愛野さんは小さくそう呟く。

 どういうことなのかと愛野さんに話を聞くと、愛野さんは星乃海高校の受験日に理事長先生と会っていたらしい。

 その当時もその人が学校の関係者であるとは思っていたそうだが、まさかこの学校の理事長だとは思わなかったようで、真実が分かった時の愛野さんは本当に驚いたような顔をしていた。

 そして、「川瀬も学校に到着した時に校門で理事長先生と会わなかった?」と愛野さんに言われ、その当時のことを思い返してみると、確かに校門の前で誰かに声を掛けられたような記憶が僕の頭の中にも薄っすらとあった。


「あなたたちは受験が始まる直前にやってきたでしょう?あの時のことは今でも覚えているわ」


 僕が過去の記憶を遡っていると、理事長先生はそう言いながらどこか楽しそうに微笑み、僕と愛野さんのことを優しく見つめてくる。

 そうして、その優しい眼差しを受け取った愛野さんは、理事長先生にこう言った。


「理事長先生、あの時は本当にありがとうございましたっ!」


 そのまま愛野さんは、更にこう言葉を重ねる。


「理事長先生が『がんばってね』と言ってくださったおかげで、私は焦らず試験に向き合うことができましたっ!」


 そして、愛野さんは理事長先生にしっかりと感謝を込めて頭を下げた。

 理事長先生はその感謝の言葉に「どういたしまして」と返事をし、愛野さんに目を真っ直ぐ合わせる。


「でもね、試験に焦らず向き合えた一番の理由は、愛野さんがその日のために沢山準備をして、沢山がんばってきたからよ。だから、自分が『がんばった』こともしっかりと認めてあげてね」


 愛野さんは、そんな理事長先生の言葉に嬉しそうな表情を浮かべ、


「はいっ!」


 と大きく頷いた。


___自分が「がんばった」ことを認めてあげること。


 やはりこの考えは、本当に大切なことであると僕は再認識する。


 理事長先生からの言葉は、愛野さんだけでなく僕の心にもしっかりと響いた。










「裏庭の花壇に足を運んでくださっていたのは理事長先生だったのですね」


「うふふっ、ええそうよ」


 受験の時の話が一段落付いた後、僕は理事長先生にそう問い掛けた。

 案の定、理事長先生から肯定が返ってきたので、僕は「やっぱりあの人だったんだ」と心の中で納得した声を漏らす。


 毎日花壇の世話をしていた一年や二年の時、朝の裏庭で女性が花を眺めているのを目にすることが何回かあった。


 当時は特に気にしてはいなかったが、いざこうやってその女性の正体を知ると、やはり驚きもひとしおである。

 そんなことを考えていると、「川瀬さん」と理事長先生に名前を呼ばれ、僕はこんな感謝を理事長先生からもらった。


「いつも花壇に沢山の花たちを咲かせてくれて、本当にありがとう」


 そこから理事長先生は、花が好きであることや裏庭の花壇が自分のお気に入りの場所であること、花を眺めると心が洗われるような気持ちになることなどを楽しそうに話してくれた。

 また、それと同時に、


「川瀬さんが二年間一人で花の世話をしてくれていたことは知っているわ。その点については本当にごめんなさい。これは、私の管理能力の甘さが招いた失態よ」


 と、理事長先生は僕に謝罪の言葉も告げてきた。

 そのまま理事長先生は深く頭を下げるので、僕は慌てて頭を上げて欲しいと理事長先生に伝え、


「花壇の水やりは自分から一人でやらせて欲しいと希望したことですので、理事長先生が謝る必要なんてありませんし、むしろ一人で花の世話をすることを認めていただけたこと、本当に嬉しく思っていますっ!」


 と、僕は自分の素直な気持ちを理事長先生に話した。

 すると、理事長先生は僕に微笑み、


「川瀬さんは本当に優しい人なのね。川瀬さん、ありがとう」


 と嬉しい言葉を掛けてくれたのだった。


 そして、チラッと横を向くと、愛野さんの顔には僕よりも嬉しそうな表情が浮かんでおり、僕はクスっと笑みがこぼれる。

 恐らくだが、理事長先生が僕のことを「優しい人」と表現したのが愛野さんは嬉しかったのだろう。

 愛野さんは、僕のことをいつも自分のことのように喜んでくれる。

 隣で一緒に喜んでくれる人がいる…、それは本当に幸せなことだと僕は思った。


 そんな愛野さんのことを愛おしく想いつつ、改めて理事長先生の方に視線を動かすと、「それでね、文化祭のことなのだけれど…」と理事長は話を切り出してきた。


「二人はグランプリを獲得した時のことをどれだけ知っているのかしら?」


 そのまま理事長先生は僕たちにそう尋ねてくるので、


「グランプリを獲得したら『良いこと』があると聞いたことはあります」


 と僕は理事長先生に返事をする。

 僕がそう言うと、理事長先生は笑みを浮かべ、


「グランプリを獲得したクラスには、他のクラスには秘密という約束の元、千円分の図書カードとケーキを後日プレゼントしているの」


 と、「良いこと」の正体を説明してくれた。

 それを聞いた僕と愛野さんは、「おぉーっ」という反応を浮かべる。

 みんなの予想とは近かったり遠かったりと様々だが、図書カードは個人的にはかなり嬉しいプレゼントだ。

 他の人も、ちょうど時期的に参考書を買ったり、はたまた息抜きのマンガや小説を買ったりなど、もらって損は絶対にないだろう。

 加えてケーキまで一緒に付くのだ、確かにこれは「良いこと」と言っても過言ではない。


 そして、愛野さんと「やったね」という感じの視線を交わし合っていると、


「でもね、今年のプレゼントはそれじゃないわ」


 と理事長が言ってくるので、僕と愛野さんは同時に目を丸くする。




 そのまま理事長先生は、僕たちに驚くべきことを口にした。




「今年のグランプリのプレゼントは、二人に決めて欲しいの」




 その瞬間、僕と愛野さんは「えぇ!?」と自分たちの顔を驚愕に染め上げる。

 しかし、その提案に驚かないことなどできるはずもなかった。


 恐らくこの提案こそが、今ここに僕たちが呼ばれた本当の目的なのだろう。


 そうして理事長先生は、僕の方に視線を向けた。


「こうしようと思った理由は、川瀬さんあなたよ」


「…僕ですか?」


「えぇ。さっきも話したけれど、私は花壇の世話を一人でしてくれていた川瀬さんに、ずっと感謝を伝えたいと思っていたの。この二年間、裏庭の花壇はいつも綺麗で、川瀬さんが丁寧に作業をしてくれていたことが沢山伝わってきたわ。だから、これは私からのお礼なの」


 理事長先生はそう言った後、再度「ありがとう」と感謝を伝えてくれた。


 裏庭の花壇での二年間が、こんな形で自分に返ってくるとは…、思わぬ展開に今も驚きはもちろんあるが、それ以上に止めどないほどの嬉しさがこみ上げてくる。


 この時、僕の美化委員会としての二年間が、本当の意味で報われたような、そんな気がした。


 その後、愛野さんから「これは川瀬の『がんばり』が理事長先生に認められた『証』だから、川瀬に決めて欲しい」と判断を一任され、理事長先生に「何でも言ってちょうだいね」と言われた僕は、しばらく悩んだ末、「あ…っ!」と一つのプレゼント案を思い付いた。


 そうして僕がその思い付いた案を口にすると、理事長先生は「うふふっ」と楽しそうに笑顔を浮かべ、


「それじゃあ今年のグランプリのお祝いは『それ』にしましょうか」


 と、僕のお願いを快諾してくれた。


___グランプリを獲得した時の「良いこと」がこれだと知ったら、クラスのみんなは驚くに違いない。


 そして僕は、この後のみんなの反応を想像して笑みをこぼしながら、「ありがとうございます!」と理事長先生に感謝を伝えたのだった。










☆☆☆










「「失礼しましたっ!」」


 つい先ほどまで会話をしていた二人が部屋から出て行った後、私は窓の近くまで移動をし、赤く綺麗に染まった秋空に目を向けた。

 そのまま私は、ポケットの中から一枚のハンカチを取り出す。


___数十年前、私は裁縫部の顧問をしていた。


 このハンカチは、当時の裁縫部に所属していた一人の女子生徒からもらったものである。


 彼女は生まれた境遇が特殊なこともあり、ほとんど毎日アルバイトをしていた。

 しかし、毎週金曜日にある裁縫部には毎回顔を出してくれており、「楽しいからです!」とその理由を語ってくれた時のことは、今でも鮮明に覚えている。


 その女の子は、責任感が強くて、何にでも全力であり、そして優しさに溢れた女の子だった。


 そんな彼女と二人で色々なものを作ったりしたことを思い出し、私は随分と懐かしい気持ちとなる。


 そして、昔の大切な思い出に浸りながら、彼女が卒業式に感謝と共に渡してくれたハンカチを眺め、私はぽつりとこう呟いた___。




「…咲希さん。あなたの子どもは、あなたに似て本当に優しい男の子ね」










***










 キャンプファイヤーの炎が周囲を明るく照らしているグラウンドにて、現在フォークダンスの時間が訪れている。

 フォークダンスといっても実際はかなり自由な感じで、グラウンドには賑やかな声が上がっており、みんなの表情はとても楽しそうだ。

 特に、前の方ではいつもの二人があれこれ言い合いながらダンスを踊っているのだが、なんだかんだその二人が一番楽しそうに見えるのは間違いではないだろう。


 そして、そんな僕は今、愛野さんと一緒にダンスを踊っている。


 心臓はドキドキと音を鳴らし、若干動きが固い感は否めないが、これでもさっきよりは随分とましになった方だ。

 それもこれも、愛野さんと一緒に踊るとなった時に、クラスのみんなが揶揄ってきたのが原因である。

 文化祭の期間を経て、みんなからの「いじられポジション」になっている気がするのだが、これは僕の気のせいだろうか…?


 そんなことを考えていると、「どうしたのっ?」と愛野さんが尋ねてくるので、「何でもないよっ」と僕は笑顔を返し、そのまま僕は、


「愛野さん、一緒にフォークダンスを踊ってくれてありがとう」


 と愛野さんに感謝を伝えた。


 このフォークダンスは、僕から愛野さんを誘って実現したものである。


 …その時に、「もし他の人と踊る予定があるなら断ってくれても良いからね」と緊張から余計な一言を付け加えてしまい、愛野さんから「他の人となんか踊らないもん…川瀬のばかっ」と怒られてしまうという一悶着もあったりしたが、こうして何とか許してもらうことに成功した。


 そして、僕のそんな感謝の言葉に、


「どういたしましてっ♪」


 と愛野さんは笑顔を浮かべ、弾んだ声で返事をしてくれる。

 実際愛野さんは、他のクラスや後輩の男子たちにお誘いの声を掛けられていた。

 それに不安を感じて余計なことを口走ったというのが一番の理由だが、しかし、愛野さんは僕とフォークダンスを踊ることを選んでくれた。

 それがどういう意味を持っているのか、それが分からないほどの鈍感ではない。

 だから僕は、そんな愛野さんからの「好意」に幸せな気持ちとなった。


 そのまま幸せを享受していると、「ねぇ川瀬…っ」と愛野さんが僕の名前を呼んできた。


 そんな愛野さんの顔は、暗がりでも分かるほど赤くなっており、何事かと思った僕は愛野さんの次の言葉に集中をし始める。

 そして、愛野さんは僕にこう言ってきた。


「川瀬はさ、私が去年フォークダンスの予定を聞いた時のこと…その、覚えてるっ?」


 顔を赤くした愛野さんから尋ねられた内容に、僕はほんの少し胸を苦しくさせた。

 あの時のことは、もちろんしっかりと覚えている。


 あの時、僕は愛野さんを傷付けてしまった。


 当時は分からなかったが、愛野さんが僕に元山さんと踊るのかについて聞いてきたあれは、愛野さんからのお誘いだったのだろうと今は分かる。


「うん、覚えてるよ」


 僕がそう頷きを返すと、愛野さんは「そ、そっかっ」と言いながら若干挙動不審になり始めた。

 そして、愛野さんは僕の顔をチラチラと見てくるので、


「どうしたの?」


 と僕は愛野さんにそう問い掛ける。

 そんな僕の問い掛けに、愛野さんは「よしっ」と小さく呟き、僕にこう言ってきた。


「川瀬、一つお願いしたいことがあるんだけど、良いかなっ?」


 それに対し、僕は「もちろん良いよ」と返事をする。

 むしろ、そのお願いは絶対に叶えてあげたい。


 僕は、あの時の出来事に後悔を感じている。


 そのため、これはある種の贖罪に近いのかもしれない。

 あの時の過ちは取り消せないが、もうこれ以上愛野さんを傷付けないためにも、僕はこのお願いを聞き入れる義務がある。


 愛野さんは僕が頷いたのを確認した後、そのお願いの内容を口にした。


___それは、あの時僕が拒絶した「お願い」だった。




「川瀬のこと、下の名前で呼んでも良い…っ?」




 僕の頭の中で、あの時の愛野さんの姿と今の愛野さんの姿が重なり、まるであの時に戻ったかのような気持ちになる。


 まさか、あの時の後悔を一年越しにやり直せるとは思わなかった。


 返事の答えは、もちろん決まっている。


 そのまま僕は、湧き上がる嬉しい気持ちを自分の顔に浮かべ、愛野さんにこう伝えた。




「喜んでっ!」




 僕がそう言うと、愛野さんの顔に、あの時とは真逆の本当に素敵な笑みが浮かぶ。


 そして、愛野さんは僕にこう口を開いた。




「朔、ありがとうっ!」




 その言葉を聞いた瞬間、雷が落ちたかのような衝撃が全身に訪れた。

 恐らく、今の僕は顔が真っ赤になっているだろう。

 それほどまでに、愛野さんからの名前呼びはとんでもないものだった。


「愛野さん、あの、もう一回呼んでもらっても良い?」


 そのまま僕は、もう一度名前を呼んで欲しいということを愛野さんにお願いする。

 すると、愛野さんはその要望に応え、再び僕の名前を呼んでくれた。


「朔っ」


 その瞬間、僕の胸の中にはこれ以上ないほどの幸福感が広がり始め、僕の口角は自然と上がっていく。


「やっぱり、恥ずかしぃ…っ」


 一方、愛野さんは羞恥心の限界がきたようで、顔を真っ赤に染めていた。

 ただ、今はダンスで両手を繋いでいるので、愛野さんの恥ずかしがっている顔が露わになっており、「可愛いなぁ」と僕は思わず呟いてしまう。

 それを聞いた愛野さんは「もぉ!」と声を上げ、「それなら…」と僕にこんなことを言ってきた。


「朔も私の名前を呼ばないとダメだからねっ!」


 どうやらこれは、自分だけ恥ずかしい思いをしている愛野さんからの反撃なのだろう。


 それはあまりにも効果覿面で、僕の心臓はバクバクと物凄い音を奏で始める。

 しかし、「ほ、ほら、早くっ!」と愛野さんが急かしてくるので、僕はええいままよという心持ちで、愛野さんの名前を紡いだ。




「えと、ひ、姫花っ」




 そうして僕と愛野さんは、まるで示し合わせていたかのように手を離し、そのまま自分たちの顔に両手を移動させて、身悶えし始める。

 南さんや悠斗が近くにいなくて良かった。

 もし近くにいたら、間違いなくいじられていたところだ。


 愛野さんがあんなにも恥ずかしがっている理由がようやく分かった。


 まさか、こんなにも相手の名前を呼び合うことが恥ずかしいなんて思わなかった。


 いや、これは、愛野さんだからこんなにも恥ずかしいのだろう。


 そして僕は、とうとう恥ずかしいという気持ちを通り越えてしまったようで、


「あははっ!」


 と一周回って何だか楽しくなり始めた。

 そうすると、愛野さんも同じように楽しそうな笑い声を上げ始め、僕たちは笑顔を交わし合う。


 そのまま僕たちは手を重ね、再びダンスへと戻った。


「えへへっ、朔っ♪」


「どうしたの?」


「うぅん、呼んだだけだよっ♪」


 そうしてダンスをしていると、愛野さんがそんなことを言ってくる。


 だから僕も「姫花っ」と愛野さんの名前を呼んでみることにした。


 すると、「ふふっ、なぁに♪」と愛野さんが可愛らしく首を傾げてくる。


 それに「呼んだだけだよ」と返事をすると、「もぉ何それっ、えへへっ♪」と愛野さんはくすぐったそうに笑みを溢した。


「朔っ♪」


「姫花っ」


 それから僕たちは、特に意味もなくただお互いの名前を呼び続ける。


 それは、とても楽しくて、嬉しくて、そして幸せな時間だった___。


 今、僕の胸には言い表すことができないほど、本当に、本当に温かい特別な気持ちが広がっている。


「今日も姫花が隣にいてくれて、僕はとても幸せだよ」


 その気持ちに身を任せると、口から自然とそんな言葉が溢れ出した。


 これは、いつも僕が感じている愛野さんへの想い。


 そして、その想いはきっちりと愛野さんに届いたようで、


「私も朔と一緒にいれて幸せだよっ♪」


 と、愛野さんは僕に咲き誇るような笑顔を返してくれた。




 今日のことも、しっかりと頭の中で、いつまでも、いつまでも覚えておこう。




 きっと、今日の一日は、これからの僕の、大切な、大切な宝物になるはずだから。




 そこから僕と「姫花」は、ダンスの時間が終わるまで、楽しく今日の思い出を語り合うのだった___。






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