#94 八月八日







 みんなで海に行った数日後、僕たちは勉強をするためにとある図書館へと足を運んでいた。

 この図書館は、最近になって新しく建て替えられたということもあり、非常に綺麗な外観をしている。

 中に入ると、円状に設計されたオシャレな木造の館内が視界いっぱいに広がった。

 真ん中にはエスカレーターが備え付けられているため、一階ずつ移動をしながら、四人でゆっくりと館内を見て回る。

 観光気分でその時間を楽しんだ後、僕たちは勉強ができる場所へと向かった。

 そうして僕たちはそこに腰を下ろし、持ってきた勉強道具を広げ、各々の勉強を始める。

 これまでにも四人で勉強をする機会は何回かあったが、僕はこの時間が気に入っていた。

 それは、みんなと勉強をするのが楽しいからという理由に他ならない。

 みんなが勉強している姿を近くで見ると、もっと僕もがんばろうと思い、いつもより集中して勉強に取り組むことができる。


「朔、ここの解き方教えてもらっても良いか?」


 そのまましばらくペンを動かしていると、悠斗が分からないところを尋ねてきたため、「良いよ」と僕は返事をし、悠斗に解き方を教え始める。

 人に勉強を教えると、自分自身の知識や理解も深まっていく___。

 四宮先生が前にどこかで言っていた言葉だが、僕も全くその通りだと思った。

 人に勉強を教えるというのは、想像以上に難しい。

 答えの導き方を知っていても、どうしてその答えが導き出せるのかという過程をちゃんと理解していなければ、尋ねてきた相手がどこで躓いているのか分からないからだ。

 だから、こうして相手に勉強を教えるというのは、自分の理解を見直すきっかけにもなっている。


「なるほど、そういうことか!朔、サンキューなっ」


「分からないところがあったらいつでも聞いてね」


 そうして悠斗へ解き方を教え、自分の勉強に戻ろうかなと思っていると、


「川瀬っ、私も一つ良いかな…?」


 と愛野さんが小さく手を挙げて質問をしてくるので、「もちろんっ」と僕は笑顔を浮かべ、愛野さんにも勉強を教え始める。


 そうして僕は、そのまま充実した勉強の時間を過ごした。










 勉強会が終わり、図書館を後にしてしばらく、今僕は最寄り駅を降りたところである。

 今日はかなり集中して勉強に取り組むことができたという実感を覚えながら、僕は自宅を目指して歩いていく。

 そんな中、僕の頭の中には少し気になることがあった。


『川瀬は八日って、何か予定が入ってたりする…?』


 図書館の外に出た直後、僕はいきなり愛野さんからそう尋ねられた。

 どういう意味なんだろう?とは思いつつも、その日はアルバイトの予定が入っているため、僕は愛野さんに「昼からはバイトがあるよ?」と八日の予定を伝えた。

 すると、


『そ、そっか、なら良いのっ、気にしないでっ』


 と愛野さんは笑い、元の話題へと会話を戻した。


___僕は、その時にほんの一瞬だけ、愛野さんが「寂しそうな」表情を浮かべたのが気になっている。


 しかしその後、愛野さんがその日の話題に触れてくることはなく、何事もなかったかのように楽しく話し掛けてきたので、僕はそれが何だったのかを聞きそびれてしまった。

 愛野さん本人が「気にしないで」と言っていたので、僕がああだこうだと考える必要はないのかもしれないが、どうしてもあの寂しそうな顔が僕の頭から離れない。


 それからまたしばらく考えてみたが、結局あれが何だったのかは分からずじまいだった。










***










 八月八日。

 時刻はお昼過ぎであり、僕はアルバイト先の休憩室にいる。

 バイト開始にはもう少し余裕があり、今は戌亥さんと会話をしているところだ。


「へ~、それじゃあ予定通り来週イリーナ先輩は帰ってくるんだね」


「ですです~。イリ姉が帰ってきたら~温泉に行く予定ですよぉ~」


「それは良いねっ」


「お土産は期待しといてくだされ~」


「あははっ、楽しみにしとくね」


 戌亥さんとの会話は、来週に帰省するイリーナ先輩のことである。

 先日グループトークにも連絡が来ていたが、イリーナ先輩は九月までこっちに残るそうであり、どこかのタイミングでまた一緒に集まりたいとイリーナ先輩は言っていた。

 ちょうど戌亥さんからお土産の話が出たが、イリーナ先輩からも海外のお土産を楽しみにしておいて欲しいというメッセージが届いていたので、イリーナ先輩の海外生活の話も含め、次に会うのが色々と楽しみである。


 イリーナ先輩の話の後、僕は戌亥さんに聞きたいことがあったので、ちょうど良い機会だと思い、それを尋ねることにした。


「戌亥さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど良いかな?」


「ほいほいなんでしょう~」


「実は…」


 そのまま僕は、その聞きたかったことを戌亥さんに話し始める。

 すると、戌亥さんは「それは良いですなぁ~」と言いながら頼りになる笑みを見せ、僕に色々と欲しかった情報を教えてくれた。


「ありがとう戌亥さんっ!」


「ふっふっふっ~分からないことがあればいつでも聞いてくださいなぁ~」


 そこからアルバイトが始まるまで、僕は戌亥さんとその会話を続けた。










 それから僕と戌亥さんは、休憩時間を挟みながらアルバイトに励んだ。

 そして、気付けばシフト終わりの時間となったので、僕は戌亥さんと一緒に帰りの準備を行う。


「今日もお疲れさまだね、戌亥さん」


「はじはじもお疲れさまです~」


 お互いのことを労いつつ、僕たちは今日のバイトの感想を言い合った。

 今日はアイスの売れ行きが凄かったね、とか。

 新発売のおにぎりが気になるよね、とか。

 途中はチキンを揚げるのに忙しかったよね、とか。

 何気ないバイト中の出来事をこうして楽しく共感し合えるという「嬉しさ」に、僕は自然と頬が緩んだ。


 その後、僕と戌亥さんは店長に挨拶をし、コンビニの外に出た。

 空は茜色に染まっており、僕はその夕日の明るさに目を細める。


 そして、ここで戌亥さんとは帰る方向が違うため、帰りの挨拶をしようと思ったその時、


「そう言えば~はじはじは姫ちゃんに何かプレゼントってしましたかぁ~?」


 と、僕は戌亥さんから声を掛けられた。

 どうして突然愛野さんの名前やプレゼントという単語が出てきたのか分からず、


「どういうこと?」


 と僕は首を傾げる。

 すると、戌亥さんは不思議そうな顔を浮かべ、僕に向かってこう口を開いた。




「だって~今日は姫ちゃんのお誕生日ですからねぇ~」




 僕は戌亥さんが発した言葉に、一瞬で頭が真っ白になってしまった。


「え…っ?」


「るかちゃんは二日後に遊ぶ約束をしてるので~その時にプレゼントを渡すつもりですよ~」


 そのまま戌亥さんは僕に何かを話し掛けてくれているが、僕の頭の中はそれどころではなかった。


___僕は気付いた、気付いてしまった。


 数日前に愛野さんが尋ねてきたのは、愛野さん自身の誕生日のことだったのだ。

 予定があるかどうかを聞かれたということは、愛野さんは今日という大事な日を、もしかしたら何らかの形で僕と過ごそうとしてくれていた…のかもしれない。


 やってしまった。


 僕は今、戌亥さんから「初めて」今日が愛野さんの誕生日だということを知った。

 確かに、愛野さんの誕生日はいつなのだろうと気になってはいたのだ。

 しかし、いつでもそれを尋ねるタイミングはあったのに、僕は今までそれを尋ねることはしなかった。

 数日前もそうだ。

 あの日、あの時、僕は愛野さんに気になったことを聞き返すべきだった。


 僕はまた同じ過ちを繰り返そうとしている。


 愛野さんの様子に違和感を覚えていたのに声を掛けなかった今の状況は、中学の時、光の違和感に気付いていながら声を掛けられなかったあの時と全く同じである。

 …僕は自分の馬鹿さ加減に嫌気が差してくる。

 しかし、そんなことをしていても何も変わらない。


 僕はまた、あの時ああしておけば良かったと「後悔」を重ねるのか?


 いや、違う。


 光と仲直りをしたあの日、僕は光に何と言った?


『僕たちは、きっともう前に向けるはずだ』


___僕は、「前に向く」と決めたはずだ。


 それに、今日はまだ終わっていない。

 今からでも、まだ遅くはないはずだ。


 僕は、愛野さんに寂しそうな顔で誕生日を迎えて欲しくはない___。


「ごめん、戌亥さんっ!その話はまた今度ねっ!」


 僕は戌亥さんに一声掛けた後、急いで自分の自転車に乗り、近くの駅に向けてペダルを踏み始めた。

 戌亥さんは僕の様子に少しびっくりしていたが、


「いってらっしゃいです~」


 と、何かを察したような笑みを浮かべながら手を振り、僕を見送ってくれた。


 とりあえず今は、愛野さんのところへ向かうしかない。

 会ってどうするかはその時に決めよう。


 去年のクリスマス、愛野さんはいっぱいの想いを乗せながら僕の誕生日をお祝いしてくれた。


 今度は、僕がそれをお返しする番である。


 そうして僕は、そのまま自転車を漕ぎ続けた___。










***










 自転車で近くの駅まで移動し、少ししてやって来た電車に乗り込んだ後、僕は愛野さんの最寄り駅へと到着した。

 電車を降りた後、僕はすぐさま愛野さんのお家を目指して走り出す。

 去年の花火大会の日、僕は手持ち花火をした後に愛野さんを自宅近くまで送ったので、お家の場所は頭に入っている。

 そのルートを頭に思い浮かべながら、僕はいつもの公園を通過した。

 バイトが終わった時には茜色だった空も、今はかなり暗くなっており、視界の端には月の姿がチラついている。

 時間的には夕食時という感じなので、もしかしたら愛野さんが外食をしに行っている可能性もあるが、その時は帰ってくるまで待てば良い。


 僕は、どうしても愛野さんに誕生日のお祝いを伝えたい。




「はぁはぁ、着いた…っ」


 そして僕は、ようやく愛野さんのお家に到着した。

 お家の表札には「愛野」と書かれており、家を間違えているなんていうことはなさそうである。


 そのまま僕は数回大きく深呼吸をし、乱れた呼吸を整え、自分の心を落ち着かせる。


 そうして「よしっ!」と僕は気合いを入れ、その勢いでお家のインターホンをポチっと押した。


 すると、「はい」という聞き覚えのない声がインターホンから返ってくる。

 その声は女性の声だったので、恐らく愛野さんのお母さんが出てくれたのだろう。

 僕はそのことに少し緊張を感じながら、


「こんばんは、私は川瀬朔と申します。愛野姫花さんはいらっしゃいますか」


 と自分の名前と用件を伝えた。

 そう言った瞬間、星乃海高校に通っている…とか、同じクラスで…とか、もう少し紹介が必要だったかなと少し不安に思ったが、


『少し待っててね』


 という声が返ってきたので、どうやらさっきので上手く伝わったようだ。


 そのままインターホンの前で待機をしていると、玄関の扉がガチャッと開き、驚いた様子の愛野さんが顔を出してきた。


「えっ、川瀬っ!?どうしてここにいるのっ!?」


 愛野さんはそのまま玄関の扉から出て、僕の前にパタパタと駆け寄ってくる。

 どうやら今は南さんの家族と一緒に誕生日パーティーをしていたようで、どこかに外出をして入れ違いになった…なんてということにはならなくてひとまずホッとする。

 そして、そんな愛野さんの方に目を向けると、愛野さんの雰囲気がいつもとは少し違って見えた。

 愛野さんはオーバーサイズのパーカーを着た随分とラフな服装で、髪型もいつものサイドテールとは違い、綺麗に髪が下ろされている。

 また、恐らくメイクをしていない状態のため、普段より少し幼っぽい感じもする。

 これが、愛野さんのお家での姿なのだろう。

 いつものキラキラとした姿とはまた別の「可愛らしさ」というのがあり、そのお家感も相まって、何だかいつもより心臓がドキドキとしてしまう。

 そんな愛野さんの姿に目を奪われていると、愛野さんに視線を向けていることがバレてしまい、


「も、もぉっ!恥ずかしいから見ないでっ!」


 と顔を真っ赤にした愛野さんに可愛く怒られてしまった。

 「服も部屋着だし、すっぴんだから見ちゃヤなの…っ」と愛野さんは両手で顔を隠して何やら悶えているが、今の愛野さんも十分過ぎるくらいに可愛いので、


「僕は今の愛野さんもすっごく素敵だと思うよ」


 とありのままの感想を伝えると、「…川瀬のばかっ」と愛野さんから言われてしまった。

 しかし、その愛野さんの言葉は弾んだものであり、本当に嫌な訳ではなかったようだ。

 危うくその愛野さんの姿に見惚れてしまい、ここに来た目的を忘れてしまいそうになってしまったが、僕はすぐにかぶりを振り、愛野さんの方に真っ直ぐ視線を向ける。

 そして、僕は愛野さんに頭を下げた。


「愛野さん、ごめんっ!」


 僕が急に謝罪の言葉を発したということもあり、愛野さんは「えっ!?」とびっくりした声を上げた。

「と、とりあえず、川瀬は頭を上げてっ!」と愛野さんが言ってきたので、僕は再び愛野さんの方に顔を向け、その謝罪の理由を伝えることにする。


「僕は、今日が愛野さんの誕生日だってことを知らなかったんだ…。この前、みんなで図書館に行った時、愛野さんは予定があるか聞いてくれたよね?あれって多分だけど、僕のことを何かに誘おうと思ってくれてた…んだよね?」


 僕がそう言うと、「あ…えへへっ、バレちゃってた?」と愛野さんは恥ずかしそうに笑い、


「予定が空いてたら、一緒にお出掛けでもどうかなーって思ってたのっ」


 と先日の答え合わせをしてくれた。

 それを聞いた僕は、やっぱりそうだったのかと自分の胸がきゅっと締め付けられるのを感じる。

 そのまま僕は、罪悪感や申し訳なさに導かれ、再び謝罪の言葉を口にした。


「大事な誕生日の日に誘おうとしてくれたのに、それを無下にしちゃって本当にごめんっ!」


 僕が事前に愛野さんの誕生日を知っていれば、愛野さんが寂しい表情を浮かべることなんてなかった。

 全ては僕の責任だ。


 …愛野さんには本当に申し訳ないことをしてしまった。


 そのまま僕がその罪悪感に飲み込まれそうになっていると、


「ふふっ、川瀬はそれを言うためにここまで来てくれたんだねっ」


 と、愛野さんは僕に笑顔を向けてきた。

 そのまま愛野さんは更にこう話を続ける。


「川瀬は『無下にしちゃった』って言ってたけど、私はそんなこと思ってないよっ。だって、今こうして川瀬が会いに来てくれたからっ」


「愛野さん…」


「だから、そんなに申し訳なさそうな顔はしないでっ。私『も』川瀬の笑ってる顔が見たいなっ♪」


 僕は、そんな愛野さんからの優しい言葉を聞き、やっぱり愛野さんには敵わないということを再認識する。


 どうしてこの女の子は、こんなに強くて、そして温かいんだろう。


 愛野さんから優しさを向けられ、僕の胸はポカポカとした心地良さを感じ始める。

 また僕は、愛野さんに救われてしまったようだ。

 そして僕は、愛野さんにそこまで言ってもらったのに、それでも尚グズグズと引きずるようなダサい姿は見せたくないと思ったので、


「ありがとうっ!」


 と精一杯の笑顔を作ってみせた。


 そして僕は、どうしても直接伝えたかった言葉を愛野さんへと告げた。




「愛野さん、誕生日おめでとうっ!!」




 僕のお祝いの言葉に、愛野さんは本当に嬉しそうな表情を浮かべる。


「ありがとう川瀬っ♪」


 そのまま愛野さんが「えへへっ♪」と幸せそうにはにかむ姿を見て、僕は愛野さんに言いようがないほどの「愛しさ」を感じた。

 これは、愛野さんだけにしか感じたことのない、僕の特別な感情である。

 この胸に広がる感情は、僕に幸せな感覚をもたらしてくれる。

 それが何だか照れくさくて、何か別のことを考えようとすると、


「あっ、僕、プレゼント用意してない…」


 という事実に気付いてしまった。

 戌亥さんがプレゼントのことを話してくれていたのに、ここにやって来ることで頭がいっぱいになったせいで、本当に何も準備せずにここまで来てしまった。

 絶対に何かを渡さないといけないという決まりはないが、いつもこれだけ沢山お世話になっている愛野さんに何もなし…というのは人としてあり得ないのではないか?と自分のことながら思ってしまう。

 しかし、愛野さんは「ふふっ」と笑い、


「プレゼントなんかなくても、こうして川瀬が直接お祝いの言葉をくれただけで私は嬉しいよっ♪」


 と僕の内心を見透かして、プレゼントがなくても大丈夫だと僕に伝えてくれた。

 僕はそんな愛野さんの優しさに思わず甘えてしまいそうになるが、今日の主役は愛野さんであり、このままではどうしても僕の気が収まらないため、


「僕にできることで何かないかなぁ…」


 と、僕は愛野さんが喜んでくれそうなことを考え始めた。

 そうすると、


「あっ、じゃあ一つだけお願いを聞いてもらっても良いかな?」


 と愛野さんが尋ねてくるので、僕は渡りに船だと思い、


「もちろんっ!何でも言って!」


 と愛野さんに返事をした。

 僕のその返事を聞いた愛野さんは、「やった♪」と嬉しそうな声を上げ、僕に「腕を横に伸ばして欲しい」というお願いをしてくる。

 それが何を意味するのかは全く分からないでいるが、愛野さんからのお願いであるため、僕は言われた通りに腕を開き、横に真っ直ぐ伸ばして見せた。


「えっと、これで良い?」


 そして、僕がそう聞き返した瞬間、僕の胸に愛野さんが飛び込んできた。


「あ、愛野さんっ!?」


 愛野さんはそのまま腕を後ろに回し、僕に抱き着いてくる。




 どうやら愛野さんのお願いというのは、僕とハグをすることだったようだ。




 僕は自分の顔が沸騰したかのように熱くなるのを感じ、動揺からこのままどうすれば良いのかが分からなくなり始める。

 すると、


「川瀬もぎゅってして…っ?」


 と愛野さんに上目遣いで言われてしまったため、僕はおずおずと愛野さんの背中に腕を回し、愛野さんのことを抱き締めた。

 今の僕は、破裂しちゃいそうなくらい自分の心臓をドキドキとさせている。

 というのも、愛野さんからはとっても良い匂いがし、上半身には、その、柔らかいものがしっかりと当たっているからだ。

 そこでふと、僕は自分がここまで全力ダッシュしてきたことを思い出し、


「あ、愛野さん、僕汗臭くない…?」


 と愛野さんに声を掛けた。

 愛野さんはそれに「うぅん、大丈夫だよっ♪」と返事をしてくれたので、「良かったぁ」と僕は安堵の表情を浮かべる。


(愛野さんに臭いなんて言われたら、僕は立ち直れないかもしれない…)


 そうしてしばらく無言で抱き締め合っていると、


「川瀬、ありがとねっ」


 と愛野さんは呟いた。




「川瀬のおかげで、人生で一番幸せな誕生日になったよ♪」




 愛野さんのそんな幸せを噛み締めるような呟きを聞き、僕は「どういたしましてっ」と愛野さんに返事をする。

 更に、僕はこう言葉を付け足した。


「じゃあ来年は、もっと幸せな誕生日にしないとね」




 そのまま僕たちは、お互いに笑みを交わし合う。




___来年も、再来年も、もっとその先も、こうして一番近くで愛野さんの誕生日をお祝いしたい。


 僕の心の中に、そんな気持ちが溢れてくる。


 …そろそろ僕は、この気持ちともしっかりと向き合わなければならない。


 そんな「決意」を胸に抱え、僕はこの心地良さにその身を預ける。


 愛野さんから聞こえてくるトクトクという心臓の音だけが僕の頭の中で響き、まるで愛野さんと二人だけの世界にいるような感覚を味わいながら、僕は愛野さんを抱き締める力をほんの少し強くした。




 そうして僕と愛野さんは、様子を見に来た南さんに揶揄われるまで、そのまま仲良く抱き締め合うのだった___。






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