#70 悪くない
しばらくの間涙を流し続け、気持ちが落ち着き始めた頃、
「くしゅんっ」
と愛野さんが小さなくしゃみをしたので、「僕」たちは病院内へと戻ることにした。
愛野さんは、屋上を移動し始めた時から僕の手をしっかりと握ってきている。
その理由を尋ねてみると、
「川瀬がどこにも行かないためだよっ」
と愛野さんは返事をした。
どうやらこれは、僕の行動を封じるための抑止力的なものであるらしい。
僕への信用度が全くないことに思わず苦笑してしまうが、実際一度は海まで行き、みんなの前からいなくなろうとしたのだ、この評価は甘んじて受け入れよう。
「どこにも行きませんよ」
僕は愛野さんと繋がっている手に少しだけ力を込めた。
もう二度と、愛野さんを不安にさせるようなことはしないという気持ちを込めて…。
「あ…っ、えへへっ♪」
僕の気持ちが伝わったのかどうかは分からないが、愛野さんは嬉しそうに頬を緩め、その顔を僕へと向けた。
愛野さんの笑顔を見て、僕は自分の顔がほんの少し熱くなるのを感じた。
何だかその顔を見られるのが恥ずかしくなり、僕は愛野さんとは逆側に顔を向ける。
そのままの状態で、僕たちは病室までの廊下を歩いた。
お互いに言葉はなかったが、そこに気まずさなどはなく、何だか不思議と心地良かった。
病室の前にたどり着き、僕は一度大きな深呼吸をする。
繋いでいた手を離した後、愛野さんは僕の少し後ろに立ち、僕が自分でその扉を開けることを望んでいるようだった。
この扉を開けたら、恐らく中には進さんたちがいるだろう。
本当は、怖い。
進さんたちがどんな言葉を掛けてくるのか、僕には全く想像が付かない。
でもこれは、僕自身が間違えて、傷付けて、積み上げてきた代償なのだ。
後ろにちらりと視線を向けると、愛野さんは優しく微笑み返してくれる。
その顔には、僕が進さんたちと向き合うことを願う、そんな僕への「期待」が浮かんでいた。
どんな結果になったとしても、僕は彼らの「想い」を、「言葉」を、受け止めよう。
愛野さんの笑顔に背中を押され、僕はゆっくりと病室の扉を開いた___。
中に入ると、病室には進さん、日奈子さん、日葵さん、そして四宮先生の四人がいた。
その四人の視線が、一斉に僕の方へと向けられる。
そして次の瞬間、日葵さんが僕に勢いよく抱き着いてきた。
「お兄ちゃんっ!!無事で良かった!!」
大粒の涙を流す日葵さんを、僕は優しく抱き締め返す。
「朔っ!良かった、無事だったんだね」
進さんはそう言いながらホッとした表情を見せ、日奈子さんも涙を流しながら僕が無事だったことを喜んでくれた。
日奈子さんの隣にいる四宮先生は、僕に向けて優しい笑みを浮かべている。
もしかしたら、僕はみんなから「拒絶」をされるかもしれないと思っていた。
でも、違った。
みんなからは確かな「温かさ」を感じた。
僕は、こんなにもみんなから「愛されていた」んだ。
そのことを実感し、僕はまた涙が溢れてしまう。
今までこの「優しさ」を否定してしまったことに対する罪悪感や、こんなにも想ってくれていた人たちの顔を曇らせてしまったことに対する後悔など、色々な感情が湧き上がる。
でも、この涙に名前を付けるなら、これは「嬉し涙」だ。
こんな僕を今まで見捨てないでいてくれたみんなに対する感謝や嬉しさが、この涙を形作っている。
「ありがとう…っ」
一人で寂しがる必要なんてなかった。
僕は、こんなにも「大切な人たち」に恵まれていたのだから。
***
その後、僕は「命を絶とうとしたこと」、また「病室を飛び出したこと」を誠心誠意謝罪した。
四人は僕を責めることはしなかったが、「もう二度とこんなことしないで!」と日葵さんにお叱りを受けた。
僕はもう二度としないということを日葵さんに伝え、「ごめんなさい」と再度頭を下げた。
三人は日葵さんの言葉で僕が深く反省をしていると判断したようで、これ以上何かを言ってくることはなかった。
そして、屋上で時間を使ったこともあり、そろそろ面会の終了時間となった。
明日の朝の検査のために僕は今日一日入院することになっており、みんなとはここでひとまずのお別れだ。
愛野さんと日葵さんは名残惜しそうな様子だったが、病院に迷惑は掛けられないことも理解しているようで、帰ることを受け入れたようだった。
まだまだみんなとは十分会話をすることができていないため、僕も後ろ髪を引かれる思いだったが、今日は明日の退院に向けて大人しく体を休めようと思う。
「朔くん、良かったらこれに着替えてね」
屋上で雪に濡れたこともあり、今着ている患者衣をどうしようかと思っていると、日奈子さんが僕に大きめのカバンを渡してくれた。
その中には僕の着替えや何冊かの本が入っていた。
「日奈子さん、ありがとうございます」
僕が感謝を伝えると、日奈子さんは「どういたしまして」と笑顔を返してくれた。
どうやら僕が眠っていた間に、日奈子さんたちは僕の家に行ったようで、ついでに家の戸締りもしてきてくれたらしい。
そう言えば、昨日の夜は勢いそのままに自宅を飛び出したんだということを僕は思い出した。
あの時は、周りのことを「どうでもいい」と思ってしまうような、「妄執」と言えば良いのだろうか、そんな感情に僕は取り憑かれていた。
今になって、そのどこか狂気的な思考に身震いをしてしまう。
荷物を受け取った後は、明日の朝の予定について進さんたちと少し話した。
進さんと日奈子さんと日葵さんは、明日の検査の時に合わせて病院へと来てくれるらしい。
そして五人は、順番に僕へと声を掛けてくれる。
進さんと日奈子さんは、
「朔、誕生日おめでとう」
「朔くん、お誕生日おめでとう」
というように、僕にお祝いの言葉を伝えてくれた。
進さんと日奈子さんとは、無事に退院ができてから話したいことが沢山ある。
僕はみんなに向き合うと決めた。
だから、その時に僕の想いをしっかりと伝えよう。
二人の後、四宮先生が僕の方へと近付いてきた。
「川瀬くんが無事で、本当に良かったわ」
「四宮先生、年末の忙しい時にご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした」
僕がそう口にしながら頭を下げると、四宮先生はジト目を僕に向けてくる。
「川瀬くん、こういう時は『ごめんなさい』じゃなくて何て言うのかしら?私は川瀬くんのそんな言葉を聞くためにここに来たわけじゃないわよ」
四宮先生の言葉を聞き、僕は口元が緩みそうになってしまった。
学校にはこんなにも僕を優しく見守ってくれている先生がいたんだと、僕は実感することができたからだ。
本当に、四宮先生が僕の担任の先生で良かった。
四宮先生が求めている「答え」が分かった僕は、「もう一度」四宮先生への言葉を口にした。
「四宮先生、僕を心配してくれて、『ありがとうございました』」
僕の「二度目」の返答に、四宮先生は満足そうな笑みを浮かべた。
「次に会うのは年明けの三学期かしら。私は川瀬くんが『どんな表情』で学校に来てくれるのか、君の担任として、私は君に会えることを楽しみにしておくわね」
「何か冬休み期間で困ったことがあればいつでも連絡してちょうだい」という「いつもの頼りになる」言葉の後に、
「川瀬くん、お誕生日おめでとう」
と四宮先生は言葉を重ねた。
そして、四宮先生にもう一度深く頭を下げていると、
「お兄ちゃん!」
と日葵さんが僕に声を掛けてきた。
そんな日葵さんに視線を向けると、
「お兄ちゃん、明日ここを退院したら話したいことがあるんだけど、良いかな?」
と日葵さんは僕に言ってきた。
その表情は真剣なものであり、日葵さんが勇気を出してそう言ってくれたことが僕には分かった。
僕も日葵さんとは話したいことがあったので、「分かりました」と頷きを返し、日葵さんと明日しっかりと話し合うことを約束した。
僕の返事に笑顔を浮かべた日葵さんは、
「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう!」
と言った後、手を振りながら進さんと日奈子さん、四宮先生を連れてこの病室の外へと出て行った。
つまり、今この部屋には僕と愛野さんしかいない。
日葵さんの「気遣い」よってこの空間は作り出されたようにも感じるが、進さんも日奈子さんも四宮先生も、同じような「気遣う」笑みを浮かべていた。
四人の唐突な「気遣い」によって、僕と愛野さんの間には何とも言えない雰囲気が生まれ始める。
この雰囲気に「えぇと…っ」とあたふたする愛野さんの姿がさっきまでと違い過ぎて、
「…あははっ!」
と、僕は我慢できずについ「笑い声」を上げてしまった。
そんな僕の姿を見て、愛野さんは驚いた表情を浮かべる。
それを不思議に思った僕は、「どうしたんですか?」と愛野さんに尋ねた。
すると、
「川瀬がそんなに『笑ってるところ』、私初めて見た」
と愛野さんに言われ、僕はハッとした気持ちになった。
確かに、こうして人前で笑い声を上げたのなんていつ振りだろう。
思い返してみれば、人前で笑顔を見せたことなんてこの二年間一度もなかったような気がする。
しかし、今の僕はあまりにも自然に笑い声を上げていた。
僕は、そんな自分自身に対して「安堵」をした。
その後は、愛野さんとさっきのように話すことができた。
愛野さんは明日も来たいと言ってくれたが、病院の場所が少し遠いこともあり、愛野さんの負担にもなるため「大丈夫ですよ」と声を掛けた。
すると、愛野さんが「…川瀬は私がくるの、嫌?」と瞳を潤ませてしまったので、僕は焦りながら「嫌じゃないです」ということを伝え、何とか愛野さんに納得をしてもらった。
そうして愛野さんと話していると、
「あっ!川瀬に渡したいものがあるのっ」
と言い、愛野さんは自分の学生カバンの中から「あるもの」を取り出して、僕に渡してきた。
汚れないように透明なポリ袋に入れられたそれは、何とも思いがけないものだった。
「…どうして愛野さんがこれを?」
愛野さんによると、どうやら星乃海高校の受験日に僕が渡したままとなっていたようだ。
その話を聞き、僕は愛野さんにこの「ハンカチ」を渡したことを思い出した。
どこかで失くしたものとばかり思っていたが、今まで愛野さんが「大事」に持っていてくれたようだ。
愛野さんは「返す機会がなくて…」と申し訳なさそうにしていたが、むしろ愛野さんが持っていてくれたことでこのハンカチを思い出すことができたので、「持っていてくれてありがとうございます」と僕は感謝を伝えた。
そして、そのハンカチを袋から出して広げると、やっぱりこれは「母さんがあの日にプレゼントしてくれたハンカチ」だった。
このハンカチを見ると、あの日母さんが伝えてくれた「愛情」が思い出され、僕は温かい気持ちとなる。
右隅にある「15」の数字を指でなぞりながら、僕は心の中で二人にこう報告をする。
(父さん、母さん。僕は今日、十七歳になったよ)
まだ分かっていないこともあるし、すぐにはこの「寂しさ」も消えてはなくならない。
だけど、このハンカチを見て、僕の二人を「想う気持ち」は紛れもない本物だと分かったから。
今はこの気持ちで十分だ。
ハンカチを僕に渡した後、愛野さんは「それじゃあ行くね」と僕に伝え、この病室を後にした。
やっぱり名残惜しそうにはしていたものの、愛野さんは最後まで笑顔を浮かべていた。
愛野さんがいなくなった後、病室には静寂が訪れる。
濡れていた患者衣をとりあえず着替え、ベッドに腰を下ろすも、何だか落ち着かないように感じてしまう。
今まではこの静寂を好んでいたはずなのに、「寂しさ」を自覚した今、どうしてもみんなといる時と比較をしてしまい、「…参ったなぁ」と僕は思わず呟いた。
しかし、こんな気持ちは久しぶりだ。
寂しさを感じるほどみんなと一緒にいるのが心地良かったと考えると、この静かな時間も何だか「悪くない」ような気もしてくる。
寂しいからこそ、みんなに会いたい。
寂しいからこそ、みんなと話したい。
寂しいからこそ、みんなの「優しさ」を感じることができる。
昨日の自分とはまるで違う思考に、僕は思わずクスっと笑った。
そうして僕は、悪くない「寂しさ」に身を委ね、いつもとは違う「静かな時間」を読書しながら楽しむのだった___。
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